源氏物語の宇宙性

 

 

 山口昌男は、その著「天皇制の文化人類学」の中で次のように述べている。

 

 「権力そのものの中に中心化と非中心化の二つのベクトルが潜んでいて、それがさまざまなダイナミズムを惹き起こす。その具体的なありようが日本の天皇制に明瞭に現れている。」・・・と。

 

 源氏物語は、そういう日本の天皇制にも現れているという・・・・、両義性の論理構造からなっていて、それはそれですでに宇宙論的構造であるし、さらには主人公の光源氏そのものが王権のポトラッチ性を現している。したがって、源氏物語は日本の天皇制の構造を指し示しているのだと言って良い。

ポトラッチとは、アメリカ北西部で行なわれている冬祭りなどで見られる・・・祭礼時に行なう贈り物分配行事のことであるが、そこではすべての物質的偉大さを否定するためにのみ物の集積が行なわれている。ポトラッチには「両義性の論理」がよく現われていて、王権における両義性はそういう論理から成り立っている。山口昌男によれば、光源氏は、若くして死んだわけでも、悲劇的な死を遂げたわけでもないが、一面では地獄からの使者であり、そういう意味ではまさにそのような「両義性の論理」から成り立っているポトラッチの主人公であると解することができる・・・というのである。ポトラッチ性という言い方は文化人類学独特の言い方で、世界的な普遍性を含めた言い方になっている。源氏物語は世界的な普遍性をもって王権構造を指し示している・・・と言って良いのである。この意味で、源氏物語は、日本の王朝物語であるが世界的な価値を有している。王権という、政治的宇宙の神話的世界においても、源氏物語の有している価値は大きい。

 

源氏物語は、歴史的側面、心理的側面、宗教的側面、文化的側面などさまざまな側面から語られてきた。しかし、今までどちらかといえば、神話的側面や哲学的側面から源氏物語が語られたことはなかったのではないか。これからは神話的側面や哲学的側面からも源氏物語が語られなければならない。源氏物語のもつ宇宙性というものがもっともっと語られなければならないのである。

 

ここでは、神話的側面から見た場合、源氏物語はどのような位置付けになっているのか、その辺の勉強をしておきたいと思う。源氏物語の宇宙性へのもっとも有効な接近方法だと考えるからだ。山口昌男は、その著「天皇制の文化人類学」のなかで次のように述べている。

 

「王権は中心のみならず周縁性を包括する。王権は俗なる世界においては周縁性を体現することができないから、スサノオやヤマトタケルが演じたような役割の中で、神話の形においてこれを表現する。王を特徴づける諸要素は日常生活の現実における秩序を表象する。一方、皇子を特徴づける諸要素は非日常的現実の意識を表象する。王が、皇子(スサノオやヤマトタケル)の中心性からの逸脱を許容することの中に、両義的意識が表現されている。古代日本の歴史において、皇子たちはしばしば陰謀と近親相姦の罪によって死罪に処されている。古事記は5〜7世紀における内乱の事実を記しているが、その内乱は常に天皇の死後、ほとんど儀式に近い形で闘われたのである。」・・・と。さらには、

 

「こうしてスサノオの神話とヤマトタケルの歴史は、天皇制という制度に対する日本人のフォークロア的かつ歴史的な想像力の形成に決定的な役割を果たした。スサノオはいわゆる御霊信仰と呼ばれる、死者やスケープゴートに対する信仰の守護神である。一方、ヤマトタケルの神話的伝説は日本の悲劇の原モデルを提供した。それは迫害され故郷から追放されて、自身や先祖が犯した罪を浄化するために国中を放浪しなければならなくなった皇子の物語である。アフリカの王権におけると同様、近親相姦は常に皇族や伝説上の英雄や高貴な生れの者たちが儀式的に犯す罪であった。歴史上或いは文学的伝統の中で、皇子は常に社会の規範を破壊する傾向がある。源氏物語はそのもっともよく知られた例である。それは、自分の父親の妻の一人と犯した近親相姦のために、贖罪の生活を送らなくてはならなかった皇子の物語であるが、何故に彼が父親の妻に惹かれたのかといえば、彼女がいまは亡き自分の母親の面影を有していたからなのである。われわれはここにおいて、母親の胎内への退行というテーマに出会うこととなる。というのも、それがスサノオをして罪を犯さしめた原因だったからに他ならない。主人公が、彼自身の意志とは無関係に、彼を排除しようとする状況の中に巻き込まれることによって規範を打ち破るというパターンは、日本の伝統文学や演劇の歴史に共通して見られるものである。」・・・と。

 

さて、そもそも神話についてであるが、神話というものは・・・・、どう言ったらいいのか、言い方がむつかしいが、中沢新一の言い方をそのまま使えば、「怖れの感情を抱きながら読んでいくべき」である。その意味は、神話というものは、よそ者には判らない秘密をもっているものであり、よほど厳粛な気持ちになって読まないと・・・とんでもない勘違いをする・・・ということらしい。だから、神話的な側面で源氏物語を理解するといっても、よほど力量のある学者でないとそれはできないことであろう。私は、先ほど、これからは神話的側面や哲学的側面からも源氏物語が語られなければならないと・・・述べたが、それはそういうことである。「神話ごっこ」は厳に慎まなければならない。ファンタジーはファンタジー、「神話ごっこ」にも入らない。神話は人間が最初に考え出した、最古の哲学だと・・・・中沢新一は言っているが(人類最古の哲学、カイエ・ソバージュT、講談社選書メチエ231)、中沢新一によれば、この人類最古の哲学である神話から現在の哲学が学ばなければならない事柄は実に多いということらしい。

 

なお、ちなみに、中沢新一は好んで「対称性の社会」という言葉を使っているが、これは「神話的思考」という言い方とだいたい同じ使い方だと考えていいし、山口昌男のいう「両義性の論理」もそうである。私がよく言う「両頭截断」も「ハイブリッド思想」もおおむね同じ範疇のものだと考えてもらっていい。

 

Iwai-Kuniomi