東北地方に想う!

 

 20世紀は、国民国家の世紀であり、戦争の世紀であったのかもしれない。しかし、21世紀は、まだその残像を残しながらも平和に向かって賢明の努力がなされなければならないのではなかろうか。そういう意味で・・・・21世紀は平和の時代でなければならない。「平和のトランペットを吹き鳴らせ!」・・・・それが私たちに課せられた使命ではないか。

 

 近代科学文明は万能ではない。私たちは、近代科学文明の基礎となったデカルトの哲学から決別して、新しい文明を作らなければならない。もはや「我思う、故に我あり」は古いのである。・・・・「我語る、故に我あり」・・・・、中村雄二郎さんのリズム論こそこれからの新しい時代を切り開いていくのではないかと思う。宇宙との響き合い! 人間の身体性を軽視すること無く、感性を大事にしなければならない。五感・・・、いや第六感をも大事にしなければならないのではなかろうか。

 

 父性本能と同時に母性本能が大事であるように、近代と同時に古代が大事である。私たちは古代の感性を少しでも取り戻さなければならない。そのためには巨木の町づくりも必要だろうしエコロジーネットワークも必要であろうが、もっと基本的なことを言えば、東北など縄文文化の香りの高い地方の風土を大切にすることであり、アイヌ文化など縄文文化を大切にすることである。近代と古代との共生こそ多面的世界をつくるのであり、平和の時代をつくり出すのである。

 

 蝦夷(エミシ)アイヌ説と蝦夷(エミシ)日本人説については工藤雅樹さんお著書「古代蝦夷(エミシ)の英雄時代(2000年、新日本新書)」に詳しい。蝦夷(エミシ)はアイヌと同じであり、そもそも日本人とは違う・・・文化の遅れた民族であるという考えは、律令国家によってつくられた虚像である。数々の発掘調査の結果、ほぼ蝦夷(エミシ)日本人説に軍配があがったようである。まあ、そういうことだろうが、ことの点に関し工藤さんは極めて重要な指摘をしておられるので紹介しておきたい。

 蝦夷(エミシ)日本人説では、東北地方とりわけ東北北部の古代文化が質的に大和の文化の枠の中におさまることが強調され、この点を、東北地方の文化は遅れたものではなかった、という言葉で表現した。そしてこの表現は、東北人の自意識をくすぐり、東北地方の人々によって歓迎されたことは疑いない。しかし、このような理解は、おのずから稲作の先進地域である西日本の文化こそが進んだ文化であって、稲作以前の段階、あるいは後までも稲作が行なわれなかったアイヌ文化は遅れた段階にあるという考えを前提にしていることになる。蝦夷(エミシ)日本人説の大きな問題点として、稲作農耕を行なわない、或いは重点を置かない文化を劣った文化と見なす考えを内包していた。このような蝦夷(エミシ)日本人説の問題点として指摘しておかなければならないだろう。以上が工藤さんの指摘である。

 

  そうなのだ! これからは、近代文明万能という意識から脱却し、縄文文化から学ぶべき点を明らかにしながら新しい文化と文明を想像していかなければならない。その鍵は東北地方とアイヌ文化にある。

 

 

Iwai-Kuniomi