新枕(にいまくら)の陶酔
光源氏のドンファン振りを描いた場面はいろいろあるが、さらに、瀬戸内寂聴の解説を念のために紹介しておく。もちろん「私の源氏物語」(集英社文庫、集英社、1993年6月)からの引用である。
光源氏(ひかるげんじ)はドンファンにはちがいないが、女に熱中する時は、前後を忘れてその女に夢中になる。その情熱に女はほだされ、一時的にもせよ、源氏の情熱に圧倒されて、自分もその熱い渦に巻きこまれて身を誤ってしまうのだ。
六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)を手にいれた前後のいきさつは書かれていず、読者はいきなり、すでに源氏の通い所となっている六条御息所を知らされるわけだが、どんなに、若い源氏が情熱的に御息所に迫ったかは、藤壺中宮(ふじつぼのちゅうぐう)に執拗(しつよう)に迫る源氏の、理性を失った激しい求愛を見れば察しられるというものだ。
物語の上では、十二歳で葵上(あおいのうえ)と結婚して以来、空蝉、軒端荻(のきばのおぎ)、六条御息所、夕顔(ゆうがお)、藤壺、末摘花(すえつむはな)、朧月夜(おぼろづきよ)等の女たちと情交を結んで二十二歳に至っている。その外にも、通い所はあったと書かれているし、女房たちにも手をつけているので、名の上がっている女の三倍くらいの女と交渉があったとみていいだろう。ここにあげられた女たちの中で処女は、葵上、軒端荻、末摘花、朧月夜だった。
中でも朧月夜は、東宮妃に上がる予定だったのだから、その運命は源氏との出逢(であ)いですっかり狂ってしまった。
葵上が死亡した時、朧月夜の父の右大臣は、正妻が死んだのだから、いっそ源氏が朧月夜と正式に結婚してくれないものかと思う。気の強い弘徽殿大后(こきでんのおおきさき)は、とんでもないことだと思い、そんな右大臣の弱気を叱(しか)りつける。
朧月夜の不幸は大后の反対ではなく、源氏自身が、葵上亡き直後、紫上(むらさきのうえ)と新枕(にいまくら)を交わし、その新鮮な関係にすっかり惑溺(わくでき)して、朧月夜や六条御息所を忘れはてたことにある。
そればかりか、源氏は紫上を自分のものとして以来、あれほど切なく恋いこがれている藤壺にさえ、感情が一時冷却したかのように見える。
「かくて後は、内裏(うち)にも院にも、あからさまに参りたまへるほどだに、静心なく面影に恋しければ、あやしの心や、と我ながら思(おぼ)さる」
とある「かくて後」とは、紫上と契ってからということで、内裏にも院にもちょっと参上している時でさえ、そわそわして紫上のことばかり恋しくて、俤(おもかげ)がちらちらするので、我ながら不思議な心だと思ったということである。
院は、桐壺院(きりつぼのいん)と、藤壺中宮がのどかに暮らしていらっしゃるところなのだから、これまでの源氏は、藤壺の身近に少しでもいたいと思い、そこにいることが最上の喜びであった場所なのだ。そこにいてさえ、紫上の俤がつきまとい、心が落ち着かないというのだから、どんなに紫上との新しい関係に、源氏がうつつを抜かしているかが察しられる。
通い所の女たちの所もふっつりと訪れないので、女たちからはうらめしく怨(えん)じた手紙が来る。中には気の毒だと思う女もあるのだが、何としても新手枕(にいたまくら)の物珍しさと、悦(よろこ)びに、一夜も別れてはいられない心境で、源氏はそういら人たちには、
「妻を亡くしまして、心が屈して、世の中がつくづく厭(いと)わしく思われますので、この時期がすぎてからお目にもかかりましょう」
と返事を書いて、紫上のところにばかりくっついている。
妻の死後、すぐ紫上と実質的結婚をするのも図々しいのに、妻の喪をいいわけに、他の女をことわり、紫上といるというのも、ずいぶん人を食った話である。
何が源氏の心をそうまで迷わせるのか。
紫上はまだ女として心身が開花しておらず、むしろ、思いがけなかった源氏の態度に、ひどく裏切られた想いで、源氏を怨(うら)み、憎んでさえいる。
これまで安心しきって、一つ帳台に寝て、肉親のように馴(な)れ親しんできたことまで口惜しく思われてならない。いかにも処女の潔癖があらわれていて、源氏をうとましく思う紫上の心情は、清潔で可憐(かれん)である。
今時の娘たちには、見をくても見られない処女の潔癖と恥じらいが、この頃の紫上にあらわれている。そこが源氏たはたまらなく新鮮で魅力的なのである。
一方では年上の高貴な女性に憧(あこが)れながら、まだ性愛に目覚めない少女の固い蕾(つぼみ)を気長に徐々にはぐくみ花開かせてやる快楽が、すでにドンファンとして恋の場数を踏んできた源氏にとっては、またとない魅力になってくる。
紫上がすねて、ろくに物もいわなくなり、目さえ合わせまいと嫌えば嫌うほど、源氏はわくわくする。男女の現実の性愛のあり方を不潔だと思い、紫上がすっかりふさぎこんでいるのさえ、趣(おもむき)深く、いじらしいことに思われて、いとしさがいやますばかりなのである。
この男がまだ二十二歳だと思うと全く変な気がしてくる。ロマンス・グレーの男が若いギャル相手にそわそわしているようで、何ともおかしい。
ついに源氏は、これまで、どこの誰とも世間には知らせずかくしてきた紫上を、兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)の娘だと世間に公表して、今までおろそかにしてきた裳着(もぎ)の式(女の成人式)も立派にしようと計画する。
世間に、紫上の立場を重いものとしてかばい、自分の妻とするのに正当性を与えようという配慮である。
この場合、当人のみならず世間も、妻に先だたれた源氏の後添いとして考えるのは、まず六条御息所であろう。ところが源氏は、
「六条御息所は、お気の毒だけれど、正妻としたら、きっと、気が重くてうるさくてしっくりいかないだろう。まあ、今まで通り、愛人の立場で大目に見てつきあってくれるならば、何かの折には、頼もしい相談相手にあってもらえるのだが……」
などと虫のいいことを考えている。人には知られていない朧月夜のことも、右大臣がいっそ葵上の後の北の方にと望んできたが、さりげなくかわしてしまった。その後、やはり入内するようだと聞いても、惜しい気はするが、あえて、紫上と引きかえに妻に迎えようをどとは思わない。