権現 ごんげん
仏菩醍が権(かり)に神梢となって現れること。
本来は永遠にして理想的な仏陀がかりに歴史的現実的釈梼に化身して現れたと説く仏教用語に発し,これを仏尊と神梢の関係に転用し,日本の本地垂迹(ほんじすいじやく)説を成立せしめる根本理念となった。
937年(承平7)九州の筥崎八幡宮に法華経安置の多宝塔を建てる際に大宰府から出された文書中,八幡神を権現と称する文句があり,ついで1004年(寛弘1)大江匡衡が尾張の熱田神宮に捧げた願文に熱田権現の垂迹という言葉を用い,そのころ藤原道長も吉野の金峰山(きんぷせん)に奉納した経筒に蔵王(ざおう)権現の銘をつけた。蔵王は密教の仏尊だが当時すでに日本の山岳信仰と習合し神梢化されていたのである。院政期,上皇はじめ公家貴族の参詣で脚光をあびた熊野は早玉宮・結宮を合して両所権現,家津御子を入れて熊野三所権現と称し,眷属神である五所王子・四所宮を合して十二所権現とも呼んだ。加賀白山では奈良朝初め泰澄により霊場が開かれ,その主神を白山妙理権現と称し,伊豆箱根では同じころ僧満願が僧形・俗形・女形の神体を感得して三所権現と称し社にまつり走湯権現ともいわれ,日光山では勝道が平安朝に滝尾権現を感得し,日吉山王でも大宮・二宮・八王子・客人・十禅師・三宮・大行事等多数の祭神に一々権現号を付し,醍醐寺の鎮守清滝明神は密教の善女竜王にほかならないが,権現の名称で親しまれていた。
以上に見るように,総体に修験者が信仰する山岳中心の霊場には権現号が多く,そこにはひときわ祭神の強力な霊験機能を誇示しようとする意識が働き,律令制の下で《延喜式》に規定された名神から来たと思われる明神の号への対抗が考えられるが,いずれの号をも称する祭神は多かった。
室町期に興った吉田神道は神本仏迹説をとき,神道を仏教よりすぐれたものとしたたてまえ上,権現より明神号を尊び,地方の神社に対し大明神授与を行い,豊臣秀吉が死後まつられるにあたっては吉田神道に従って豊国大明神の号が贈られた。
しかるに徳川家康の場合,明神号をもって吉田の唯一宗源神道による祭祀を主張した崇伝に対し,江戸上野の寛永寺天海は家康が生存中天台の山王一実神道を授けられ死後この神道の流儀でまつられるよう遺言したと称し,また明神号は豊国社没落の不吉の例ありとして権現号をもって山王一実神道の祭りを強引に推進し,ついに1617年(元和3)家康は東照大権現の神号に決定された。
1868年(明治1)神仏分離が政府から通達されて全国各地の社の権現号は廃止された。日光山・久能山・江戸上野等につくられた東照宮の神殿はいずれも拝殿と本殿を石間(いしのま)または相間(あいのま)で連ねた形式をとり,これを権現造と称するが,実はすでに豊国神社にもみられ北野神社も1607年(慶長12)同様式で建てられた。今日民俗芸能としてしられる東北地方の山伏神楽や番楽では獅子頭を権現様と呼び神とあがめ,年末年始にこれを奉じて家々を訪ね,悪魔払い,火伏祈裳を行う風習がある。 村山 修一
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