・・・随想・・・


 [目次]

  ・盆地
  ・荒川ネイチャーセンター構想
  ・建設省の環境政策について
  ・私と河川
  ・21世紀の素晴らしい川づくり
  ・黒もじの杖
  ・桃源郷への飛翔
  ・両頭裁断
  ・オールランドな山登り



1、盆地



 私は、中国建設局長時代、中国地方の地域づくりと取り組んで、中国山地になんどとなく足を運んだ。そして、中国山地がことのほか好きになり、京都とイメージをダブらせながら、中国山地の盆地に強いあこがれを持つようになった。今想うと、それら小京都と言われる中 国山地の盆地は、ひっそりと落ち着いた雰囲気を持つ、桃源郷のようである。


 私は、京都に生まれ、京都に育った。小学校は、四年生まで安井小学校である。安井小学校というのは、花園と太秦との間にある。蚕の社というのが学校のすぐ近くにあって、そこの湧水池で良く遊んだものだ。水泳も、嵐山で覚えた。嵐山は歩いて行ける距離にあるので、夏は、毎日のように嵐山に泳ぎに行った。嵐山のあの付近は、一般的には桂川であるが、地元では大堰川と言う。渡月橋のすぐ上流に今も立派な堰があって、その水面が嵐山の風景を殊のほか引き立てているが、その付近には古くから堰があってその名が生じたのであろう。


今年は、平安遷都1200年ということだが、さらにその昔、秦の始皇帝の子孫と言われる弓月君(ゆづきのきみ)が、多くの人を引き連れて京都に入ってきたと言われている。それが秦氏の祖先である。秦氏というのは、良く知られているように、機織り、養蚕、潅漑、酒造など殖産の技術をもって、全国にその勢力を拡大していった氏族だ。酒の神様松尾神社は、嵐山のすぐ近くにあるが、秦氏ゆかりの神社である。嵐山の堰も、勿論、秦氏の造営に始まる。蚕の社も、秦氏ゆかりの神社で、松尾神社と同様その歴史は誠に古い。蚕の社で遊び、大堰川で泳いで育った私である。私の歴史好きの源流はこの辺にあるのかも知れない。
 ちなみに、太秦の広隆寺(峰岡寺)について言えば、あの弥勒菩薩は、秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から拝領してお祭りしたものである。秦河勝は、聖徳太子の側近だが、物部守屋との戦いで守屋の首を打ち落とす功績を上げたと言われている。その功績により、あの弥勒菩薩を拝領したのかもしれない。小説「斑鳩の白い道のうえに」に描かれている守屋との戦いに挑む聖徳太子のあの勇姿は、又河勝の姿でもあったであろう。


 京都は、身近な所にごろごろ歴史が転がっており、歴史好きにとってはたまらない。いろんな想像をかき立ててくれる。何となくロマンを感じるのは私だけではなかろう。私は、今も京都に帰ると何となしに落ち着く。それは、京都の地形が盆地であり常に周りの山が見えるということもあるが、空気にも歴史の重みが感ぜられ、それゆえに落ち着くということがあるのだろう。
 今年、京都の北山に今西錦司さんのレリーフができたらしい。今西さんはこよなく北山を愛し良く出掛けられていた。私など今西さんを引き合いに出すのも畏れ多いが、私も北山が好きで、北山が私の身体にしみついている。私の登山も原点は北山だ。北山の良さは、勿論山の高さでもなく、原生林と言うような深山の趣でもない。
裏山・里山としての気楽さがあり、七重八重と遥かに続く山並みの見事な風景がある。十分ロマンをかき立ててくれる。「山高きがゆえに貴からず」というところか。


 盆地というものは、そこに古くからの歴史と文化があり、身じかな自然がある。京都がそうだし、盆地に暮らしていると、自ずと歴史・文化や自然が身にしみつき、歴史・文化や自然と一体になれるということだろう。
自ずと地籟(らい)を聞き、天籟(らい)を聞いているのだろう。私の歴史好き、山好き、哲学好きは、そんなところからきているのかもしれない。

註; 歴史については、私はいろんなところで触れているので、

是非、ホームページ内検索で歴史と入れて検索してみて下さい。

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2、荒川ネイチュアーセンター構想



 奥秩父は、荒川、多摩川、笛吹川、千曲川の源流である。その広大な山地には、2,000m以上の山が20もあって、北アルプス、南アルプスに次ぐ高山地帯を形成している。その、奥深い森林と深く刻まれた渓谷の大自然たる姿はすばらしい。私のこれからの人生で、奥秩父の山や谷をできるだけ歩きたい、そのような想いから、一昨年、マルチハビテーションよろしく秩父市に居を定めた。当分金帰月来の週末だけの生活にならざるを得ないので、地域に融け込むにはまだまだ時間がかかりそうであるが、秩父は、その歴史も古く、伝統・文化が豊か、人情も豊かであるので、奥秩父の大自然もさることながら、里の生活にも大いに胸をふくらませている。


