宇宙性のトポス

 

 

 記紀は神話に満ちた歴史書である。スサノオやヤマトタケルの物語のように、山口昌男のいう「両義性の論理」とか中沢新一のいう「対称性社会の知恵」などの哲学的示唆に富む部分も少なくない。記紀のどの部分が歴史的事実でありどの部分が神話であるかの判断はむつかしい。まったくの創作部分もあるかもしれない。しかし、少なくともスサノオやヤマトタケルの物語から「両義性の論理」とか「対称性社会の知恵」といった「宇宙性」を学ぶことの意義は小さくないようだ。

 また、天皇制はまぎれもない歴史的事実であるからして、天皇性に関する「蝉丸」や「源氏物語」などの文芸作品には事実に根ざした「宇宙性」というものが語られている。それらの文芸作品には、山口昌男がいうように、天皇制の両義性が語られていて、そこから高橋富雄のいう「虚構の真実」(「徳一菩薩」、暦春ふくしま文庫52、歴史春秋社、2000年7月)を読み取らないわけにはいかないだろう。

私は、わが国の天皇制は両義性なるが故に長続きしたと考えている。それは、中沢新一のいう「対称性社会の知恵」が働いているからであると言い換えてもいいのではないか。鎌倉幕府を中心とする武家社会は天皇をまったくの象徴にしてしまったのであるが、ここで驚くべきことに、象徴天皇という権威を温存したまま、鎌倉という周縁部に権力の中心をおいたということだ。権威と権力が完全に分離されたということである。そこには「対称性社会の知恵」が働いていると考えざるを得ない。明恵が光り輝いて見える。

 

前に述べたように、東北の旅は万年の旅である。熊を主題とする神話的思考の変奏曲は、北東アジアからアメリカ大陸にまでの広大な空間にまたがって・・・さまざまな形で存在し、東北でも、その一部が風土となって今なお息づいている。私たちは、それら東北の風土から神話的思考の変奏曲に耳を傾けなければならない。これがもっとも大事なことだ。しかし、国家成立期における融和と殺戮の問題も、わが国文化の両義性を考えるうえで、ひとつの切り口としてやはり勉強しておかなければならないだろう。この点、坂上田村麻呂とアテルイは欠かすことのできない教材だ。私の考えでは、わが国の場合、最終的には、融和政策というか宥和政策が採られたし、そのことが地方の自立を促してそれぞれの地域文化を作り上げ、そのことがかえってわが国全体の発展につながったのではないかと思う。西国の文化と東国の文化、これもわが国文化の両義性であり、両方が補完しあって「宇宙性」を発揮する。このように言って差し支えないのではないか。いやあ・・・、東北で勉強することは実に多そうだ。

 

けだし、「宇宙性」ということを勉強することは大事である。これからは、東北のみならず、全国のできるだけそういった「響き合い」の「場所」・・・・・「宇宙性のトポス」に旅をして、「対称性社会の知恵」を勉強することとしたい。全国は広い。実に広い。西国には東北にない「黒潮文化」がある。「海の道」がある。蓬莱山がある。どのような「響き合い」の「場所」があるのか、興味津々(しんしん)である。

私の予感としては、「対称性社会の知恵」として・・・、わが国場合、最終的には、文化の両義性としての象徴・・・・・天皇性にゆきつくのであろうと感じている。おそらく・・・、わが国の天皇制とその文化は、21世紀の新たな変貌をとげて、「対称性社会の知恵」の結晶として・・・世界に光り輝くのではなかろうか。私はそう感じている。しかし、そういうのはまだ早い。そのことの結論はまだ早い。宇宙との「響き合い」を求めて・・・・、当面、「宇宙性のトポス」をめぐる旅を続けることだ。

 

 

Iwai-Kuniomi