源流地域の活性化と合併問題

 

 

 私は先に、市町村合併について次のように述べた。

『今政府のほうで進めようとしている政策は、逆の方向であるといわざるを得ないのであるが、問題はそう簡単ではない。前に述べたように、今は第三の民主主義改革のときであり、イギリスのブレアにならってPFI、つまり公共サービスといえどできるだけ民間主導でやるのが正しい。そして、グランドワーク(イギリス)、クラインガルテン(ドイツ)、エコミュージアム(フランス)、サステーナブルコミュニティー(アメリカ)など、先進欧米諸国

に見習うべきは見習うべきである。それが私の提唱する「劇場国家にっぽん」の具体的な政策でもあるのだが、私も含めてまだ勉強不足である。いずれ日本政府のほうもそういう方向を向いていくと思われるが、残念ながら、今はまだそういう状況にない。根本的に地域の自立をどう図るのかということである。ここが一番肝心なところだ。

したがって、現在の状況から言えば、群馬県・上野村の黒沢村長のような強いリーダがいるところは、その強い指導力のもと、どんどん地域の自立政策を進めるべきで、政府の進める「平成の大合併」に乗っかる必要はさらさらない。どんどん産学官野の交流の場を作り、全国・・・・否世界とのネットワークの結節点をつくってもらいたい。そしてどんどんPFIを推し進めていってもらいたい。しかし、そういう地域の進むべき方向がはっきりしないところでは、いいかえれば、PFIはおろか、プラットフォームすなわちコミュニケーションの結節点の・・・・そういう気配さえないようなところでは・・・・、実際にそういうところが多いのだが、政府の方針に乗っかるのもひとつの選択であるかもしれない。判断のリトマス試験紙は、プラットフォームである。』

 

 すなわち、21世紀において大事なことは地域の自立をどう進めるかということで、そういう方向性から言えば黒澤村長の言っておられることが正論であるように思われる。しかし、現実の問題として、すでに過疎が進みすぎて、とても自立なんてできないところが少なくないので、私はいちがいに合併の是非を言いにくいのだが、まだ自立の力が残っているところや外部の応援によって自立の見通しがつきそうなところはできるだけ現状のまま頑張ったほうが良いと考える。私は先に、「判断のリトマス試験紙は、プラットフォームである。」と述べたが、要する

に、地域の自立の可能性の問題である。問題はどうやって地域の自立を図っていくのかということである。以下は、地域の自立の具体的な方法を考えながら、合併問題を論じてみたい。

 

私は先に「町づくり型PFI」について述べた。私は、21世紀の公共事業は原則的にPFIで進めるべきだと考えている。過疎地域を念頭に「町づくり型PFI」を提案しているのだが、私は先に、「町づくり型PFI」を展開する場合の前提条件や「町づくり型PFI」の基本的考え方について述べ、そして「町づくり型PFI」の一提案としてCATVと農村公園のイメージを明らかにしたのである。

私はイメージを示しただけであって、具体的な計画作りは地元の人たちとりわけ市町村がその気にならないかぎりできない。あたりまえであろう。まずは市町村も含めた地元の熱意である。私の見るところ、多摩川の源流では、現在多くの過疎地域がそうだが、ご多分に漏れず若い人が少ない。地域の高齢化が進んでいるので、町村長や議長などの一部の人は別として、人々はもうほとんどあきらめの境地である。あきらめの境地に入るということは人生を安寧に過ごすためには誠に大事なことで、そのこと自体を非難するわけには行かない。しかし、地域を活性化を図るためには、どうしても地元の人たちの積極的な取り組みが必要だ。そのためにどうすれば良いか。そこが問題である。

黒澤村長は、「地方自治は、住民が、己の属する自治体の政治行政の善悪に、利害を敏感に感じる範 囲で行うべきもので、余り広大な地域や大人口の下では、本来実行しにくいものなので ある。」と言っているが、問題は地方自治が実行できるかどうかであって、その鍵を握るのはそこにすむ人々であろう。

その地域にすむ人々の意識が地域を良くしたいと思うかまあ現状のままでいいと思うのか。一般的言えば、世の中は変わってきているので、自分たちの生活もそれに応じて変えていきたいと思うのが人情であろう。時代に対応した生活をしたい、それなりの所得を得たいと思うのが普通であろう。時代の流れはあまり忖度しないで、自給自足的な・・・・まあ言うなれば悠悠自適の生活をするというのも悪くないが、一般的にはやはり時代を生きていくのであろう。そういう意味で、私は、地域の活性化という観点から合併問題を考えたい。地域の活性化ということが問題だとすれば、その鍵を握るのはやはり若者である。

