対称性社会の知恵

 

 

 

 「対称性社会の知恵」に学び、2000年ミレニアムにおける哲学をつくらなければならない。中沢新一の「緑の資本論」や「モノとの同盟」は、その ための挑戦である。人類の知恵として、今後、どのような展開を見せるかは判らない。判らないのであるが、少なくともいえるのは、その方向に向かって、わが 国は世界を引っ張っていく力をもっているし、したがって今後そのような国づくりをしていかなければならない。赤坂憲雄が中沢新一との座談で言うように (「東北学Vol5」、東北芸術工科大学東北文化研究センター、2001年10月)、戦後処理というか戦争で自分がやってきたことを対象化できていない現 状で、これをどうしてもやらないといけない。もちろんである。しかし、過去のことをきっちりと批判するためには新しい物差しが必要でもあるし、そう意味 で、中沢新一がその座談で言っているように、次の段階の再構築に入る時期にきている。いったん第二次世界大戦の歴史認識の問題は横に置いて、価値判断の基 準となる哲学を確立する必要があると思う。その座談会で中沢新一は次のように言っている。私はまったく賛成である。

 

 中沢新一いわく。「日本文化をとりかこむ事態は風雲急を告げてきていますので、もうそろそろ次の段階に取りかからなければいけない。日本人をどの ように再認識し、その文化が人間を幸福にするものとなっていくために、次の段階の再構築に入る時期にきていると思います。」・・・と。

 

 私は学者でない。政治家である。哲学のことなどよく判らないが、できるだけ勉強し、自分の言葉で考え、自分の言葉で語りながら、政治の方向を間違 いのないようにしなければならないと思うのみである。国づくり、地域づくりの方向を間違いのないようにできるだけ気配りをしていかなければならない。それ が私の一生の仕事である。「劇場国家にっぽん」を提唱している所以である。大方の賛同をいただきたい。

 

 

 さて、源氏物語を旅しながら、山口昌男のいうところの「両義性の論理」まできた。これがどう西田幾多郎の哲学、私は「空の哲学」といっているのだ が、その西田哲学とどう結びついていくのか。それはこれからの勉強であるが、私の直感としては、ともかく哲学に裏打ちされた新しい宗教が生れてこないと 2000年ミレニアムの展望は開けてこないように思う。多くの哲学者に期待するところ誠に大である。

 

ではここらで中沢新一の言うところの「対称性社会の知恵」について勉強しておきたい。「対称性社会の知恵」については、中沢新一がその著書「熊から 王へ」(講談社、2002年6月)の中で述べており、それを私の言葉で紹介しておくというわけだ。もし私の言っているところに間違いがあるとすれば、それ は私の理解不足からくるところからくるものであって、それはすべて私の責任である。

 

認知考古学という学問分野がる。その認知考古学によれば、われわれ人類は、3万年前の旧石器時代に脳組織に大変化をきたす。脳細胞の構造的変化で、 ニューロンの新しい組織化というのだそうだが、そういう生体学的大変化はその後一度も起こっていないのだそうだ。だから、我々人類は、今のホモサピエンス になったときから3万年以上もその知的能力はそのままできているというのだ。では何が世の中を根本的に変えてきたのか。形而上学的にいえば、二度の革命的 変化があるという。第一次が一神教の成立がもたらした宗教によって思考のしかたが変り、思考能力がある程度セーブされた。自由奔放な流動的知性というもの が、これを中沢新一はレヴィ・ストロースに敬意を表して「野生の思考」と呼んでいるが、そういう自由奔放な流動性知性がある程度宗教によって抑制されたと いうことだ。それがルネッサンスによって解放され、「野生の思考」は装いも新たに「科学」として復活をとげたのである。それが形而上学的な意味での第二次 の革命的大変化である。

