ハイデッガーの技術論を超えて

 

                         平成15年2月8日

                         参議院議員岩井国臣

 

はじめに

 

 

 ハイデッガーの技術論というのがある。昭和40年9月に理想社から訳本が発行されているので、それを日本語で読むことができる。中沢新一は「緑の 資本論」の中でハイデッガーの技術論を取り上げ、それとの比較をしながら「光と陰の哲学」を提唱している。中沢新一の新しい技術論は、それを読んでいただ ければいいのだが、若干判りにくい。哲学に焦点が当てられているためだろう。そこで私は、その理想社の訳本をもとに私なりの解説を加えることとしたい。な お、中沢新一の「光と陰の哲学」による新技術論の必要性についてはすでに「モノ的技術の復権」というエッセ イhttp://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/8hukken.htmを書いているのでそれも参照してもらいた い。

 

 

 

1、「立たせる力」

 

 

 まず、基本的な問題提起は、「世界のヨーロッパ化」とは何を言うのか・・・・ということである。この基本的な問題提起に対し、ハイデッガーは、近 代技術の中にその秘密があるというのある。こう言っている。

 

 

 『 この近代技術によって、自然の中に閉ざされていたエネルギーが打ち開かれ、その開発されたものが変形され、変化されたものが補強され、補強さ れたものが貯蔵され、貯蔵されたものが分配されるようになりました。自然のエネルギーが確保される在り方が制御されるばかりでなく、その制御自身もまた確 保されなければなりません。いたるところで、このように挑発し、確保し、計算するように自然を立たせる(シュテツレン)ことが、支配し統(す)べているの です。それのみではなく、遂にはさまざまなエネルギーを手許に立て上げるということが、あるがままの自然界のうちには決して現われてこないような要素や素 材の生産にまで、拡大されてしまいました。 』

 

 このように、「立たせる力」ということを言っており、この避けることも制することもできない・・・どうしょうもない力・・・「立たせる力」という ものが、「世界のヨーロッパ化」の根源だと言っているのです。こう言っている。

 『 このような「立たせる力」は、決して人間の拵え物(こしらえもの)ではありません。だから化学も工業も経済も同様に、この力の支配下に立たさ れるのです。つまりこの力によって、その都度千差万別の立て上げ<仕上げ>に向かって仕立てられる(ペシュテツレン)がままになってしまうの です。

 

 

 この避けることも制することもできない力は、その支配を全世界上に否応なく拡大していくばかりです。しかも時間的にも空間的にもその都度達成され たどんな段階をもたえず乗り越えてゆくことが、この力の持ち前なのです。科学的認識や技術的発明の前進は、この立たせるということの法則性に属していま す。この前進は決して、単に人間によって設けられた目標ではありません。この「立たせる力」の支配の結果、世界文明といったようなものを仕立てたり切り揃 えたりするために、風土的・民族的に芽生えた国民文化が消えうせていくのです。 』

 

 

 『 かくも人間は、算定しうるものや製作の可能性を仕立てようとする意志に呪縛されたままになっています。人間はこの「立たせる力」に売り渡され てしまって、自己の成存(ウェーゼン)の本来の意義を塞ぎ立てられているのです。 』

 

 ハイデッガーはこのように言っており、風土的・民族的に芽生えた国民文化の消滅も、また人間喪失そのものも、すべてこの宇宙に存在する・・・そし て人間にはどうしようもない力・・・「立たせる力」に起因しているというのです。おそらく神がそのように仕立てられたと考えることになるのだろう。それが 「光の哲学」の本質なのかもしれない。

 

 

2、神への帰属性

 

 

 ハイデッガーは、さらに、 『 「立たせる力」は、人間を通じて世界の現存するものを、算定可能にして且つ確保すべき役立つものという性格におい て、出現させます。現存するもの(ダス・アンウェーゼンデ)、すなわち古くからの命名によれば存在するもの(ダス・ザイエンデ)<存在者> を、そこに現前(アンウェーゼン)せしめるものが、「存在(ザイン)」として私たちに知られているものです。人間は仕立てるために(すなわち世界を一個の 技術的世界として開発するために)、呼び求められ、使われているが、こうした「立たせる力」のなかで統べている人間に対する要求こそ、人間が存在(ザイ ン)の本来的なものに帰属していることを証拠立てているものです。この帰属性(ツーゲヘーリヒカイト)が、人間の本来的なものの最たるものです。 』と 言っている。