 私は、広島時代、地域づくりにおいてロマンを持とう、或いは我々の生き方においてもロマンを持とう-----、そんなことを言い続けながら、「交流活充運動」という運動を展開してきた。活充という言葉は、一寸耳慣れない言葉であるが、経済的な側面での地域活性化と地域の人々の精神的な充実感、それらを同時に表す言葉であって、活性化の活と充実の充を合わせて作った新語である。すなわち、中国地方で今進められている交流活充運動の、活充という言葉には、従来ややもするとそれに偏りがちであった経済的な側面だけでなく、地域の伝統・文化に根ざしつつ、精神的な心の充実感というものを追及したい、そういう願いが込められている。したがって、交流活充運動が目指す「ロマンある地域づくり」とは、その地域の自然的特性、歴史・文化的特性にもとづき、人々の感受性の深層部分をふるわせるような気配りのされた個性ある地域づくりということになろうかと思うが、私の考えでは、そのようなロマンある地域づくりは、歴史も古く、伝統・文化が豊か、人情も豊か、しかも荒川を中心とするすばらしい自然のある秩父のような所でこそ可能性が高いのではないか。勿論、そのような自然と歴史・文化だけでは経済的な問題が解決される訳のものでもない。そこにもうひとつ何か決め手となるものがなければならない。それは何か。四全総でも言っているが、やはりそれは「交流」というものではなかろうか。


 秩父青年会議所が進めようとしておられる「荒川・ネイチュアーセンター構想」はすばらしいと思う。水と緑は自然の二大要素であり、しかも水と緑は互いに密接な関係を持っている。川をみていれば山の様子もおおよそ見当がつく。山が荒れていれば川も荒れざるを得ないし、昔から治山治水というように、川と山は密接不可分な関係にある。川を考えるということは山を考えるということであり、しかも、梅原猛さんが言われるように、山と海という恋人どおしを結びつけるものは川である。川は重要なエコロードと考えることもできよう。そのように考えると、川は自然の最たるもの、そのように考えることができると思う。
 さらに、川の流域というものは、洪水や水資源という面はもとより、経済や文化の面からみても一つの運命共同体をなしている。川は人々の暮らしと特に密接な関係を有している。上下流交流という言葉があるように、地域の交流や人々の交流というものを考えたとき、川という場は交流の場としてもっともふさわしいのではないか。
 自然にふれあい、楽しみ、そして考える、そのような場としての川。しかも、上下流交流を始めさまざまな交流の場としての川。川がそのように活用されればすばらしい、私はそのように考え、全国的な運動を展開しつつあるところであるが、秩父青年会議所が今取り組もうとしておられる「荒川・ネイチュアーセンター構想」については是非実現してもらいたいものだと考えている。秩父青年会議所のみなさんのご活躍を心から願っている。



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3、建設省の環境政策について



 本年1月13日、建設省は、環境基本法の基本理念を踏まえ、これからの環境政策の基本的な考え方として[環境政策大綱]を発表した。


 この政策大綱は、環境基本法の基本理念はもとより、平成4年12月に設置された「豊かな環境作り委員会」での議論を踏まえ作られたものである。その委員会は建設大臣の私的諮問機関として設置されたものだが、委員長は日本学術会議や中央環境審議会の会長・近藤次郎先生であり、これから建設省が進めるべき環境政策の方向について、多角的かつ具体的に活発な議論が行われた。当時私も河川局長として議論に参加させて貰ったが、新しい視点での白熱した議論に大変身の引き締まる思いをしたものである。
 この政策大綱は、21世紀初頭を視野においた、建設省における環境政策のこれからの基本となるものであって、当然、河川環境についても今後これに基づいてさまざまな取り組みが必要かと思われる。


平成6年度も、河川環境に関するいくつかの新規施策が打ち出された。そのうち私が特に注目しているのは、ふるさとの川整備事業の創設、総合浄化対策特定河川事業の創設、都市小河川改修事業や準用河川改修事業の制度拡充である。
 ふるさとの川整備事業は、地域の自主性を活かしながら地域づくりと一体になった川づくりを進めようとするものであるが、従来モデル河川に限定して行ってきたものを一般化して、いよいよ本格的に全国展開を図ろうとするものである。


