源氏物語における贖罪の生活
私は先に、次のように述べた。つまり、「 わが国伝統的な考えからすれば、周縁部の無秩序というものは多義的である。多は一であり、一は無である。無は空である。負の要素に焦点が絞られるというようなことはない。あらゆる負の要素がそこに集中するということはない。空であるからにしてまさに融通無碍である。どうなるかわからないのである。それがわが国における無秩序の内容ではないかと思われるが、この点についてはまた機会をあらためて述べることがあるかもしれない。ここでは断言を避けてそうではなかろうかという程度にしておこう。
光源氏は、聡明でやさしい。宮中の女性たちの憧れの的である。だから、光源氏は、あらゆる負の要素を負わされているわけではない。源氏物語はそういう意味では女性好みの物語であるのかもしれない。光源氏の傍若無人、自由奔放な女性遍歴についてはすでに述べた。この混沌というか無秩序が天皇制という秩序を支えているひとつの要件である。それはわかった。次は贖罪の問題である。 」・・・・と。
源氏物語は、自分の父親の妻の一人と犯した近親相姦のために、贖罪の生活を送らなくてはならなかった皇子の物語である。いよいよ贖罪の生活に入っていこう。
光源氏の宿命は、彼独自のものではなかった。次男の薫(かおる)に彼の宿命は受け継がれるのである。仏教では、因果応報、親の因果が子に報いられというが、実は、薫(かおる)は女三宮の生んだ不義の子であり、その薫(かおる)に光源氏を償ういわれはないように思われるのだが、これはどうしたことか。
紫式部の頭の中には天皇に対する明確な意識があったと思われる。それは天皇の宇宙的なエネルギーについてではないか。先に述べたように、天皇の性的能力は宇宙のエネルギーの発現と同一視された。皇后との聖なる結合は言わずもがな、性的放縦さえ、天皇たるものの過剰な性的能力の発現として容認されたのである。皇子の無秩序は王権のこういった側面の延長である。皇子は天皇に直結しているが故に中心部の秩序的な側面を有している。と同時に、天皇そのものではないが故にその周縁部の無秩序的な側面も有している。皇子はまさに両義的な存在である。薫(かおる)は光源氏の息子として育っているが皇子ではない。性的放縦、すなわち宇宙的なエネルギーは本来備わっていないのである。だとすれば、どのような生き方をすれば、中心部の秩序を守ることができるか。贖罪の生活しか生きる道はない。
光源氏が世を去ってのち、その後を継げる人はなく、匂宮(におうみや)と薫(かおる)とがわずかに高い評判を受けていた。匂宮(におうみや)は皇子である。宇宙的なエネルギーでもって中心を守るのは匂宮(におうみや)である。薫(かおる)は光源氏のやりおおせなかった贖罪の道を選ぶのがいい。紫式部はそう考えたのではないか。源氏物語において、光源氏と薫(かおる)が主人公である。光源氏は光であり、薫(かおる)は陰である。本来、光源氏は晩年において贖罪の生活をしなければならなかったのである。ユルスナールの小説は、花散里(はなちるさと)に関心があり、光源氏の贖罪の生活には関心がない。したがって、あの小説に描かれる光源氏の晩年は私のイメージとはおおよそかけ離れている。「雲隠れ」という巻の名が、遅くとも鎌倉時代のごく初めまであったことが知られている。紫式部がその「雲隠れ」で何を書いていたのか。ひょっとしたら巻の名だけがあって何も書かれていなかったのかもしれない。その前の「幻」の巻は、光源氏が来年に出家する決意を固め、準備をするところで終わっている。光源氏がいよいよ贖罪の生活に入るということだ。源氏物語における贖罪の生活とは出家のことである。紫式部の最大の関心はどうもそこにあったにちがいない。それ以外にどのような贖罪の生活がありうるのかよく判らないが、薫(かおる)はそれを引き継いだのである。それが紫式部の願いであったにちがいない。
いよいよ舞台は宇治である。宇治は、物思いに沈む貴族、薫(かおる)の心ならずも演ずる舞台にもっともふさわしい。宇治には、そのころ、世間から忘れ去られた古宮がいた。光源氏の異母弟、八の宮である。右大臣の孫にあたり、一時東宮候補にまで持ち上げられたが失敗し、今は世の中の人から顧みられることもなく、ひそかに宇治の山里に失意の日々を送っている。北の方が早くに亡くなって京の邸も焼失したために宇治に退き、大君、中の君の二人の姫君を男手ひとつで養いながら、自らは在俗のまま仏道修行にいそしむ身となっているのである。
薫(かおる)は、冷泉院に伺候する宇治の阿闍梨(あじゃり)からこの八の宮の俗聖(ぞくひじり)ぶりを聞き、やがて親交するようになった。薫(かおる)はもともと、現世に憂愁を抱いて道心に憧れる青年であったから、俗ながら聖の心を抱くという八の宮に強い関心を抱いたのである。八の宮を法(のり)の友とする、薫(かおる)の宇治通いが始まった。ちなみに、薫(かおる)は光源氏の贖罪を受けつぐ宿命をしょって生れてきたようなものである。でも、立場上、出家することはとてもかなわない。薫(かおる)の宇治通いはそれも宿命というものなのであろう。
宇治は、京都という・・・わが国文化の中心的空間の・・・周縁部に位置している。地理的にすでに秩序に対する混沌を予想しうるが、事実、いろんな要素が絡み合ってすこぶる多義的な空間になっている。先に私は、わが国では、混沌は多義的な意味でありそれは「空」であると述べた。混沌が「空」であるかどうかについては哲学的な追求が必要であるが、それは今後の課題に残しておいて、源氏物語の最終舞台である宇治は多義的空間すなわち「空」の空間であることを認識していただければ良い。山口流にいって、宇治は両義的空間だといってもよい。宇治についてはすでにいろいろと書いたが、多義的なるが故にまだまだ書き足らない。「空」なるが故に何も書いてはいけないのだとも思う。しかし、私は、宇治についてすでにいろいろと書いた。多分中途半端に終わっているのだろう。宇治の地獄性については書いたが、天国性についてはまだ書いていない。宇治は両義的空間であるので、平等院を書き、浄土を書かなければならない。それが気になって仕方がないのだが、残念ながら時間がない。まだまだ先を旅しなければならない。だから、気になりつつも・・・今まで書いたものをとりあえずもう一度見ていただきたいと思うのである。