田邊哲学への期待

 

 私は、先に、中沢新一の著書「フィロソフィア・ヤポニカ」から引用して、今日私たちがほんとうに必要としているのは、人でありモノであり、社会であり自然である、そういうハイブリッドな前対象の氾濫を統御する思想であると述べた。そういう人といえば人、モノといえばモノ、人でもないしモノでもない・・・・、そういうハイブリッドな前対象、つまり二元論的思考ではとても理解し得ないいろいろな事柄を・・・排除するのでも、抑制するのでも、翻弄されるのでもなく・・・・真に統御できる思想というものを確立する・・・・そのことの重要性を述べたのである。

 ハイブリッドが悪いのではない。その氾濫を統御できないのが問題なのである。

 

 

 中沢新一は、そういう認識から田邊元(はじめ)の哲学に再び光を当てようとしている。彼は言う。「田邊元の哲学は、それが創造された1930年代よりも、むしろ量子テクノロジーとバイオテクノロジーが爆発的な発展を遂げている現代にこそ、その威力の発揮される可能性を宿している。」

 

 そうなのだ。中沢新一が言うように、近代社会の中で異質な原理によるものとして互いに分離され、非対称な関係におかれている多くのものの間に、田邊元(はじめ)の思想は確実につながりをつけてくれる。しかし田邊元の哲学は非常に難しい。田邊哲学はおいおい学ぶとして、今のところ、私は、禅の言葉にもとづき「両頭截断(せつだん)」などと言っているのだが、田邊元の哲学が今日極めて重要になってきているという中沢新一の指摘をとりあえずは重視することとしたい。さすがである。彼の指摘はまさに的を得ており、今後の活躍が期待される。がんばれ!がんばれ!中沢! 私は、中沢新一が21世紀の新しい哲学を創り出してくれることを大いに期待したいものだ。

 

 ところで、創造的破壊を進めるには、私たちはどうすればいいのか。結局のところは、やはり各個人の意識が変わらなければ根本的には何も変わらないようにも思われるのだが、果たしてそういうことなのか。

 白と言う人、黒と言う人、そしてその中間にいろんな意見を言う人がいなければシステムというものは変わらない。それは確かだろう。いろんな人が、自由に自分の意見を言い、自由に行動をする。それらはまことに小さいベクトルであっても、同じような環境におかれている人々の自由な行動があるのであれば、それらのベクトルは、全体として、大きなベクトルとなって、次第次第に今のシステムを変えていくだろう。変革とエネルギーは、個人のベクトルの集合だから・・・・。

 今ここで私は、各個人の意識の重要さを言うためにベクトルを例に使って説明した。しかし、実は、こういう例のあげ方は必ずしも適切とはいいがたい。今ベクトルで例示された各個人の発揮する力というものは、実は、静的なものでなく、動的なものである。私は今ネットワーク・アイデンティティーというものを念頭においているが、アイデンティティー自身が発する振動に別の振動が加われば増幅が起こったり減幅が起こったりする。アイデンティティーというものがそういう運動体であるので、ベクトルと呼ぶのは適切ではない。振動ベクトルとか動的ベクトルとか呼ぶのがいいのかもしれない。言い換えよう。変革のエネルギーは各個人の動的ベクトルの集合である。帰属意識の裏打ちされた各個人の動的ベクトルは互いに共振を起こしやすい環境にある。共振現象というものは、最初のゆれは誠に小さくても、次第に大きく揺れはじめ、遂には大きな破壊力を発揮する。

 実践活動が「創造的破壊」の原動力である。しかし、「我語る故に我あり」・・・これは、中村雄二郎の哲学だが、まずは語ることだ。コミュニケーションこそ大事である。そのことは間違いない。そうは思うのだが、それでは、活発なコミュニケーションが行われて、各個人が自由に行動をするという状況を作り出すためにはどうすればいいのか。そこが問題だ。

 

 田邊元の「種の論理」という哲学は、集団と個人の関係を動的に捉えたものである。何かヒントが得られるかもしれない。

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Iwai-Kuniomi