 昨年打ち出された清流ルネッサンス21は、水質浄化に対する市町村及び住民レベルの自主的な取り組みに対し河川管理者も然るべき支援をしようとするものだが、その内容は法河川の中で行う浄化に限られていた。しかし、総合浄化対策特定河川事業制度は、特に必要のある場合、法河川に流入する普通河川においても浄化が行えるようにしたもので、必ずしも清流ルネッサンス21のみを念頭に置いたものではないけれど、私は、総合治水対策にも匹敵する画期的な事業制度が出来たと思っている。
 都市小河川改修事業や準用河川改修事業の制度拡充は、地域の主体性や個性を尊重しきめ細かい河川環境の保全・整備を進めるため、市町村長が実施する河川改修事業を拡充して行こうとするものである。
 私ども河川環境管理財団としても、これら新規施策を念頭に置きながら、地域におけるコミュニケーションのあり方について研究するなど、新たな取り組みが必要ではないかと考えている。



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4、私と河川



 自由民主党、社会党、新党さきがけの連立政権発足以来、衆議院の解散総選挙が取りざたされて久しく、候補者は勿論のこと私たち関係者も含め何となく落ちつかない日々を過ごしてきたが、それもやっと終わった。私は、国会議員としてちょうど二周目に入ったところでもあり、ぼちぼち自分のペースをつかみながら、私のライフワークである「川づくり」の活動のほうも少しづつやっていきたいと思っている。私のライフワークが、政治活動とどう関係するのか、その辺はまだ私にも良く判らないが、決して無関係でないことの予感はある。大方のご理解とご協力を切望する次第である。


 今、世界は、新しい発展と秩序を求めて大きく変貌しつつある。わが国も当然その流れに巻き込まれ、今正にカオスの状態だが、新しい秩序を求め、私たちはこぞって「変革と創造」に取り組まなければならない。新しい秩序というものを創り出すための「変革と創造」は、政治の問題でもあり行政の問題でもある。この度の総選挙を視るまでもなく、今、行財政改革が大きな政治課題になってきており、立法府の責任は誠に重大である。しかし、今後行政府が行財政改革にどういう姿勢でどう取り組んでいくのか、そのことの重要性を軽視してはならないであろう。
 今、規制緩和の大合唱が行われそして官僚批判が横行しているが、私は、その行き過ぎを大変心配している。私たちがこれから創り出していかなければならない新しい秩序というものは、規制緩和の大合唱、つまり「規制は悪である」というような風潮からは決して生まれ出てこない。又、政治家がリーダーシップをとるにしても、官僚の協力がないと行財政改革なんてものは到底できっこないのではないか。
 今大事なことは、政治と行政との連携である。これからわが国をどういう国に作り上げていくのか、共通の認識に立ってどう連携していくかということだ。言い換えれば、どういう理念をどう共有するかということである。ある部分お互いの信頼関係によって結ばれているということがないと、行財政改革というような大仕事はできる訳がない。第二次橋本内閣もおおむね順調に滑り出した。今後、行財政改革は、政治と行政の連携によって着実に進められていく筈である。


 さて、私は、21世紀のキーワードとして、共生、コミュニケーション、連携という三つの言葉を考えている。この三つの言葉は、少しずつニュアンスが違うが、哲学としては同根の言葉であって、共生社会を目指そうと言っても良いし、コミュニケーション社会を目指そうと言っても良いし、連携社会を目指そうと言っても余り大きな違いはない。
 私は、政治活動の傍ら、今までの延長線上の活動として、多くの仲間と「川づくり」の運動を実践している。その際のキーワードは、共生、コミュニケーション、連携だ。私は、リージョナルコンプレックスと言っているが、イギリスのグランドワークやフランスのエコミュージアムに近いものをイメージして貰えばいいのかもしれない。


 私は、これからの「川づくり」は、地域とのかかわり合いの中で進められなければならないと考えており、技術系だけでなく、地域における自然系、文化系、社会系というものが重視されなければならないと考えている。河川管理者と地域とのコミュニケーションシステム、連携システムをどう育てていくのか。
 私は、多摩川がホームグランドであるので、多摩川でそういう実践活動を行いたいと考えている。そして出来ることならば、コミュニケーションがこれからのキーワードでもあるので、パソコン通信やインターネットをフルに活用しながら、私の理想とする「川づくり」の運動を全国的に押し進めていきたい。
 政治と行政との連携により、今後着実に、行財政改革が進んでいくと思われるが、おそらく、それは、共生社会、コミュニケーション社会、連携社会を目指すものになるであろう。そうだとすれば、それは、私が押し進めようとする「川づくり」と決して無関係ではない。そういった時代の変貌というものを肌で感じながら、流域の自然系、文化系、社会系をも考えた、ロマンある「川づくり」というものを官民力を合わせて進めていきたいものだ。



