合併問題と「劇場国家にっぽん」
今わが国経済社会は大変なピンチに見舞われている。しかし、そのピンチである今こそ、すべてを変革しうる絶好のチャンスである。変革というものはそうむやみやたらにやるべきものではない。普段はできるだけ伝統文化というものを守らなければならないのだが、今は違う。今は変革のときなのだ。わが国の地方経済のありようやわが国経済のありようを議論しなければならないし、わが国の社会システムのありよう、わが国憲法のありようを議論するべきときがきたのだ。この機会を逃してわが国に希望に満ちた新しい時代の訪れるわけがない。今こそ絶好のチャンスなのだ。ではどういう社会システムをつくり上げていくのか。そこが問題である。私は、「劇場国家にっぽん」という日本の姿(かたち)を提唱しているのだが、現実の政策において、これを具体的にはっきりさせなければならない。先に述べたように、今市町村合併問題で多くの市町村がゆれている。多くの市町村において侃々諤々熱の籠った議論がなされている。私もいろいろと意見を聞かれることもあり、「劇場国家にっぽん」との関連において「平成の大合併」をどう考えればいいのか。私の考えを少しまとめておかなければならないだろう。
先には合併問題に関する共産党の代表的な見方を取り上げ、私の考えを申し述べた。詳しくは機会を見てまたお話することもあろうかと思うが、現在、地方交付税交付金はひどいもので、乱脈経営といっては言いすぎであるかもしれないが、地方財政の構造改革が必要なのは言うまでもない。もちろん、国の財政構造改革は必死だが、そのなかに地方交付税交付金の問題もあるということだ。
「平成の大合併」を進めようとする政府の考え方についてはすでにいろんな場で説明されているのでここでは省略する。代表的なホームページとしては、**と**と**がある。「平成の大合併」はそういう財政構造改革という側面も当然あるわけで、引き続き財政的に国に頼ろうとする考え方には、先に述べたとおり私は反対である。地方交付税交付金の合理化が今必要だと考えるからだ。合併問題は、それぞれの地域が国に頼らないで財政的にもどう自立できるのかという観点から論じられなければならない。財政的な観点からいえば、行政単位が小さければ小さいほど弱体であるし、行政単位が大きければ大きいほど自立の可能性は高くなる。住民サービスの観点からはその逆であるし、地域住民と行政との一体感というものも行政単位が大きくなればなるほど難しくなる。
地域の活性化にとって、これからは住民の参加が不可欠で、地域住民と行政との一体感というか連携がもっとも大事である。PFI(プライベート・ファイナンス・イニーシャティブ)のことをイギリスではPPPと言っている。パブリックとプライベートとのパートナーシップという意味であるが、要は、行政と民間が一緒にやっていかないとこれからはやっていけないということを言っているわけで、合併問題を考える場合、こういう視点での議論が極めて大事である。「地域の活性化をどう図るのか」というのが私の基本的な問題認識である。そして、私はそういう問題意識から「劇場国家にっぽん」というものを提唱している。以下は、「劇場国家にっぽん」との関連において「平成の大合併」をどう考えればいいのか。私の考えを申し述べたものである。
私は先に述べたように、これからの時代「劇場国家にっぽん」において、私たちは地域でさまざまな人と語り合い、共鳴を覚える。そればかりではない。私たちは、地域の風土と響き合って、豊かな感性を磨いていくのである。地域のプラットフォーム(私のホームページhttp://www.kuniomi.gr.jp/chikudo/seisaku/pfi/plathome.htmlを参照)は、そういったコミュニケーションを楽しむためになければならない。そういう風土との響き合いを楽しむためになければならない。地域を生きる人々と地域に生きる人々が集い、また旅の人々が加わって、コミュニケーションや響き合いを楽しむのだ。そうなのだ。21世紀の私たちこれからの時代は人々とのネットワークの時代でもあるのだが、それを支えるのは地域である。地域の人々であり、地域の風土である。これからの時代は地域の時代である。国家よりも地方、地方よりも地域である。地域が主役でなければならない。地域はコミュニティーといいかえたほうがより適切であるのかもしれないが、要は、これからの時代は、地域が主役の或いはコミュニティーが主役の「小規模分散型ネットワーク社会」である。
