良源 912‐985(延喜12‐寛和1)
りょうげん
元三(がんざん、或いはがんさん)とも呼ぶ
平安中期の天台宗の僧。俗姓木津氏,近江国(滋賀県)浅井郡に生まれる。12歳のとき比叡山に登り,17歳で出家受戒した。
935年(承平5。一説に937年)興福寺唯摩会で義昭と対論して名声をあげ,藤原忠平の知遇をえた。忠平の子師輔も良源と師檀関係を結び,のち良源は摂関家守護の観音の化身であるとの伝承が生まれ,摂関家に尊崇された。
949年(天暦3)横川(よかわ)の首楞厳院(しゆりようごんいん)に籠居したが,翌年師輔の推挙で東宮護持僧となった。師輔は横川に法華三昧堂を建立して良源に付し,荘園を寄進し,その子兼家も恵心院や薬師堂を建立するなど,積極的な援助をした。963年(応和3)宮中清涼殿で行われた宗論(応和宗論)で南都の学匠法蔵らを論破し,964年(康保1)には内供奉十禅師となり,966年第18代天台座主となった。良源は座主として,火災で焼失した東塔の諸堂の再建にあたり,さらに西塔や横川の諸堂や僧房,経蔵,政所屋など,山内の施設を整備した。延暦寺の三塔十六谷は良源のとき完成をみたのである。住山の僧も3000人といわれ,かつてない盛況を示した。970年(天禄1)良源は《二十六箇条起請》を定めて山内の僧団規律とした。僧の奢侈,武装,私刑を禁じ,籠山結界をきびしく守らせ,春秋2季に房主帳を提出させることで生活を律し,また年分度,受戒,灌頂,布醍,安居や山内の法会を厳重にし,日常の修行にいたるまで細かく定めている。さらに毎年6月に行う法華大会に広学竪義(こうがくりゆうぎ)という論義を設けて教学の振興につとめた。
良源の門下からは源信,覚運,覚超,尋禅(じんぜん)など学匠が多数でている。
良源の活動によって延暦寺は他の教団を圧し,末寺や荘園も増加し,世俗的にも強大な存在となった。しかし檀越(だんおつ)であった摂関家の援助に負うところが大きく,良源没後に諸堂や荘園の大部分は師輔の子であった弟子の尋禅に譲られて,教団の門閥化を招く結果となった。972年良源は病をえて遺告を書き,没後の堂舎,所領,法文,法具の処分と葬送の方法,石塔造立のことなどを定めた。
その後981年(天元4)には円融天皇の病気を祈って験あり,行基以後はじめての大僧正に任ぜられている。985年(寛和1)正月3日横川定心房で没した。遺骸は遺言にしたがって横川の北方華芳峰に葬られ,石塔がたてられた。
987年(永延1)慈慧と諡号(しごう)されたが,正月3日に没したので俗に元三(がんさん)大師ともいう。また良源の墓所はさまざまの霊験があり,一山の護法とされ,御妓(みみよう)大師と称された。良源の住房定心房(四季講堂)には画像がまつられ,御影堂として信仰を集めた。良源の信仰は全山におよび,中世には〈めぐり大師〉とよばれて画像を交替に諸院で護持したり,堂内に木像や画像をまつった。
民間でも信仰され,豆大師または角(つの)大師とよぶ護符を,家の門口にはって疫病や災難よけにする風習があり,現在も諸地方で見られる。
西口 順子
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