源信と恵心院

  

 

極楽といえば浄土教であり、浄土教といえば源信の「往生要集」である。一般的には、極楽といえば、法然の浄土宗や親鸞の浄土真宗を頭に浮かべるが、その源流をたどれば源信の「往生要集」にいく。宗教に関心をもつ人であれば源信を知らない人はないであろう。紫式部も源信の影響を受け、世界の名著・源氏物語は源信の思想を背景にして出来上がったと言って過言ではない。源信は誠に偉大な人である。しかし、実をいうと、浄土教えの源流をたどっていくとあの・・・・「円仁(慈覚大師)」にいくのである。

 

比叡山の浄土教は、承和14年(847年)唐から帰国した円仁(えんにん)の・・・・常行三昧堂(じょうぎょうさんまいどう)に始まる。金色の阿弥陀仏像が安置され、四方の壁には極楽浄土の光景が描かれていた。

修行者は、口に念仏を唱え、心に阿弥陀仏を念じ行道したのである。この念仏や読経(どきょう)は曲節をつけた音楽的なもので、伴奏として笛が用いられたという。

声美しい僧たちがかもしだす美的恍惚的な雰囲気は、人々を極楽浄土への思慕をかりたてた。

また、熱心な信仰者のなかには、網だの名号を唱えて、正念の臨終を迎え、臨終時には紫雲(しうん)たなびき、音楽が聞こえ、極楽から阿弥陀打つが25菩薩をひきいて来迎(らいこう)するという、噂(うわさ)も伝えられるようになった。

 

この比叡山は円仁によって始まった常行三昧堂(じょうぎょうさんまいどう)の行道が源信に引き継がれ極楽浄土の思想が「往生要集」として確立するのである。

註:円仁については、ここを参照して下さい!

 

源信の影響を強く受け、慶滋保胤(よししげやすたね)「日本往生極楽記」をあらわし、45人の極楽往生者の伝記をしるしたのは984年というから、まあ紫式部の多感でうら若き少女の頃のことである。紫式部は、きっと宮廷の文学者・慶滋保胤(よししげやすたね)の影響を強く受けたに違いない。慶滋保胤(よししげやすたね)が紫式部や泉式部など王朝文学に大変大きな影響を与えたのは間違いない。

註:源信と紫式部との関係については、「紫式部」というページを参考にして下さい。ここをクリック!

 

源信は、そのころ比叡山は横川(よかわ)で天台宗座主・良源について学んでいた。その道場が恵心院(えしんいん)である。したがって、源信のことを、横川(よかわ)僧都(そうず)とも恵心(えしん)僧都(そうず)ともいうのである。恵心僧都・源信は、985年、「往生要集」を著わし、現世の悪や浄土の美や地獄のおそろしいありさまを具体的に描きだし、浄行三昧念仏を唱えることにより、人々に極楽浄土の往生をすすめ、浄土教発展の基礎を確立した。その源信ゆかりの寺が宇治の恵心院である。そしてその恵心院のあたり・・・宇治川の河畔に・・・・宇治十帖の舞台・・・・浮舟(うきふね)の住まいが設定された。

 

 

 

 

浮舟(うきふね)の住まいは、宇治川を隔てて平等院とは反対の東側にある。

ひっそりとさびしいところである。

 

 

寺伝によると、恵心院は、嵯峨天皇弘仁12年(821年)弘法大師の開基で、唐の青龍寺に模したといわれている。寺の名も当時は竜泉寺と呼ばれていたらしい。のちになって、平安中期の寛弘年間(1004〜1011年)に恵心僧都・源信が再興して、以後寺号を恵心院と呼ぶようになった。

 

徳川家、春日の局が・・・・、幼君竹千代、のちの徳川三代将軍家光のために安穏祈願をこめた寺である。そういう縁故から、宇治茶師、上林一門の後援を受けた。

 

本堂には、平安時代後期の木造十一面観音立像が安置されている。宇治に残る数少ない10世紀の作例として貴重である。

 

 それでは、宇治の恵心院に参ろうか!

 参ろう!参ろう!

横川の恵心院はその後で!