「冬祭り」の哲学

 

 

 私は先に、山口昌男の言うところの王権のポトラッチ性について触れ、次のように述べた。

『 源氏物語は、そういう日本の天皇制にも現れているという・・・・、両義性の論理構造からなっていて、それはそれですでに宇宙論的構造であるし、さらには主人公の光源氏そのものが王権のポトラッチ性を現している。したがって、源氏物語は日本の天皇制の構造を指し示しているのだと言って良い。

ポトラッチとは、アメリカ北西部で行なわれている冬祭りなどで見られる・・・祭礼時に行なう贈り物分配行事のことであるが、そこではすべての物質的偉大さを否定するためにのみ物の集積が行なわれている。ポトラッチには「両義性の論理」がよく現われていて、王権における両義性はそういう論理から成り立っている。 』

 

 冬祭りについては、中沢新一がその哲学的な思索をしており、それは見事であるのでここにそれを私の言葉で紹介しておきたい。もし私の言っているところに間違いがあるとすれば、それは私の理解不足からくるところからくるものであって、それはすべて私の責任である。

 

 中沢新一の「緑の資本論」は、21世紀の世界が進むべき方向を指し示している注目すべき思想だと思うが、そのその思想の底流には折口信夫のタマ論がある。その折口信夫がそういう考えを持ったのは信州、遠州、三河地方に見られる冬の祭りが元になっているようであるが、折口信夫はアメリカインディアンの「冬の祭り」を知るにいたってようやくそういう考えを確立したのだそうだ。そのアメリカインディアンの「冬の祭り」は、かのフランツ・ボアズの実に克明な記録によって始めて世界に紹介されたものである。中沢新一の著書「熊から王へ」にその一例が紹介されている。

 

タマが衰え漁労や狩猟のできなくなった「ふゆ」は、タマ再生の祭りの季節である。冬になると社会構造は一変し、それまで家族中心の生活であったものが、いくつもの集団からなる祭りのための組織形態に変る。ある年齢に達した青年は、森の中で何日ものまず食わず眠らずの試練を与えられ、それを通過したもの者だけがそういった祭りの組織に入ることができる。そして、それまで秘密にされていた神歌や神話がはじめて教えてもらえる。

「冬祭り」はタマ再生の祭りである。祭りの目的はタマ再生である。おのれの魂と触れ合って、おのれのタマを再生させ、「野生の思考」を抑制する力をふたたび得ることにある。

「冬祭り」は仲間といっしょにある種の試練を受けることによってその宗教的な準備が完了する。これでやっと宗教的な意味を持った行事が執り行えるのだ。「受苦」によってある種の直感が働くようにならなければ宗教的な意味合いはないということだ。

「冬祭り」は神歌や神話を教えてもらって「対称性社会の知恵」をマスターしていく資格を得る。「非対称の知恵」とは「野生の思考」と「宗教的思考」との流動性を確保することである。

 

 

冬祭りで行なわれる「人食い(カンニバル)」という行事は、極めて重要な哲学的意味をもっている。壁をくりぬいた穴から若者が出てきて、「ハップ、ハップ、ハップ(食いたい、食いたい、食いたい)」と叫びながら、「人食い(カンニバル)」に変身していくのだそうだ。夏の間だけは、人間が動物を殺して食べる。しかし、冬の季節には、この関係は逆転して、今度は動物、それは自然ということであり、荒魂(あらたま)であり、戦争につながる暴力であるのだが、今度は動物によって人間は食べられなければならない。若者は「人食い(カンニバル)」になることによって、強大な自然権力を自分の内部に取り入れて、人間、それは文化ということであり、和魂(にぎたま)であり、平和につながる話力であるのだが、その人間を否定する存在にまでたどり着こうとする。それは人間が人間でなくなることを目指している。

「冬祭り」は「人食い」の行事が必要不可欠だ。動物的な行為を行なって人間的な行為というか日常的な生活を否定することが重要だ。精神的には動物になりきらなければならない。

 

人間が人間でなくなる・・・、それはもう何が何かわからない状態である。何でもあり無茶苦茶な世界である。多義的な世界であり、混沌とした状態、カオスの状態である。しかし、哲学的には、多は一であり、一は空である。これは「両義性の論理」であり、「空の哲学」である。これが「野生の思想」であり、「冬祭り」の思想だ。

 

中沢新一は言う。「文化」というものは、つねに野蛮から壊されていく脅威にさらされている。その野蛮は、自然の領域にある。「自然」というものは、つねに「文化」を食い尽くす力を表わしている。「文化」を無力化する力を表わしているのである。そして中沢新一の思索は、「空」までいく。すなわち、ブツダは、その「自然」のもつ無化する力を「空」としてあらためて概念化したというのだ。なるほど・・・・、本来、「空」は野蛮側のもの、無秩序側のもの、周縁部にあるべきものである。周縁部は多であって、無秩序である。しかし、日本の伝統的な考え方からすれば、多は一であり、「空」である。

 

「両義性の論理」や「空の哲学」はわかりにくいかもしれない。中心部と周縁部、秩序と無秩序、文化と自然、人間と動物・・・、それらの違いを認めながら、共和する心が大事である。結婚の心、調和の心、「和を以って尊しとなす」・・・である。熊と人間とは結婚すべきなのである。そうではあるが、それにしても・・・、どうも私たちは、まずは「違いを認める」ところから出発しなけばならないようである。したがって、ここではとりあえず「違いを認める」ことの重要性を強調することとしたい。夏もいいけれど冬もいい。「冬祭り」は実にいいものである。

 

Iwai-Kuniomi