中沢新一の考えによれば、3万年もの永い間、王という権威のある権力者はいなく、権威と権力は峻別され、権威の担い手である首長と権力的な側面を持 つシャーマンないし戦士のリーダーは峻別されていた。そして、思考のしかたも自ずと「野生の思考」と「宗教的思考」に分かれており、「冬の祭り」にも見ら れるように、「野性の思考」は日常的な生活を支配し、「宗教的思考」は非日常的生活を支配していた。それらの違いははっきりしているが、違いを認めつつ思 考は流動的である。それは、山口昌男のいう「両義性の論理」に通底するものがあるのであるが、中沢新一はそれを「対称性社会の知恵」だと呼んでいる。

ちなみに、現在の科学文明社会は、いうまでもなくアメリカを中心とする「非対称性社会」であり、一神教は、国内はともかくグローバルな世界におい て、科学文明という「野生の思考」を抑制することはできなくなっている。私は、違いを認めつつ思考は流動的でなければならないと考えているが、多分、中沢 新一の「非対称性社会の知恵」というのも、山口昌男の「両義性の論理」もまあ同じようなものであろう。

 

これからどうすればいいか。中沢新一は次のように言っている。すなわち、「第三次の形而上学的革命がどのような構造をもつものであるか、おおよその 見通しをもつことができる。それは、今日の科学に限界付けをもたらしている諸条件(生命科学の機械論的凡庸さ、分子生物学と熱力学の結合の不十分さ、量子 力学的世界観の生活と思考の全領域への広がりを阻んでいる西欧型資本主義の影響力など)を否定して、一神教の開いた地平を科学的思考によって変革すること によってもたらされるであろう。」・・・と言っている。そうだ。そうなのだ。まったく中沢新一の言うとおりである。中沢新一や延原時行をはじめ多くの哲学 者にその新たな地平を切り拓いてもらいたいものだ。

中沢新一は、一神教の開いた地平を科学的思考によって変革することによってもたらされるであろうというだけで、それ以上のことは具体的にいっていな いのであるが、私は・・・・・、一神教の開いた地平を科学的思考によって変革することによってもたらされるであろう、・・・その新たな地平には、仏教なり キリスト教なり既存の宗教が科学によって装いも新たに息づいている世界が展開されているであろうと考えている。私は、装いを新たにしたその宗教を「哲学的 宗教」と呼びたいと思う。

ちなみに、中沢新一のいう「宗教的思考」は、「思考」が宗教的な側面を持っているということであって、宗教そのものではない。哲学的にみて意味のあ る考え方のことである。したがって、私のイメージする将来あるべき「宗教的思考」とは、学者とりわけ哲学者にも支持されるような宗教がもっている考え方と 同じような考え方といっていいようなものである。したがって、多くの人がそういう宗教をもたなければならないと考えているわけではない。必ずしも宗教にこ だわっているわけではない。しかし、そういう「哲学的宗教」が新たな地平を切り拓いていくであろう予感は持っている。つまり、新たな地平というものは哲学 者と宗教家の働きがあってはじめて切り拓かれていくものであろう。どちらが欠けてもいけない。

 

哲学は理論である。宗教は実践である。実践にもとづく「直感」が大事である。超越者に対する「直感」が働くような実践がないといけないと思う。理論 と実践・・・、それが「哲学的宗教」である。「哲学的宗教」は宗教的哲学者と哲学的宗教家の活躍があってはじめて一般的な宗教となるのであろう。その理論 と実践の仕方は違うであろうが、双方とも専門家であるが故にそれなりのレベルのものが身についていなければならない。しかし、一般大衆は、事情がまったく 異なる。一般大衆は、専門家ではないので、理論も実践もほどほどのものであってやむを得ない。しかし、宗教であるから、理論ははともかく、実践 は・・・・、一般的なものであるにしても、それなりの「試練」というか「受苦」は必要であろう。そこがもっとも肝心な点である。もちろんその実践は非日常 的であってよい。私は、非日常的に「自然」の中で宇宙との「響き合い」を実感する・・・、そのことが大事であると考えている。すなわち、「対称性社会の知 恵」は・・・・、理屈によってではなく、宇宙との「響き合い」という体験の積み重ねによって身に付くものと考えているのだ。修験道もよし。山登りもよし。 これらは今の人びとや自然とのコミュニケーションだが、この他、時空を超えた人びと及び文化とのコミュニケーションもきわめて大事なことだ。ともかく宇宙 との「響き合い」をできるだけ数多く経験することだ。そのための場所づくりが望まれる。

