ハイブリッド思想の確立を!

 

 

 近代は、まず純粋化を推し進めることによって、それまで未分化の状態のままに複雑な働きをおこなってきていたさまざまなものを、分離したり分割したりするのである。そういう分割のうちでもっとも大きな意味を持っていたのが、社会と自然との分離である。人間の社会は、自然を作り上げているものとは違う原理によって出来ているので、この二つははっきりと分離することが出来る・・・・、という考え・・・・そういう考えが近代というものであろう。そういう考え方から、それまでの社会のつくられ方を自然共同体として批判して、「革命」によって純粋な人間的原理による社会が作られなければならないという社会批判が発生したのである。「我思う故に我あり」はデカルトの哲学だが、そういう人間中心の考え方によって、科学技術が発達し、そして今日の人間中心社会がある。

 

 自然共同体としての社会をプレモダン、純粋な人間的原理による社会をモダンと呼ぶ。モダンにおいては、さまざまな分割が発生する。このモダンの原理をはじめて哲学化したカントは、それまでの世界にあふれていた霊魂やら超自然やら妖怪やらのさまざまな前対象を、モノ自体の側に送り込んでしまうことによって、ハイブリッドが生起する中間的な「場所」そのものを、人間の構成する世界から締め出してしまった。

 しかし、今日私たちがほんとうに必要としているのは、人でありモノであり、社会であり自然であるという、そういうハイブリッドな前対象の氾濫を統御する思想である。そういう人といえば人、モノといえばモノ、人でもないしモノでもない・・・・、そういうハイブリッドな前対象を排除するのでも、抑制するのでも、翻弄されるのでもないやり方で、真に統御できる思想を確立することである。

 

 これは中沢新一の著書「フィロソフィア・ヤポニカ(集英社)」からの引用であるが、こういう哲学的な表現は私たち一般の人間にとってどうもすんなりとは入ってこない。むつかしい。そこで不遜を畏れず私流の説明をしてみよう。

 

 霊魂やら超自然やら妖怪というものは、本来人間以外のもの(非人間)であるが、いわゆるモノでもないので、そんなモノは存在しない、・・・そいう認識がモダンの認識である。それはそうだろう。しかし、現在なお霊魂やら超自然やら妖怪やらが語られている。多くはその存在を信じてはいないままおもしろおかしく語られているのだと思うが、中にはほんとうにそういうモノが存在すると信じて語っている人も少なくないのだろうとも思う。そうだとすればそれらはやはり存在するのである。

 誰でも、通常、五感は勿論のこと、理性的に認識できるものは数学であっても哲学であっても科学技術的な認識の対象である。しかし、モダンの考え方によれば、そうでないものは科学技術的な認識の対象にならないのである。つまり現代の認識の対象にはなり得ない。これは正しいか。もし正しいのだとすれば、プレモダンの多くは切り捨てられてしまう。現在は、事実そうなっているのだが、プレモダンの認識の対象になっていたものの中に、現在なお検討の対象にしなければならないものがあるのではないか。

 

 霊魂やら超自然やら妖怪を例に挙げたのは、それは単なる例であって、特別の意味はない。要するに、人とモノ、社会と自然、善と悪、白と黒等々、二元論的に把握するだけでなく、その中間的な、ここではハイブリッドと呼んでいるのだが、そういうものがある。あるというよりそういうハイブリッド的なものが現在大変多く、それをどう理解するかが今問われているのである。

 田邊哲学に大いに期待したいものだ!

 

Iwai-Kuniomi