円仁 794‐864(延暦13‐貞観6)

えんにん

 

平安時代の天台宗の僧。延暦寺3代座主,山門派の祖。慈覚大師という。

 

 

 

下野国都賀郡に生まれる。俗姓は壬生(みぶ)氏。9歳で大慈寺の広智の門に入り,15歳のとき808年(大同3)比叡山に登って最澄の弟子となる。29歳で師の示寂にあうが,それから十数年の間,比叡山にこもり勉学を続けた。

 

835年(承和2)入唐請益(につとうしようやく)僧に選ばれ,838年遣唐使の船に乗って入唐する。840年(唐の開成5)五台山の聖跡を礼拝,志遠より天台宗義を受け,長安に入って大興善寺の元政から金剛界を,青竜寺(しようりようじ)の義真から胎蔵界および蘇悉地(そしつじ)の大法を授かる。

 

845年(唐の会昌5)武宗の仏教弾圧にあい,外国僧追放令のため長安を去り,847年帰国。持ちかえったものは経典559巻,曼荼羅(まんだら)・舎利・法具類21種に及ぶ。旅行記《入唐求法(につとうぐほう)巡礼行記》は在唐10年間の詳細な行状を記し,唐末の社会史や歴史地理の研究に資するところが多い。

 そもそも密教の事相(修法の儀軌)は金剛界・胎蔵界・蘇悉地の3部を大法とする。真言宗の空海は金剛界・胎蔵界の両部をうけたが,蘇悉地は未受であった。ところが円仁は蘇悉地をも相承したのであるから,天台宗密教(台密)の真言宗に対する劣等感はまったくなくなった。円仁は上洛後,朝廷に奏して毎年国家鎮護のため灌頂(かんぢよう)を行うことを請い,849年(嘉祥2)これを初めて延暦寺で修し,内供奉(ないぐぶ)十禅師に任ぜられた。翌年,文徳天皇が即位すると宝祚(ほうそ)を祈る道場として比叡山に総持院を建て,また天台宗の年分度者2人の増加を請い,彼のもたらした金剛界・蘇悉地の法をそれぞれ修学させた。

 

こうして円仁は天台宗の密教化を推進し,積極的に天皇や貴族らに密教の祈を施して台密の教勢伸張に努力するのである。

 

851年(仁寿1)に五台山の念仏三昧(ざんまい)の法を諸弟子に伝授し,初めて常行三昧を修したという。これが不断念仏に変えられて民間にも普及し,浄土教の発展につながった。854年(斉衡1)延暦寺座主に任ぜられ,このころより天皇・皇族や貴族に灌頂や授戒を行うことがしげくなり,〈都下に於て灌頂を蒙り戒を受くる男女一千二百七十一人〉と伝える。864年71歳で示寂。866年慈覚大師の諡号(しごう)を贈られる。著書は《金剛頂経疏》《蘇悉地経疏》《顕揚大戒論》など。

                  中井 真孝 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.


さあ、それでは空海のいわゆる東密と円仁のいわゆる台密とはどう違うのでしょうか。

 

Iwai-Kuniomi