秩父ではまだ若い人が多くてやる気に満ちているけれど、それでもやはり新しい時代を生き抜く動きにはなっていない。地域の自立にはまだまだ多くの問題を有しているということだ。例えば、公共サービスひとつとってもまだ「町づくり型PFI」を展開する条件が整っているとはとてもいえない。地元の人たちのより積極的な取り組みが必要だという点は基本的にはやはり同じだ。若い人を中心に地元の人たちが燃えるような思いで地域の活性化に取り組むようになるにはどうすればいいのであろうか。その可能性を十分吟味して合併問題を考える必要がある。

 多摩川源流地域の小菅村では、「多摩川源流祭り」などいくつかのイベントをやっているが、そういうときには、小菅村出身の若い人に呼びかけ手伝ってもらっているという。そういう特別のときだけでなく、普段もできるだけふるさとに帰ってもらって地域づくりに参加してもらうということは十分可能である。秩父など若い人が数多くいるところは良いが、そうでないところはまず出身者の参加を考えねばならない。しかし、出身者の参加を得るといってもそう簡単ではない。出身者が喜んで地域づくりに参加できる仕掛けが必要だ。さあ、そこで・・・・「劇場国家にっぽん」・・・・。どういう舞台装置と出し物が必要なのか。その必要性と可能性を考えながら若者のエネルギーをどう引き出すかということを考えねばなるまい。合併問題の鍵は若者が握っている。

「劇場国家にっぽん」としてどうしても考えねばならないことは演出家の出番ということである。これからの日本を救うのは源流地域である。そういう認識をもって多くの芸術家に源流地域の地域づくりに参加してもらいたい。そのためには演出家が必要なのだ。著名な演出家でなくて良い。演出家の卵で良い。演出家に舞台装置のことやら出し物のことやらいろいろと教えてもらわねばならない。どうすれば若い人を中心に地元の人が熱い思いをもって地域づくりに取り組むようになるのか。どうすれば多くの芸術家が源流地域にやってくるようになるのか。それぞれの地域で適当な演出家ないし演出家の卵をともかく探しだして相談しなければならない。それはそう難しいことではない。地域の人々の熱意次第である。しかし、合併をするにしろしないにしろ、この際、地域はそれなりの覚悟をしなければならないだろう。

 

それでは、私の考えを述べておきたい。演出家にいったい何を期待するのかということである。もちろん演出のことなど私には判らないのだが、演出家に対する期待として、素人考えであるが一つのアイデアを提案しておきたい。もちろん演出家と相談の結果、こうすればいいああすれば良いというアイデアが出てくるであろうから、それをドンドン実行に移していけば良いのだ。ともかく演出家が地域活性化のリーダーシップを取らなければどうにもならないというのが私の考えである。「場所」の重視と「リズム」の重視」、そして演出家の重視というのが「劇場国家にっぽん」の基本方針である。これによって地域は生き返るし、日本に元気が出てくるに違いない。

デカルトのあまり評判のよくない音楽論「音楽提要」という著作があるそうだ(正念場、中村雄二郎、1999年、岩波書店)。評判の悪いのは、その中に、「太鼓に張られた羊の皮は、ほかの太鼓で狼の皮が鳴りひびいていると、たたかれてもなろうとしないが、それは情念の<共感と反感>のゆえである。」という・・・・、ルネッサンス魔術的なことばが見られるからだそうだが、まあそういう話は興味本位に聞いておくとして、中村雄二郎が言うように、デカルトが再評価されるべきは、楽音と人間精神との関係の理論化である。デカルトの言っていることを少し聞いてみよう。

「リズムは、われわれの精気をいっそうつよく振動させ、その精気はわれわれを運動へ促す。その結果、たとえ獣であっても調教されれば、リズムに合わせて躍ることができるのである。」と。

また、「ゆっくりした拍子はわれわれのうちに倦怠、悲しみ、不安、高慢などの緩慢な諸情念を喚起し、速い拍子の方は喜びなどの迅速な情念を喚起する」と。

 

