私は、今、ようやく唯識でいう「分別知(ふんべつち)」を勉強する段階になった。唯識は、アーラヤ識とかマナ識というものを考えついたことで、その輝きを保っていると思われるが、それでは何故アーラヤ識とかマナ識とかを考えついたのか。「分別知(ふんべつち)」といものにしっかりメスを入れ、哲学的な思考を深めたからではないか。私も、「分別知(ふんべつち)」というものをしっかり勉強して、「劇場国家にっぽん」の構築に役立たせなければなるまい。
唯識は、現在性というか未来性をもっていると思う。私は強く感じるのだが、唯識は、この渾沌とした時代、未来を切り拓いていく力をもっており、これからの未来と繋がっていると思う。私は、現代は現代で、「分別知(ふんべつち)」というものにしっかりメスを入れることで大いに未来がひらけてくると思う。「分別知(ふんべつち)」を勉強するということは、私のように未熟なものであって、それはそれなりに役に立つ。「劇場国家にっぽん」の姿(かたち)が見えてくるのでなかろうか。大きな期待をもって「分別知(ふんべつち)」を勉強することとしよう。
私は、今までマナ識やアーラヤ識についてそれなりに勉強してきた。その復習みたいなことになるが、「唯識のすすめ」(1998年10月、日本放送出版協会)で述べている・・・「分別知(ふんべつち)」に関する岡野守也の説明・・・をまず聞いて欲しい。
『 まず「マナ意識」ですが、「マナ意識」とは、やさしい言い方に置き換えると、「自分というものがあると思ってこだわる心」です。これが「意識」と「五感」に続いて7番目の「識」になるのです。
人間の心の奥に、自分というものにこだわる心があること、つまり「マナ識」の発見が、人類の思想史・精神史上、唯識の画期的なポイントだと私は思っています。私は唯識を学んでこの「マナ識」という概念に出会ったとき、「そうか、人間の根本的な問題は、ある意味でいうと、すべてここに集約されるのだな」といった思いで理解したことを覚えています。
意識と五感は深層心理学でいうところの「意識」でありますから、これをひとくくりにして、唯識ではさらにその奥に、「命を維持しており、命に執着していく心の働きがある」と考えています。また、命を種に譬えて、「命の種を蓄えているような蔵のようなものだ」と考えています。蔵という意味のサンスクリット、「アーラヤ」という言葉を使って「アーラヤ識」と呼ばれています。これが心の底にある八番目の心の働き、識です。
以上、唯識では心を八識に分けて考えるのですが、「意識、五感」、「マナ識」、「アーラヤ識」というふうに、三つの層として捉えるのが判り良いかも知れません。』
さて、唯識では、心の働きというか動きを徹底的に考察し、「三性説(さんしょうせつ)」という・・・まあ言ってみれば認識の仕方を3通りに分けて考えているので、この点を勉強していきたい。以下に、「唯識のすすめ」(1998年10月、日本放送出版協会)から、岡野守也の説明の要点をピックアップする。
『 まず、「ばらばら」でありますが、ばらばらに分け、別れているものとして認識するという意味で、真諦三蔵の訳では「分別性(ふんべつしょう)」といいます。』
『 つぎに「つながり」でありますが、すべてのことはつながりによって起こつている。これは「縁起」と同じことですが、それをもの見方・世界のあり方の一つのパターンとして捉えたときに、真諦の訳では「依他性(えたしょう)」といいます。』
『 つまり、私たちはものを見るとき、まずばらばらというところから考え感じはじめるようですが、つながりがなければ何事も起こらないということもはっきりではなくぼんやりですが、何となくわかっている。指摘されると、ああそうだったなと納得はいく。でも、どちらが先かというと、まず自分があると思う。』
『 自分がまずいて、それが世界の中心のような気がしている。その自分の好き嫌いとか、価値観とか、そういうものが何か世界を計る物差しとして絶対に正しいかのような気持ちがあるようです。そういう自分および自分の好き嫌いや価値観を中心にして、人に接していると思うのです。』
『 ところが、そのようにものを分けて見るのは、全面的に間違いではないけれども、本質的な意味からいうと、やはりそれは間違い・妄想だというのです。』
