道鏡 ?‐772(宝亀3)

どうきょう

 

 奈良後期の政治家,僧侶。俗姓弓削連。河内国若江郡(現,八尾市)の人。出自に天智天皇皇子志貴(施基)皇子の王子説と物部守屋子孫説の2説がある。

 前者は《七大寺年表》《本朝皇胤紹運録》等時代の下る書に見える。後者は《続日本紀》天平宝字8年(764)9月甲寅条の詔に〈この禅師の昼夜朝庭を護り仕え奉るを見るに先祖の大臣として仕へ奉りし位名を継がむと……〉とある。前者の説は,河内若江郡と志紀郡と両方に弓削氏の氏神式内社弓削神社があり,弓削一族が志紀郡に居住していたことから付会されたものか。

 後者は先祖の大臣は物部守屋と推定されるが,弓削連氏は物部大連氏に隷属して弓を削り製造する部の族長で,守屋の子孫か否かは不明だが,守屋が物部弓削大連と称したことはなんらかの関係を推定させる。

 

 道鏡は僧正義淵の弟子といわれ,若年に木山に入って如意輪法を修して苦行無極と称せられた。747年(天平19)1月の《正倉院文書》に東大寺良弁大徳御所使沙弥としてみえるのが初見。良弁の弟子であったらしい。

 その後禅行が聞こえて宮中の内道場に入り禅師となり,密教経典と梵文に通じた。761年より翌年にかけ孝謙上皇が近江保良宮(ほらのみや)に滞在中,762年4月に病気となった際,道鏡は宿曜秘法を修して看病し,病を癒して寵幸を得た。それを淳仁天皇が非難したので上皇は怒って平城京に還り,法華寺で出家,6月詔して〈天皇は小事のみ行え,国家の大事と賞罰の二権は朕が行う〉と宣した。

 

 天皇を操って政権を握っていた藤原仲麻呂は権勢を失い,764年9月11日謀反を企て,権力を奪還しようとしたが敗れて殺された(恵美押勝の乱)。

上皇は淳仁天皇を廃して重祚した。称徳天皇である。

 道鏡は9月20日大臣禅師に任ぜられて政権を握り,翌年(天平神護1)閏10月天皇の弓削寺行幸の際,太政大臣禅師に任ぜられた。僧侶が最高権力の地位についたのも異例であるが,さらに766年,法王という未曾有の官に任ぜられ,翌年法王宮職が設置された。月料は天皇の供御に准ぜられ,人臣最高の地位に昇った。

 

 道鏡は仏教重視,公抑圧の政策をとり,放鷹司を廃して放生司を置き,猟を禁じ,肉魚を御贄に奉ることを禁じ,貴族の墾田をいっさい禁じたが寺院のそれは認め,百姓の1,2町は許した。

 東大寺に対抗して西大寺,西隆寺を建立し莫大の財を費やした。道鏡におもねるものが各地から奇跡,祥瑞を報告し,献上した。自分からも策謀し,彼の徳政を天がよみすると宣伝した。その最大の事件が宇佐八幡宮神託事件で,769年(神護景雲3)〈道鏡を天位に即かしめば天下太平ならん〉と宇佐八幡の神託の奏上があった。

 これは道鏡の弟の大宰帥弓削浄人と大宰主神中臣習宜阿曾麻呂と八幡神職団の共謀であったが,和気清麻呂が勅使として派遣され,その謀を見破り,道鏡をしりぞけよとの神託を復命,道鏡の企ては破れた。

 

 天皇は770年(宝亀1)由義宮(ゆげのみや)に滞在中病となり,同8月に没した。道鏡は下野薬師寺別当に左遷され,772年その地で死んだ。   

                                 横田 健一

 

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