 

 「存在(ザイン)」の本来的なもの、もちろん人間はそれに帰属している。この帰属性が、人間の本来的なものの最たるものだというわけだ。そして、 「立たせる力」は、そのような人間を通じてその力を発揮し得るものであるからして、「存在(ザイン)」の本来的なものの意向に沿ったものであるかどうかの 反省と時にはせざるを得ないのである。そういう反省がなければ人間は救われない。そうなのだ!そういう反省がなければ人間は救われない。しかし、それはハ イデッガーの単なる願望でしかないのではないか。人間はその本来的なものも含めてすべてを「立たせる力」に売り渡しているということはないのか。そこが大 いに疑問だ。フランシス・フクヤマが心配しているように(「人間の終わり」、ダイヤモンド社、2002年9月)、人間の終わりがすぐそこにまで近づいてい るのではないか。

 

 

3、中沢新一の「光と陰の哲学」による新技術論

 

 

 問題は、そういうハイデッガーの哲学、それは「光の哲学」ということだが、そういう現在の哲学が正しいかどうかということである。「立たせる力」 とともに「立たせない力」というものがあるのではないか。中沢新一の「光と陰の哲学」のほうが正しいのではないかということだ。私たちは、今こそ、中沢新 一の「光と陰の哲学」にもとづき今後の技術論を展開しなければならないのではなかろうか。ハイデッガーのいうところの「立たせる力」が余りにも急速にしか も力強く進んだために、その光に目が眩んでしまっているけれど、もともと「立たせない力」は存在するし、今も陰は薄いけれど「立たせない力」は働いてい る。私たちも含めて自然界にはこの「立たせる力」と「立たせない力」という二つの力が作用・反作用として働いているのではないか。この「立たせない力」と いう力をもっともっと働かせる技術開発をしていかなければならないのではないか。技術は研究開発だけが技術ではない。既存の技術をどう使うのか、そういっ た技術の使い方を教える技術教育もりっぱな技術である。戦時中のことではなく、戦争のない、平和であるはずの現在の日本で何故オーム真理教によってサリン が作られたのか。今のわが国の科学技術教育、それはとりもなおさず欧米の科学技術教育ということであろうが、それには根本的な問題があるのではないか。 911テロは対岸の火事ではない。わが国の問題でもある。今や科学技術にほとんど国境はない。世界の問題は日本の問題であるし、日本の問題は世界の問題で もある。だから、問題は、ハイデッガーの技術論ではなくて、中沢新一の「光と陰の哲学」にもとづく新技術論が今求められているのではないかということだ。

 

 

 

 ハイデッガーは「存在(ザイン)」の本来的なものとして人間を考えている。つまり,現存在である人間を中心に思索を進め ており、世界という言葉も人間世界という意味であって,だからこそ「気がかり」などと言うことを言っている。ハイデッガーは,石は世界をもたないし動物は 世界が貧困であると言い,人間は世界形成的であると言っているし(「ハイデガー<存在と時間>の構築」、木田元、岩波書店)、よく知られたハイデッガーの 言い方に「<世界>とは,現存在の自己自身の可能性への気づかい下ら発出し、そこに収斂してゆく意味の網目』などと言う言い方があり,ハイデッガーは「存 在(ザイン)」の本来的なものとして人間を考えていることは明らかであろう。

 以上のように,ハイデッガーは「存在(ザイン)」の本来的なものとして人間を考えているが、そこが問題なのである。はたしてそうか。そうではある まい。私たちの伝統的な感覚からすれば、「存在(ザイン)」の本来的なもの、それは「タマ」である。「タマ」には「アラタマ(荒魂)」と「ニギタマ(和 魂)」があるが、それら「タマ」によって「立たせる力」が働いたり「立たせない力」が働いたりしているのではないか。「アラタマ」は鎮めないといけない し、「ニギタマ」はふるい立たせないといけない。「アラタマ」によって「立たせる力」が働けばとんでもないことが起こるし、「アラタマ」によって「立たせ ない力」が働けば思うようにことが運ばないであろう。逆に、「ニギタマ」によって「立たせる力」が働けばいい技術がドンドン発達していくし、「ニギタマ」 によって「立たせない力」が働けば伝統的技術が保全され悪魔的技術に歯止めがかかる。

 