「小規模分散型ネットワーク社会」という言葉を使ったのは、昨年の多摩川源流での講演が最初であるかもしれないが、いろんな機会で私はそういうイメージで話をしてきている。「小規模分散型ネットワーク社会」における大事なキーワードは、地域、コミュニケーション、ネットワークである。そういうキーワードで私のホームページ「桃源雲情」の検索をしてほしい。「小規模分散型ネットワーク社会」のイメージが多少はっきりしてくるであろう。まずはその点をお願いしておき、ここでは、先に述べた「中村雄二郎の21世紀国家像」から、私の主張を補強しておきたいと思う。
中村雄二郎は<情報ネットワーク社会>といっておられるのだが、私の「小規模分散型ネットワーク社会」とまあ同じと考えてもらってよい。中村雄二郎は次のように言う。「(中略)・・・・底力のある自己を確立することである。ここで自己というのは、無意識を含まないような意識的自我のことではなく、身体性をともなった自立主体のことである。しかも、このような自己は、情報のシステムあるいはネットワークから離れてあるのではない。むしろ、その結節点として、地球という生態系のうちに育まれ、成立するのでなければならない。ここに、ネットワークのなかにあって抽象的な存在になりがちな個々人の、大自然への着地があり、だからこそ、エコロジーがいっそう切実な問題になるのである。それに、自らが結節点にいなければ、ひとは情報のシステムを自ら使いこなすことはできない。・・・・ (後略)」と。
さらに、「個人はなんらかの拠点或いは場所を持つことなしには確固たる存在でありえない。」と述べ、結論的に、次のように言っておられる。
つまり、「来るべき<情報社会>においては、家族や職能共同体(つまりは家族や会社)とともに国民国家も風穴をあけられ、非実体化されるだろう。そして、それよりももっと機能的な組織のネットワークによってその働きがいっそう代替されることになるだろう。ということは、ここにおいても、底力のある自立した個人、人間的な魅力ある個人の存在こそが重要になり、その働きに期待されるところが多くなるということである。だからといって、組織や場所が必要でなくなくなるわけではなく、組織や場所は、積極的にそのような個人を育て、成長させる働きをもったものでなければならない。」・・・と。
そうなのだ。強靭な個人というものをまた創造性豊かな個人というものを育てるのは「場所」である。コミュニティー、地域である。これが「劇場国家にっぽん」の哲学であり、思想であり、具体的な政策である。
さて、以上の考えをもとに市町村合併の問題を考えたとき、今政府のほうで進めようとしている政策は、逆の方向であるといわざるを得ないのであるが、問題はそう簡単ではない。前に述べたように、今は第三の民主主義改革のときであり、イギリスのブレアにならってPFI、つまり公共サービスといえどできるだけ民間主導でやるのが正しい。そして、グランドワーク(イギリス)、クラインガルテン(ドイツ)、エコミュージアム(フランス)、サステーナブルコミュニティー(アメリカ)など、先進欧米諸国に見習うべきは見習うべきである。それが私の提唱する「劇場国家にっぽん」の具体的な政策でもあるのだが、私も含めてまだ勉強不足である。いずれ日本政府のほうもそういう方向を向いていくと思われるが、残念ながら、今はまだそういう状況にない。根本的に地域の自立をどう図るのかということである。ここが一番肝心なところだ。
したがって、現在の状況から言えば、群馬県・上野村の黒沢村長のような強いリーダがいるところは、その強い指導力のもと、どんどん地域の自立政策を進めるべきで、政府の進める「平成の大合併」に乗っかる必要はさらさらない。どんどん産学官野の交流の場を作り、全国・・・・否世界とのネットワークの結節点をつくってもらいたい。そしてどんどんPFIを推し進めていってもらいたい。しかし、そういう地域の進むべき方向がはっきりしないところでは、いいかえれば、PFIはおろか、プラットフォームすなわちコミュニケーションの結節点の・・・・そういう気配さえないようなところでは・・・・、実際にそういうところが多いのだが、政府の方針に乗っかるのもひとつの選択であるかもしれない。判断のリトマス試験紙は、プラットフォームである。