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5、21世紀の素晴らしい川づくり



 昭和63年に「河川整備基金」が設立されて以来、はや6年の歳月が経過いたしました。この間、全国の地方募金委員会をはじめ、企業や国民各層にわたる幅広いご協力により、お陰様で、この5月末現在で237億円余の基金を造成することが出来ました。ご協力いただいた各位には、心から厚くお礼申し上げる次第です。


 皆様方ご承知の通り、これまでの営々たる治水事業の積み重ねにもかかわらず、治水施設の整備水準はいぜんとして低く、わが国のほとんどの地域において、災害や渇水の危機から免れ得ないのが実状であります。したがって、わが国は、真に豊かさを実感でき、安全で活力ある生活大国の実現に向けて、治水施設の更なる充実はもとより水害に強い町づくりなど総合的な治水対策の推進を図らなければなりません。


 同時に、河川環境は、地域の自然そのものであるし、人々の生活文化や精神文化の形成の大きな役割を果たしてきており、うるおいのある美しい河川環境というものを回復または創造していくことも、現下の緊急かつ重要な課題になっているかと思います。


 そして、水害に強い町づくりなどの総合的な治水対策、或いはうるおいのある美しい河川環境の回復及び創造、これらについては、いろいろと地域の皆さんや市町村の想いもあるし、地域の皆さんと市町村と河川管理者とが有機的な連携のもとに進めていかないとなかなかうまくいかないものと思われます。


 本基金は、従来の河川管理者サイドだけでは対応が困難であったそういう諸問題についても積極的に対応していこう、そういうことを主眼においております。つまり、本基金は、市町村はもとより、企業や国民各層の河川に対するいろんな想いと活力を河川行政に有機的に結びつけることにより、21世紀に向けての素晴らしい川づくりを進めていこうとするものであります。その辺の期待からこれだけの多額の浄財が寄せられているのであって、私ども関係者としては、本基金の運用に当たってはもちろんのこと、あらゆる場面においてそう言った期待に応えていかなければならないと思います。


 私は、地域の活性化のため、個性ある地域づくりというものがいよいよ重要になってきていると思いますが、「個性ある地域づくりとは、その地域の自然的特性、歴史・文化的特性に基づき、人の感受性の深層部分を震わせるような気配りのされた地域づくり」であります。河川とか水というものは、自然のもっとも基本的な要素であります。また、地域は歴史的に河川とともに発展してきたという側面が非常に強いので、そういう河川と地域との永いかかわり合いの中で、地域の歴史と文化があると言えます。したがって、個性ある地域づくりにおいて、どのような川づくりをし、それをどのように活かすかということは極めて重要なことでありましょう。私ども河川環境管理財団は、そういった観点に立って、地域の皆さんと一緒になって、21世紀に向けての素晴らしい川づくりに邁進していきたいと思います。


 河川整備基金の造成及びその活用につきまして、今後とも引き続き皆様方の絶大なるご支援とご指導をお願い申しあげますとともに、私ども河川環境管理財団の今申し上げましたような取り組みにつきましても、皆様方のご理解とご支援を切にお願い申しあげる次第であります。


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6、黒もじの杖



 奥秩父は、荒川、多摩川、笛吹川、千曲川の源流である。その広大な山地には、2,000m以上の山が20もあって、北アルプス、南アルプスに次ぐ高山地帯を形成している。その、奥深い森林と深く刻まれた渓谷の大自然たる姿はすばらしい。私のこれからの人生で、奥秩父の山や谷をできるだけ歩きたい、そのような想いから、一昨年、マルチハビテーションよろしく秩父市に居を定めた。当分金帰月来の週末だけの生活にならざるを得ないので、地域に融け込むにはまだまだ時間がかかりそうであるが、秩父は、その歴史も古く、伝統・文化が豊か、人情も豊かであるので、奥秩父の大自然もさることながら、里の生活にも大いに胸をふくらませている。