『 よく考えてみると、私たちは各瞬間、各瞬間で必ずつながりによつて存在している。そのつながりによって存在していることは、私だけのことではなくて、すべての人や物について、全部どうもそのようですから、すべてのものがつながり、つながり、果てしなくつながっているようです。果てしなくつながっているということは、「区別はできるけれども、分離はできない」という形で「一つ」だということにならざるをえないのではないか。
果てしなくつながって、すべてのものが一つにつながっているということになると、つながっていない外側というのはない。つまり「一」に比較するもう一つ別の「一」がない。そうすると、そもそも数の基本になる「一」ということさえいえない。それが「O」「空」という表現になってくるということでした。
それが真実ではないか。これを真諦三蔵の訳では非常に端的に「真実性(しんじつしょう)」といいます。』
『 まとめてみますと、(1)私たちはものを見るときに、ばらばらというふうに見る、この見方が一つ。これが「分別性」とか「遍計所執性」といわれるものです。(2)それから、ものが、すべてがつながっている、つながりなしには何も起こらないという側面、これが「依他性」あるいは「依他起性」です。(3)それからもう一つ、本当はすべては「一つ」というか「空」ということ、これが「真実性」あるいは「円成実性」ということです。これが唯識の「三性説」です。』
如何であろうか? 唯識の三性説(さんしょうせつ)は、岡野守也がいうように、「ばらばら、つながり、一つ」と覚えておくのが良い。私は、「バラバラで一緒」ということをよく言う。これは・・・蓮如上人の500回御遠忌のときのキャッチフレーズになっていた言葉だが、現在の浄土真宗がどのような教義にのっとりそういうキャッチフレーズを打ち出したのか? 私にはよく判らない。山折哲雄が言うように(「蓮如と信長」、1997年12月、PHP研究所)、浄土真宗が蓮如によってまさに世俗化したということなのであろうか。あらゆる宗教が世俗化した今日、宗派を超えて、唯識の三性説のことを言っているように思われてならない。であれば結構なことである。
「バラバラで一緒」・・・という蓮如上人の500回御遠忌のときのキャッチフレーズは人と人との関係を言っているのだろうと思うが、私は、唯識の三性説が教えるとおりものごとすべからくがそうだと思う。
私は先に、「森元総理は神の国発言で国民の失笑を買った。小泉総理は靖国神社問題で国民の失笑を買った。そして、福田官房長官を中心に検討された戦没者追悼施設の構想もまた国民の失笑を買う結果となってしまった。この構想が実現する見込みはほとんどない。構想が未熟で失笑のしろものであったからだ。」と言った。では、靖国問題はどうすれば良いのか。
唯識の三性説の教えるところにしたがってというか、まあ唯識的にというか、「バラバラで一緒」ということでやれば良い。すなわち、戦没者追悼施設は、無宗教の施設としてつくるのではなく、宗教施設としてつくれば良い。何となれば、祈りというものは、本来、宗教的なものである。宗教的でない祈りというものもあるという意見もないではないが、通常はそうである。したがって、戦没者追悼施設は宗教的な施設である方が自然である。ただし、そこには多くの団体が、神道でも、仏教でも、キリスト教でも、儒教でも、何でも良いから祈りの施設をつくれるように、包括的な大規模施設にする。「バラバラで一緒」の精神でやれば良いのである。それが「劇場国家にっぽん」の考え方だ。多は一であり、一は多である。いろんなものがごちゃ混ぜにあるが、戦没者を祈り平和を祈るという施設という点では一つにまとまっているのである。
今、こんなことを考えながら、会津を旅してきた。会津は神々の国である。いろんな神がまさにごちゃ混ぜにある。
なお、私は前に、京都大学100周年の記念講演で河合隼雄が「挙体性起(きょたいしょうき)」ということについて話をしたものを紹介した。そして、その中で次のように結んだ。
「近代科学は、普遍性を求めるものであり、したがってあらゆる存在の明確な区別、言い換えれば、関係性の截断が必要である。華厳宗というものは、そういう近代科学の原理とは全く違うことをやったのであり、近代科学が否定した関係性を重視する。全関係の総和としての存在というものは、名前がつけられないから「無」と言わざるを得ないが、華厳宗ではそれを「挙体性起(きょたいしょうき)」という。生け花というものは、存在が挙体性起(きょたいしょうき)するもっともいい形を求めるものであり、そういう意味で、「存在が花している」のである。こういう日本文化の存在論からすると、存在の現れとしてそこに花がある。すべてのものは存在から出てきた。私は、存在が岩井國臣しているのである。」・・・と。
