5 日本に注ぐ熱いまなざし

 

■道草を食わされたバルチック艦隊

 

 わが国の対外関係の歴史でマダガスカルの名が出てくる最初の出来事は、日露戦争の日本海海戦に向かうロシアのバルチック艦隊が、この国で薪炭や水や食料の補給を行なったことである。

 バルチック艦隊は、通説では、現在マダガスカル有数の観光地となっている北西部の島ノシベで補給を受けたことになっているが、これには異説がある。

 異説によれば、バルチック艦隊はまずノシベに寄航し、補給を求めるが、数週間待たされた揚句(あげく)に結局目的を果たさず、それからマダガスカル最北端のディエゴ・スアレス港に移動を余儀なくされ、さらにここでも延々と待たされた上で、ようやく補給を得たとされている。そして、この時、ディエゴ・スアレスに住んでいた一人の日本人雑貨商が、このニュースをボンベイ経由で日本に打電し、これがバルチック艦隊の動静を知る貴重な第一報になったと言われている。

 いずれの説が正しいのか、今となっては確たる文献が残っているわけでもなく、判定し難いが、ディエゴ・スアレスに長期期間派遣されていた国際協力事業団(JICA)の畜産専門家下條道夫氏が、現地で古老の言い伝えなどを丹念に調査したところでは、異説の方が信憑性が高いように思えるとのことであった。ノシベは今でこそ観光地として有名になっているが、当時はいまだ隔絶した寒村に過ぎなかったのに対し、ディエゴ・スアレスの方はマダガスカル随一の良港として、古くから開けていた点から考えても、ノシベでの大艦隊の補給はそもそも物理的に不可能であったのではないかとみられ、どうも異説の方が正しいように思われる。それにしても、この当時、すでに日本人が雑貨商としてディエゴ・スアレスにまでやってきていたという話には、よくぞここまでと驚かされる。

 いずれにせよ、マダガスカルで何週間もの時間を空費させられたバルチック艦隊は、マラリアその他の熱帯病で多くの犠牲者を出し、戦闘意欲の著しい低下をこうむったのであった。

 しかし、この出来事は当時のマダガスカル人ないしその植民統治者が、べつだん日本のことを意識して、意図的に仕組んだものではなかった。当時の日英同盟の存在ゆえに、艦隊はイギリスの勢力圏では補給を得られず、やむなく仏領のマダガスカルに寄航する巡り合わせとなり、それがこのような結果となったに過ぎない。

 

Iwai-Kuniomi