 山登りにもいろいろあるようで、今西錦司さんによれば、いわゆる山きちがいにも地域主義と全国主義というのがあると言う。地域主義というのはある地域の山を全部登ってからまた次の地域の山を登る、それに対し全国主義というのは全国の山を次々と計画的に登る、それぞれそういう登り方をいうのだそうだ。今西錦司さんはいうまでもなく全国主義で、その全国1200座登山はあまりにも有名だ。今西さんの山登りは、常に「未知なるものに対するあこがれ」というものが基本になっているのだろう。いずれにしろ1200座というのは前人未踏の大記録だ。私は、京都大学学士山岳会(AACK)や日本山岳会の会員だと言っても、今西さんはおろか私の仲間と比べてさえそれほど山に行っている訳ではないし、今西さんを引き合いに出しながら自分の話をするのは誠に恐れ多い。でも話の都合上許していただきたいと思う。私の場合は、若干の例外を除き、ほとんど奥秩父に焦点を絞ってこれからの山歩きをしようと思っている。今西さんのように奥義を究めている訳でもないので、何度も同じ山を登らないとその山の良さが解らないのだ。しかし、私の場合も、常に何か新しい発見があって、その都度ワクワクしていることに変わりはない。まあ、これも広義の地域主義だと思うが、私のような山登りがあってもいいだろう。


 鹿児島県に栗野岳温泉という温泉がある。鹿児島空港から高速道路を北に行って15分ぐらい、栗野インターで降りる。川内川の上流、もう宮崎県の県境に近いところだ。温泉は、栗野岳の中腹にあり、昔の湯治場だが大自然の中の実にいい温泉だ。西郷隆盛が気にいっていたのだそうで、旅館がただ一軒、南州館という。湯の種類がいくつかあるが、蒸風呂がとてもいい。裏に地獄があって、その蒸気は鹿児島空港からもよく見える。


九州地方建設局河川部長時代、あれは昭和62年の晩秋であったであろうか、栗野岳に登ろうとして栗野温泉に泊まった。その夜、栗野町長の薬師寺忠澄さんと水上勤の「ブンナよ木から降りてこい」に纏わる話などをしながら食事をしていた。突然薬師寺さんに電話があり四元義隆先生が来られたとのこと。町長はとんで帰られたが少し経って又来られ「四元先生があなたに会いたいと今来られた。すぐ玄関まで出て欲しい。」とのこと。私はびっくりしたがともかく玄関まで降りていった。もちろん初めてのご挨拶である。四元先生は、今西錦司さんとは哀歓照らす仲で、会って話をしているとどちらもお互い勇気が沸いてくるという。ともに超一流の人物ならではの気合だ。


四元義隆先生は、一般にはあまり知られてないかもしれないが歴代総理の指南役と言われた方で、吉田茂がフランスに外遊中四元先生を呼んで次の総理について意見を聞いたと言われている。四元先生は「池田がいいでしょう」と言われそれで池田勇人が総理になった。そんな逸話が残っている。四元先生の話はそれぐらいにしておくが、ともかく大変な人物が私に会いに来られたのだ。京都大学の山岳部で私が今西先生の後輩になるというのがその理由だったらしい。そして、明日は君と一緒に栗野岳に登ろうということになって、翌日御一緒したのだった。

 今年の5月の連休にも栗野岳に登った。四元先生の直弟子である薬師寺さんや四元先生とは東大柔道部の後輩に当たる農林省の黒沢君(構造改善局次長)など何人かと一緒だった。四元先生は御自分の庵で待っておられたが、薬師寺さんは四元先生のために黒もじの杖を切ってこられた。黒もじの杖についてはこんな話がある。・・・・・・・どの山であったろうか。


今西さんは、いつものように頂上でウイスキーのポケットびんを空けその後気持ちよく下山していたのだそうだ。すると何かが後ろからしきりに今西さんを呼び止める。で後ろを振り返るとそこに黒もじの木が今西さんの杖にして欲しそうに立っていた。それが今西さんの黒もじの杖だ。・・・・・今西先生はその黒もじの杖を愛用し、四元先生と会う時もいつも持っておられた。四元先生はそれを懇望されたのだそうだが、今西先生はそれだけは絶対に手放されなかった。どんな大事な人でもそりゃあ手放せないだろう。薬師寺さんはそれを知っておられ四元先生のために切ってこられたと言う訳だ。薬師寺さんの四元先生に寄せる深い敬愛の情を感じる。


 その話しを想い出しながら私が思うのは、「今西錦司の黒もじの杖」つまり直感についてだ。今西錦司さんは、直感力について「山に登ると、目、耳、鼻など五感が鋭くなる。山という別世界、いわば非日常の世界に入ったとき、人間は日常生活では緊張してない部分が緊張し、その世界で働かなければならないように五感が働いてくれるものだ。今、日本ならずアメリカ辺りでも座禅やヨガが流行しているが、これも非日常の世界に触れて自分の体と心を研ぎ澄ますという意味で、山の世界に通じるところがあると思う。」こう言っておられる。私も、山のお蔭だろう、割に直感が働く方かも知れない。写真を取るとか、植物採取をするとか、バードウオッチングをするのもいいとは思うけれど、ともかく五感全体を働かし身体全体で自然を感じるという行き方のほうが私は好きだ。そんな山登りが好きなのだ。これからもせっせと奥秩父の山に登ってせいぜい五感を磨きたいと思っている。