中村雄二郎のリズム論はなかなか難しいのだが、そのやさしい部分を極々簡単に紹介しておく(共振する世界、エッセイ集成3、中村雄二郎、1993年、青土社)。

「現代社会の特徴は、急速な工業化をはじめとするさまざまな変動によって、人びとの生活のリズムが著しく混乱してきていることである。人間が永い間、自然や文化との接触によって、とくに自覚せずに身につけ、習得してきた生命的なリズム感覚とリズムを通しての根源的なコミュニケーションが失われてきている。そのことによる影響は実に大きく、親子関係の極端な疎遠化から、学校教育の形骸化や医療の非人間化、精神疾患者の増大、などを経て、学問や文化における想像力や想像性の欠如にまで及んでいる。隠れた生命リズムを掘り起こすとともに ,その発現を妨げる<見えない制度>を取り除くことが必要であろう。」・・・・と。 

 

  以上に述べてきたように、リズムは私たちが生きていくうえでのもっとも根本的なものである。隠れた生命リズムを掘り起こすということは「劇場国家にっぽん」の基本的課題である。隠れた生命リズムを掘り起こすということは、私の考えでは、源流地域しかできない。隠れた生命リズムを掘り起こすということは源流地域の持つ潜在的な特性である。しからば源流の持つそういう潜在的特性を生かすためにはどうすれば良いのか。どういう方法で何をやれば良いのかということだ。それが問題だ。

さて、「劇場国家にっぽん」を支える基本的な論理は、「種の論理」と「場所の論理」である。「種の論理」は、まあいうなればものごとの両義性を十分理解するということである。ものごとを善か悪か、白か黒かというように相対的に認識するのではなくて、ものごとというものは善といえば善だし悪だといえば悪かもしれない。そういう絶対的な認識に立つということだ。「場所の論理」は、場所のもつリズムを大事にするということだ。「場所の論理」についてはまだ十分説明しきっていないが、「知のトポス」とか自然、歴史、伝統、文化との響き合いとか言ってきたので、おおよそイメージをつかんでいただけると思う。そのような「種の論理」と「場所の論理」にしたがって・・・、その地域で演ぜられる演劇のストーリーを考える。もちろんここでいう地域の演劇とは普通の演劇ではない。普通の演劇は劇場で演ぜられるのだが、地域の演劇は地域全体で演ぜられる。ワンステージではないということだ。地域の・・・・川や山や森や畑や神社やお寺などおおくの「知のトポス」が舞台である。最終的には地域で演ぜられる演劇のストーリーを考えなければならないのだが、急いではいけない。まだ道具立てもスタッフも決まっていない。

 

 まず道具立てだが、私は先に、農山村公園を提唱し、次のように述べたが、おおむねこれを参考にして、その地域にどういう道具立てが考えられるのか、まずは地元の若手が中心になってよく議論してもらいたい。

『 都市公園とは異なり、土地の囲い込みを行なわない地域開放型の公園。ひとつの集落を中心に山や川を含めて5平方キロメートル前後の区域を環境整備する。適当な数のB&B(イギリス型民宿)を整備し、農園(観光農業)、家畜とのふれあい広場、花園、遊歩道、水辺環境、野鳥公園、ジョギングコース、サイクリングコースなど・・・比較的容易にできるものを整備する。その後、様子を見ながら交流施設を建設すればいい。交流施設では、インターネットを活用し、全国とのネットワークを基に、地域やイベントの宣伝、体験学習、グリーンツーリズムその他の交流事業を行なう。そして、逐次、登山道、カヌー基地、馬場、ホーストレッキングコース、オートキャンプ場、養魚場、渓流釣り場などを整備していけばいい。最終的には、優良田園住宅とリゾートオフィスを建設する。』・・・・・と。今これをやるということではない。そうではなくて、おおよそこういうことをイメージして、地域の道具立てを考えるということだ。

 

次はスタッフである。大事なことは外部の専門家とりわけ芸術家の参加である。金さえ出せば誰でも呼べるし誰の知恵も借りることができる。しかし、今は金がないのだ。ボランティアで外部の専門家の参加をどうすればできるのか。これも地元の人々の意識次第である。地元の人々がその気になりさえすればそう難しいことではない。源流地域には芸術家を魅了してやまない潜在的な特性に満ち満ちているのだから・・・。まずは外部の芸術家にどうすればその地域に遊びにきてもらえるかを考えねばならない。地域としてそういうVIPにどのようなサービスができるのか。地域としてのホスピタリティーが大事である。それぞれのVIPを中心にサークルができるとして、そのサークルごとにどのようなサークル活動をするのか。そのやり方によってそのVIPの参加の程度が決まってくる。

 