中沢新一が言うように、熊を主題とする神話的思考、これは「対称性社会の知恵」の源泉であるが、この神話的思考の変奏曲は、北東アジアからアメリカ 大陸にまでの広大な空間にまたがって・・・・さまざまな形で存在し、またそれは歴史的にも一万年以上にわたっての永い永い時間にわたって存在し続けている のである。東北でも、その変奏曲の一部が風土となって今なお息づいている。その代表は宮沢賢治であるし、盤司盤三郎などの民話や伝説である。三内丸山遺跡 や大湯のストーンサークルなどの遺跡も何かを語りかけてくる。私たちは、それら東北の風土から神話的思考の変奏曲に耳を傾け、感性を磨き、「対称性社会の 知恵」を自分のものとして身につけていかなければならないのである。

 

「哲学的宗教」は、「冬祭り」を基本にして、新しい哲学でいろいろと着飾られなければならない。先の述べたように、「冬祭り」の基本は、次のとおり である。

 

@「冬祭り」はタマ再生の祭りである。祭りの目的はタマ再生である。おのれの魂と触れ合って、おのれのタマを再生させ、「野生の思考」を抑制する力 をふたたび得ることにある。

A「冬祭り」は仲間といっしょにある種の試練を受けることによってその宗教的な準備が完了する。これでやっと宗教的な意味を持った行事が執り行える のだ。「受苦」によってある種の直感が働くようにならなければ宗教的な意味合いはないということだ。

B「冬祭り」は神歌や神話を教えてもらって「対称性社会の知恵」をマスターしていく資格を得る。「非対称の知恵」とは「野生の思考」と「宗教的思 考」との流動性を確保することである。

C「冬祭り」は「人食い」の行事が必要不可欠だ。動物的な行為を行なって人間的な行為というか日常的な生活を否定することが重要だ。精神的には動物 になりきらなければならない。

 

このような基本的事項を踏まえながらどのような宗教体験をすればいいのか。一般大衆が・・・ということである。これからの宗教は、私のいう「哲学的 宗教」のことであるが、これからの宗教は科学的な装いも新たに再出発するであろうが、それを一般大衆が体験する「場所」を用意しておかなければならない。 このように考えたとき、私は、東北の徳一がなぜか光り輝いて見えてくる。私の耳にはインディアンラブコールならぬ・・・はるかなる・・・「古代からの呼び 声」が聞こえてくる。宇宙のリズムが山々にこだましている。「徳一読経の声」もかすかに聞こえてくるようだ。東北を勉強しなければならない。徳一を勉強し なければならない。神と仏と山々と・・・、東北こそ「哲学的宗教」を体験し得る「場所」として・・・・もっともふさわしいのではないか。これからの国土づ くりの大きな課題ではなかろうか・・・、そんなことを思いながらこれから東北の旅を始めたいと思っている。

 

私の・・・・東北の旅は・・・、数年前にその出発点・「山寺」に立ったのはいいけれど、行く先もわからないまま思案に暮れていた。でもようやく旅の 目標が定まったようである。とりあえず、「盤司盤三郎」の形跡を訪ねるところから始めよう。徳一はあとだ。徳一の勉強をしながら、東北の山も歩いてみたい ものだ。東北の旅は万年の旅である。そこには・・・、はるかなる・・・「古代からの呼び声」が聞こえてくるものと思う。宇宙のリズムが山々にこだましてい るものと思う。まことに楽しみなことである。

 

Iwai-Kuniomi