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7、桃源郷への飛翔



 私は、民話がとても好きだ。たいていは夜寝るときに読むのだが、枕元近くの壁際にいつも二三冊の民話の本が置いてある。今は、十冊ほどの本の中に日本の伝説(上)(松谷みよ子)、利根川のおばけ話〔加藤政晴〕、中国神話伝説集〔松村武雄編、伊藤清司解説〕の三冊が混じっている。全部のうちどれを読むかはその時の気分次第だが、歴史ものや民話の本を読むことが多い。民話の場合だとたいていは一つか二つ読むと眠くなってしまう。ほぼ一月ごとに本が変わるが、同じ民話を何度も読んでいるわけだ。誰でも人生のうち何度か深刻なスランプや苦しいときがある。そういう場合、私は民話を読んでどれほど気分が和らいだことであろうか。民話は音楽と同じだ。


 民話はどれもいいが桃源境の話を読むことが多い。日本の伝説〔上〕には「磐司と桐の花」と「かくれ里」が、又中国神話伝説集には「武陵桃源」が入っている。 日本のものも中国のそれと基本的には同じ内容だが、民話の世界も中国の影響を受けているということだろうか。その辺の事情は私に解らないがともかく夢があっていい。私は、山に行くたびに感心するのだが、我が国は、本当に山の奥まで人が住んでいて、山里がいたる所に見られるのだ。私は山が好きなので、山里にはある種のあこがれを持っている。そしてそういう山里のイメージと結び付いて、私にとって、桃源境は正に夢の中のあこがれでもあり、同時に現実の理想の地域像にもなっているようだ。夢と現実の区別なく言えば、裏山・里山には「やまんば」や「やまじい」が居て、狸や狐や猿やキジも居る。里には花が咲き乱れ、鳥が鳴いている。小鮒つりしかの川。私は、そういうイメージでこれからの地域づくりを夢見ている。国土政策も美しい「国土づくり」が私の夢だ。はかない夢であろうか。ひょっとするとドンキホーティのようであるかもしれない。とうろうの斧を振ろうとしているのかもしれない。しかし、何と言われようと、私の心理では夢と現実が一致しているので、私は幸なのである。


 河合隼雄は、その著書「人間の深層にひそむもの」〔大和書房〕の中でこう言っている。「現代人であるわれわれは、人間としての存在感を失いつつある。・・・現代人は外界への過剰適応のため、内界の存在を忘れてしまっている。・・・意識の合理的な側面よりみれば、まったく荒唐無稽と思われる<お話>が、長い時間を通して語り継がれるのは、それが内界についての真実を述べているからに他ならない。それが昔話なのである。」つまり、多くの人が抱いている今の不安感は、外界と内界、つまり私流に言えば現実と夢ということのなるが、それらの間に存在するギャップに起因するという訳だ。そのギャップをどう埋めるかそこが問題だが、昔話に一つの鍵がありそうなのである。


その点につき私流に説明すると、大いに昔話を読み、想像力をたくましくして心の底にある夢を形あるものとして描き出し、そしてその実現に努力すること、ということになろうか。昔話は、単に昔の話というだけでなく、今の話でもありこれからの話でもある。河合隼雄は、想像力によって内界に存在する真実の姿を覗くことを「想像力の飛翔」と呼んでいるが、私は、昔話による「桃源境への飛翔」を行っているのかも知れない。


 宮本常一は、広島湾と周防灘の間の周防大島の出身である。で中国地方では多くのファンが居る。「忘れられた日本人」に描かれた世界について、石牟礼道子は「ここに描き出されたのはふつう、ふだんの世界であったと思うと、なおさら切ない情景である。」と述べている。そういうノスタルジアが皆の心に在るから、宮本常一の人気は今なお衰えないように見える。