隠れた生命リズムを掘り起こすことが肝要である。リズムだ。私は、祭りの太鼓によってサークルを作るのが最初の一歩かと思う。地域には太鼓の名人がいる。大先生、中先生、小先生は何人もいる。是非、太鼓教室を作ってもらいたい。リズム教室だ。そして、全国的な太鼓マニアを探し出して、サークル活動の輪を広げていってもらいたい。祭りには太鼓のほかに、いろんなものが関係している。祭囃子、山車、横笛、人形劇、神社、 祭礼用品等々である。太鼓のリズムを中心にしてそれぞれの研究会というかサークルができるであろう。

全国的なふるさとネットワークと連携してふるさとのよさを再発見することが必要であろう。 天体観測の全国ネットあるようだし、桜や巨木の全国ネットもある。石仏ネットとか岨道峠道ネット、或いは峠ネットというものもある。私が注目しているのに、語りネットワークというのがあるし、クマ関連のネットワークもある。宇宙はリズムだし、自然はリズムである。五大に響きあり。空海がよくも喝破したように、地、水、火、風、空の五大は、みなリズムだ。中村雄二郎が言うように(デザインする意思、中村雄二郎、エッセイ集成6,1993年、青土社)、人形や石仏など・・・すべての形はリズムである。語りもリズムだ。そう考えると、まあ、全国にはリズムに関係するいろいろなネットワーク組織があるものだ。そういうものとの連携はどうしても欠かすことはできない。しかしリズム王国は源流だ。五大の響きがすべてあるからだ。特に、中村雄二郎が言うように、この大宇宙は音とリズムに満たされている。私たちは源流においてはじめて<天球の音楽>や<天球のハーモニー>に耳を傾けることができる。源流はすばらしい。その生かし方・演劇性が問われているのだ。芸術性といったほうがいいのかもしれない。

 

要は、そういう外部の専門家とりわけ芸術家との連携によって、地域の演劇を成功させるためのスタッフを集めなければならない。演劇のストーリーを書くのはその後である。隠れた生命リズムを掘り起こす・・・・・、このことを基本課題として・・・・立派なストーリーを書いて欲しいと思うが、まずは相当の覚悟をもって最初の一歩を踏み出すことだ。若手が集まってどのようにして外部の専門家を探し出すのか、最初の一歩はそこである。そのことについて地域の覚悟というものを決めねばならない。その上で合併問題の議論を進めて欲しい。

 

前途遼遠だが、相当の覚悟をもって最初の一歩さえ踏み出してしまえば、先に述べたPFIの前提条件である「プラットフォーム」とか「リージョナルコンプレックス」というものは比較的簡単に形成できるのではないか。私はそう考えている。要は、地域の若い人をどう指導するか、地域の活性化はただその一点にかかっていると思うのだ。

市町村の合併問題は地域の活性化と関係がある。そして、地域の活性化については、どの程度の人数の若い人たちが活動できるのかということと、外部の人の応援をどういう形で得られるのかということが決め手である。仮に合併しても地域ごとにNPOなどの然るべき組織さえできれば、それはそれで地域の活性化を図ることは可能であろう。しかし、私は、黒澤村長が言われるように、行政の単位というのは、やはり大きもせず小さすぎもしない・・・まあ適正な規模というものがあるのだと思う。

私がプラットフォームがリトマス試験紙だと言った意味は、以上述べたように、若者のエネルギーがどう引き出せるかということとNPOなどの然るべき組織がどうできるかということである。それがむつかしければ、合併するしないにかかわらず、地域の活性化は難しい。悠悠自適の地域を覚悟するしかないだろう。したがって、過疎地域の活性化は、若者のエネルギーをどう引き出すかということとそのために必要な新たな組織をどのように作るのかということにかかっているが、そういう観点から行政の単位というものを議論してもらいたい。

 

秩父の場合は秩父市を母都市として盆地全体が合併するには地域が大きすぎるように思われるのだがどうであろうか。大いに議論を重ねて欲しい。多摩川源流の場合は、地理的或いは地形的な関係から母都市を決めがたいという・・・・、まあいうなれば特殊な事情があるので、合併は難しいようである。したがって、合併を前提にしないで、若者のエネルギーをどのようにして引き出していくのかということとどのような組織を作って外部の力を借りるのかという・・・・、ただただその点に焦点を絞って地域活性化を図るしかないのではないか。

どちらの場合も、ともかく若者の力と外部の力を活用して、どんどん産学官野の交流の場を作り、全国・・・・否世界とのネットワークの結節点・プラットフォームをつくってもらいたい。そしてどんどんPFIを推し進めていってもらいたい。隠れた生命リズムを掘り起こす ということは源流地域しかできない。大いに頑張ろうではないか。

 

 

Iwai-Kuniomi