源信 942‐1017(天慶5‐寛仁1)
げんしん
平安中期の天台宗の学僧。浄土教家として著名で,恵心僧都(えしんそうず),横川(よかわ)僧都とも称された。大和国(奈良県)当麻郷に生まれ,父の名は卜部正親,母は清原氏。7歳で父の死にあい,9歳で比叡山に登る。954年(天暦8)得度受戒し,良源の門下となって経論の研鑽に努め,973年(天延1)32歳で広学竪義となり,内供奉十禅師に補せられた。978年(天元1)に著した《因明論疏四相違略蔦釈》3巻は斤述年時のわかる最初の著書で,のち宋の慈恩寺弘道の門人に贈られたが,青年時代の著述とみられるものに《六即義私記》がある。
985年(寛和1)代表著作である《往生要集》3巻を斤述した。本書は極楽往生に関する経論の要文を選集し,念仏を勧めたもので,のちの浄土信仰に決定的な方向を与えた。
翌年源信は同書を宋の周文徳に贈り,文徳は天台山国清寺の経蔵に納めたが,宋においても高く評価された。またこの年より首楞厳院(しゆりようごんいん)において念仏結社たる二十五三昧会をはじめ,2年後の988年(永延2)には〈十二箇条起請〉を作って,同志の平生および臨終の作法を定めた。この二十五三昧会につながるものとして,横川の花台院では迎講がはじめられ,在俗の念仏者が多く集まり,横川には念仏集団が形成された。1000年(長保2)法橋に叙せられ,04年(寛弘1)権少僧都に進んだが,翌年辞退した。当時の比叡山の世俗化と堕落の風潮を嫌い,名利を避けて横川に隠栖し,行法と著作に励んだ。
《源氏物語》の横川僧都は源信がモデルといわれる。
70歳前後から病で起居が不自由であったが,なお念仏を怠らず,17年6月,76歳で没した。
門下に覚超,良暹,明豪など多くの高僧が出て,一門の教学を恵心流という。著作は,前記のほか《要法文》3巻(986),《菩提心義要文》1巻(997),《大乗対抑舎鈔》14巻(1005),《一乗要決》3巻(1006),《霊山院釈梼堂毎日作法》1巻(1007),《白骨観》1巻(1011),《阿弥陀経略記》1巻(1014)など70余部150巻ある。なお《後拾遺往生伝》平維茂条に記されているように,早くから来迎図の創始者とみられ,世に源信作と伝える来迎図は多いが確証はない。しかし源信教学の影響を受けて作られたことは明らかである。 伊藤 唯真
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