さて山崎禅雄さんは、お父さまが亡くなり後を引き継いで今は島根県桜江町江の川のほとりでお寺の住職をしておられるが、もともとは宮本常一の弟子である。長い間、雑誌「旅」の編集長もしておられたようだ。中国・地域づくり交流会のご縁でお知り合いになった。得難きご縁だ。山崎さんは、民俗学で養った鋭い感覚でいろんな話をして下さった。そのお蔭で、私は民俗学の重要性を知り、宮本常一の偉さを知った。私は山崎さんから「百姓というもののしたたかさ」を教えられた。時代の移り変わりとともに百姓の生きざまは変わるであろうが、土地がある限りしたたかに生きる百姓というものはこの世からなくならない。。山崎さんのそんな信念を聞きながら、なるほど「忘れられた日本人」に描かれた世界は今や桃源境の世界になっているのかも知れないが、そういう世界はきっと取り戻すことが出来ると思った。これからの世紀をしたたかに生きる新しいタイプの百姓を中心にして共生社会を目指していけば・・・だ。それは民話の世界の現実化でもある。神話と異なり民話は庶民一般のものであり、政治性、宗教性を越えているという意味で人類的だ。「桃源境への飛翔」によってその構造を明らかにする。そして、それを現実化する、そんな地域づくりを目指したい。



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8、両頭裁断



米山俊直は次のように言っている。少し長いがそれを紹介し、それに関連して私の考えを述べることにしたい。


「ブラックパワーの首領カーマイケルは、白人と黒人とが一緒に人権などを要求する戦術を捨て、黒人だけのまとまりを強調している。乱暴に連携を拒否しているように聞こえないこともない。しかし、私は、彼のこの主張も一理あると思える。私たちは男女は平等であるとか、ヒトはもともと一つの種ホモサピエンスであって、皮膚の色の相違などは小さい違いだと教えられてきた。いわばそれは<のっぺらぼうな人間主義>であった。しかし考え直すまでもなく、現実に存在するのは男か女であるかであり、黒人か白人かあるいは私たちのような皮膚の人間なのだ。人間関係も人間集団も、そういう現実の上に作られているのであり、その点を落として人間関係一般を問題にし、その連帯を説いたりしてはいけないのであろう。対話も連帯も、この現実の上に初めて作られるのだと言える。」(文化人類学の考え方、米山俊直、1992、講談社)


そのとおりだと思う。全く同感だ。人類は、黒人でもあり、白人でもある。しかし、そういった現実の地平の先に、黒人でもなく白人でもないという世界がある、我々はそのことをしっかり認識しなければならない。「両頭裁断して、一剣天に依って凄まじい」という絶対的な認識が必要と言うわけだ。


今西錦司;個人の自由を無視してしまうことは、間違いであると私は思うんです。だいたい社会といっても個人あっての社会で、社会と個人というものは併存していて、先後がないものでなければならない。これは人類社会にしても、サルの社会にしても、その他の生物にしてもいえることでございます。社会を先に立てるのも間違いであれば、個と言うものを先に立てるのも間違いである。しかし、とかくどちらかにウエイトが偏りまして、そういう時は、人類としては不幸なときと思わなければならないんですね。
(人類の周辺、今西錦司、1981、筑摩書房)


個でもなく全体でもなく、また、個でもあり全体でもある。今西錦司さんの考えも、やはり絶対的な認識に基づいていると思う。今西錦司さんは、私のもっとも尊敬する先生だ。私が、馬鹿に一つ覚えのように、両頭裁断、両頭裁断というひとつの所以がここにある。



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9、オールランドな山登り



 山登りにもいろいろあって、京都大学の山岳部に入ったばかりの新人時代、私たちは、リーダーのデルファーこと高村さんや新人係のコッテこと松浦さんなどからオールランドな山登りと言うものを教わった。岩登り、沢歩き、スキー登山或るいは春、夏、秋、冬ともかくオールランドに登りなさいということであった。ただ、登るべき岩場、沢などについては、訓練の場合は別として、いろいろ記録を調べ出来るだけ人の行っていないところを選んだ。いわゆる「初登山」だ。こういう行き方は、今西錦司、桑原武雄、西堀栄三郎、四手井綱彦、川喜多二郎、梅棹忠男、藤平正夫(日本山岳会現会長)から続く京都大学山岳部の伝統なのだろう。朱雀高校山岳部時代の山登りとは当然様変わりして本格的なものになった訳だ。私は、特段これと言うほどの記録もないけれど、それでも先輩或るいは同僚のお蔭でそういう精神だけは身についたかもしれない。未知のものに対する挑戦の精神である。と言うと誠にキザに聞こえるけれど、それが今の実感である。どんな山登りでも、その時々において自分なりの新しい発見と言うものがある。しかし、「初登山」の場合、たとえそれがどんなにささやかなものであっても、自分たちだけが初めてそれを知ったという喜び、それは何事にも代え難い。


