円の発想

 

聖と邪の一体化は、いうなれば絶対的認識。 

白と黒、善と悪、通常行われている・・・こういった認識の仕方は相対的認識と言われ、禅の世界では厳に戒められている。そういった相対的な認識でな くて、・・・・・・・白であり黒である、白でもないし黒でもない、こういう絶対的な認識の仕方が重要である。それが身につかないと、到底悟りの世界には入 れない。

「両頭截断(せつだん)して、一剣天に依ってすさまじ」という禅の言葉は、そういった相対的な認識の仕方を戒めたものである。私は、単に「両頭截断 (せつだん)」と言っているのだが・・・・・。

 

しかし、相対的認識とか絶対的認識とか言っても何だか難しくて私達にはピンとこない。それよりも武光誠先生の「円の発想」というほうが直感的にはピ ンとくるのではないか。

 

私の尊敬する梅原猛先生が、「循環の思想」こそ「平和の思想」であり、これからの世界をリードする思想であると言っておられる。私は今までいろんな 場でそれを紹介してきているが、私は、武光誠先生の「円の発想」というものを知り、これだと思った。「円の発想」というものを知り、「円の発想」と、「循 環の思想」、「平和の思想」、「両頭截断(せつだん)」が一本の線で結ばれたのである。

 

現在(1997年9月現在)明治学院大学助教授をしておられる武光誠先生は、その著書「魔の日本古代遺跡」(PHP研究所)で次のように述べておら れる。

縄文人は、すべてのことは大きな魔のはたらきによって起こると考えた。人間の生と死、晴天と雨天、夏と冬といったものは別々のものではなく連続した 大きな流れの一部に過ぎない。そして、自分と他人を区別すると心が貧しくなるので、みんなが幸福になるように考えて生きよう。人間も動物も植物も、道具や さまざまな自然現象もすべて同じ自然界の仲間だ。

 

縄文人のこのような考え方を、武光誠先生は「円の発想」と呼んでおられるのだが、これは正に「平和の思想」であり、正に梅原猛先生の言っておられる「循環の思想」そのものではないか。

 

この武光誠先生の言われる「円の発想」というのは、おそらく梅原猛先生の言われる「循環の思想」と 同じものであろうが、・・・・・かの有名な古代の祭祈遺跡であるストーンサークルは、こういった 「円の発想」や「循環の思想」とつながり、さらには「端山信仰」につながるものがあるように思われて大変興味津々たるものがある。紀伊の熊野もそうだが、 東北地方には縄文文化が残っている。東北地方こそ21世紀の世界をリードする地域になるのではないかという予感がする。

 

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Iwai-Kuniomi