ここで、全関係の総和ということを言っているが、この関係性を重視するという思想は、華厳宗もさることながらもともと唯識のものである。まあ、私の考えでは、華厳宗も唯識も同じようなものだ。東大寺も興福寺もまあ大体同じような子のだ。したがって、私の認識から言えば、徳一と明恵は密接不可分に繋がっている。また、空海は東大寺の特別教授をしばらくやったことがあって、東大寺は空海の影響を極めて強く受けているが、その点から言っても、空海と明恵と、それに徳一は不思議な糸で繋がっている。
今、こんなことを考えながら、会津を旅している。会津は、徳一と空海が共働して作り上げた世界に誇る仏教の聖地である。
さて・・・さらに、岡野守也は、智恵の成長について、次のように説明している。なかなかのものだ。まことに解り良い・・・。
『 唯識以前の仏教用語と関わらせていうと、一あるいは空ということを見る、つまり分別されない世界を知る智慧ことを「無分別智(むふんべつち)」と呼んできました。翻訳しないで、そのまま漢字に写したのが「般若(はんにゃ)」という言葉で、「般若」=「無分別智」です。「般若の智慧」=「無分別智」をしっかり体験して、区別さえない「一つ」というものの見方を元に、「区別されながらつながっている」世界を見ていく。本当は一つで、区別されながらつながっていることを日常用語で表現するには、「それぞれ」という言い方がいいでしょう。「一つ」を体験する般若の智慧を得た後で、もう一回「それぞれ」ということを見ていけるようになった智慧は「般若後得智(はんちゃごとくち)」と呼ばれます。
ですから私たちは、「悟りとはいわくいいがたいものだ」と考えがちですが、唯識ではいちおう理論でいえるわけです。まずふつうの人間のばらばらの「分別知」があります。その「分別知」が、実はこういうわけで迷いだということを理論的にそれなりに納得してくると、「無分別智」の体験をしなければいけないという気持ちが起こつてきます。無分別の体験をすると、深い意味では「一つ」、「一つ」とさえいえないから「空」ということを実感する。しかしその後でふつうの意識に戻ると、それはただ何もないことでもなければ、何の区別もないことでもない。しつかりとそれぞれの区別はあって、本当こ深くつながり合っているということを知る「般若後得智」に達する。
人類全体の智慧の進化も、分別のできない混沌状態から少しずつ分別ができるようになっていく。しかし分別しているだけでは世界の本当の姿が見えないので、無分別の世界を知って、そしてただ無分別だとやはりまともに暮らしていけませんから、もう一度区別のある世界に戻ってきて、「般若後得智」で生きる、というふうに智慧が進化・発展する。そのプロセスが人類史なのではないでしょうか。
そして今、現代は「分別知」が非常に発達して、限界に達している。だからこそ「無分別智」を獲得し、さらに「般若後得智」を獲得するというふうに、人類全体の智慧のレベルが進化しなければ、これ以上前に進めない。人類は、そういう歴史の段階に達しているのではないか。そしてそういう時代だからこそ、「唯識」が長い間、専門家だけのものであったのが、次第に市民のものになりつつあるのではないか、そんなふうに思っています。』
註1:「唯識のすすめ」(1998年10月、日本放送出版協会)で述べている・・・「分別知(ふんべつち)」に関する岡野守也の説明は、第5章 心の仕組み・・・四と八の話である。全文はここ!
註2:岡野守也の著書・「唯識のすすめ」(1998年10月、日本放送出版協会)の「第4章 迷いと悟り 三の話」がこの「分別知(ふんべつち)」に関する章です。おおむね大事なところは紹介したつもりですが、全文はここ!
註3:京都大学100周年で行なった記念講演で、河合隼雄は「挙体性起(きょたいしょうき)」に触れ、現代科学と全く違うことを華厳宗はやった。融合の哲学、それが華厳哲学であるが、関係性を重視する思想はもともと唯識のものである。かかる観点から言って、華厳宗と法相宗は親戚みたいなものである。河合隼雄の特別講演のエッセンスはここ!