 黒部渓谷の支流北又谷川の完全溯行は二度目に成功した。二回とも松尾稔君(名古屋大学前工学部長)と一緒だったかと思う。北又谷川には物凄い絶壁からなる瀞があって、一回目は、そこをどうしても通過できず雨のため退却。二回目に、アップザイレンが連続してできるところを捜し出して何とかそこを通過することが出来た。誠に残念なことに、のち後輩が我々の記録をみてそのルートに入り遭難死したが、そういう難所をやっとの思いで通過して見た「魚止めの滝」の景観は今でも目に焼き付いている。滝の高さは、60乃至70メートルもあったろうか。滝の上は岩が削られて丸い窓のようになっている。その「丸窓」からほとばしる激流。どこまでも深い滝壷の色。回りの絶壁のいよいよ神秘気的なその佇まい。忘れられない景観だ。佐渡から新潟に向う連絡船から見た満月に映える「金波、銀波」を絵にしたような景色も私の忘れられない景色だが、やはり山には心に焼き付いた景色がいくつかあって、私の人生をそれだけ豊かにしているようだ。


 北海道の日高山脈にあるルートオルマップ川の完全溯行は失敗に終わったが、まずは人の行かないところだけに、私たちだけの自慢話がいくつかある。安田君(大日本土木常務取締役)と一緒だった。完全溯行もこれで成功かと思った頃雪渓が我々の行く手を遮った。今にも崩れ落ちそうなので尾根に逃げることにしたのだが、雪渓の上を恐る恐る左岸に渡って尾根に取り付こうとしたとき、誰かがトンと足で雪渓を叩いた。その途端、雪渓全体がどどっと一気に崩れ落ちたのである。皆が渡り終わったときで何ともなかったのだが、私は寒気が背筋を走った。そのほか、夜にテントの周りを熊にうろうろされた話、寝袋の中までバルサンを焚いてもどうにもならなかった猛烈なヤブ蚊の群れ、背丈の倍ほどもある笹ヤブの海のなかで身動きが取れ無くなりそうになった話など、冬の分を急いで取り戻すかのようにともかく夏の日高山脈は生命力が旺盛だ。


 そういう難行苦行をして私が思うのは、やはり自然との付き合いの難しさということだ。特に春先は鳥の声で雪崩が起こることもあるし、私たちは、雪崩の起こりそうなやばい雪渓を通過するときは夜も明けやらぬ早朝とした。沢歩きをしているとしょっちゅうマムシに会うし、薮こぎをしていてスズメバチに会う事も少なくない。マムシもスズメバチも下手をすると命を落とし兼ねない。見かけたときはできるだけ静かにしてともかく相手を刺激しないことだ。ちなみに、沢歩きはわらじが一番いい。最近いろいろ渓流釣り用の地下足袋が出ているが、やはり普通の足袋にわらじを履くのがいい。一番滑らないし、一番足にやさしいようだ。しかし、もっとも肝心な点はマムシ対策である。マムシは紺色を嫌うそうで、紺染めの足袋とズボンを履いているとマムシに噛まれない。熊の出そうな山に入るときは、昔、馬が着けていたような出来るだけ大きな鈴をぶら下げて歩くといい。熊が近付いて来ないのだ。熊の場合はともかく急に出くわさないようにするのが原則だが、もし近くに来たときは死んだふりをしているのがよい。日高で、私たちはテントの中で死んだふりをして助かった。


 動物と付き合う場合、人間も動物だが、ともかく動物と付き合う場合、相手をむやみに刺激しない方が得策だ。相手の嫌がることはしないほうがよい。これが「共生の原則」の一側面だと思う。こういうことは、オールランドな山登りをやっていると自然に身につくことなのかもしれない。

 しかし、私がこれからの文明の在り方に関連し或るいは人間の生き方に関連し思うことは、山登りのような非日常的な体験というよりむしろ日常的な体験の中で、どう自然と付き合っていくのかということである。今、農業や林業は正に危機存亡の時だと思われるが、農業や林業は、ただ単に食料や木材資源を供給するというだけでなく、文明論的に言って、そこに自然との共生の世界が在るという点にこそ重要な意味が在る。今後我が国が新たな文明というものを意識して「共生社会」を目指すのならば、農業や林業を疲弊させてはならない。農山村地域に広がる自然との共生の世界を大事にしていかなければならない。


 宮本常一は、その著書「忘れられた日本人」の中で自分の祖父について「その生涯がそのまま民話といっていいような人であった。」と述べ、その生涯を語りながら、子犬や亀、みみずやカニなど、動物と人間が親しみ合い、ともに生きていた世界を描き出している。そして、「世間の付き合い、或るいは世間体というものもあったが、はたで見ていてどうも人の邪魔をしないということが一番大事なことのようである。」と言っている。私が、オールランドな山登りをやり、身体全体で自然を感じ、そして思うことは、結局は人間の生き方の問題であり、文明の在り方の問題である。


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Iwai-Kuniomi