 この平和であるべき日本でサリンが作られ使われたということは、「アラタマ」による「立たせる力」が発揮され、かつ、「ニギタマ」による「立たせ ない力」が発揮されなかったということである。中沢新一の「光と陰の哲学」による新技術論によればそういう認識になるのではないか。私はそう思う。現在の 科学技術では、一般的に、「タマ」という認識はない。心の問題を扱う心理学や精神医学はあっても、一般的に、現在の科学技術では心の問題は問題にならない ということだ。果たしてそれでいいのか。私は、中沢新一の問題提起はそこにあると思う。私の考えでは、科学技術の世界でも、「タマ」は認識されなければな らないし、しかもその「タマ」は「アラタマ」と「ニギタマ」は区別されて認識されなければならない。

 

 

 

現在の認識からすると「タマ」は神と言い換えてもたいした違いはないかもしれない。厳密ではないが、まあ当面その程度に考えておこう。その方が判り やすい。したがって、神、それはやよよろずの神ということだが、新技術論では、神々の意向を慮って(おもんばかって)・・・・、とんでもない悪魔的技術が 誕生しないよう予測と評価に関する技術をどう確立すればいいかということになるし、風土的・民族的に芽生えた国民文化の消滅しないよう立たないもの、古い ものなども大切にするという伝統技術をどう確立するかということになる。悪魔的技術の誕生と伝統技術の消滅が技術上の課題としてクローズアップされる。

 

これからあるべき新技術開発とは、新しいものというか「立たせる力」により・・・今後ともよりどん欲に開発される新技術には安全の面、倫理の面から ある程度の歯止めをかけ、逆に、古いものというか風土的・民族的に芽生えた国民文化に関わる伝統技術についてはその保存と活用を図る・・・・、そういうも のではなかろうか。前者を歯止め技術、後者を伝統技術と呼ぼう。これらはともに公共財に属するものである。

 

今後ともよりどん欲に開発される新技術は、私の分類では、商業主義に結びつく可能性を秘めており、世界企業の経営資源になりうるものである。つま り、私的財と分類したい。私的財は、「立たせる力」が今後とも働くので、政府は助成はするとしても一義的には民間企業にゆだねるべきものである。公共財 は、民間の資金やノウハウを活用するにしても、一義的には政府が責任を持って開発をしていかなければならないものである。風土的・民族的に芽生えた国民文 化に関わる伝統技術もかっては「立たせる力」が働いていたのかも知れないし、あるいはその当時は特に「立たせる力」と「立たせない力」とが区別されること なく同じように作用していたのかも知れない。今や「立たせる力」は商業主義と結びついて「モノ的力」となり、クローン人間の誕生など悪魔的技術の出現が心 配されると同時に風土的・民族的に芽生えた国民文化に関わる伝統技術の消滅が心配されている。「立たせない力」というか「タマ的力」によってそういう心配 が払拭できるかどうか、それがこれからの問題である。実は、「タマ」には「アラタマ」と「ニギタマ」があってそれらは区別して考えなければならないという のが私の考えであるのだが、その議論をし始めるとややこしくなるので今日はここまでにとどめておく。

 

 

註:風土的・民族的に芽生えた国民文化に関わる伝統技術の保全と活用を図るためには、もちろん今後の工学的進歩は必要であり、大いに力を入れなけれ ばならない工学分野として「風土工学」がある。「風土工学」については今までいろいろと書いてきたが、それらについては次を参照して下さい。 http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/dosekou.html

 

 

 

 

4、新技術論をどう展開するか

 

 

 歯止め論については、規制緩和の時代にちょっと違和感があるかもしれないが、もっとも緊急を要する課題だ。フランシス・フクヤマがいうように、こ のままバイオテクノロジーを放置しておくと、化け物のようなクローン人間が出現するなど「人間の終わり」がきてしまうであろう。したがって、新技術開発に ついてはある部分政治の関与が必要である。このことにもはや議論の余地はないように思われるのだが、残念ながら、現在そういう政治状況にない。世界の世論 がそうなっていないということである。わが国でもほとんどそういう議論がおこっていない。

 

また、風土的・民族的に芽生えた国民文化に関わる伝統技術の保存と活用という問題については、政治が関与すべき特別の問題なのかどうか・・・・、こ れからの議論であろう。

 

 

 

小林昭がその著「モノづくりの哲学(工業調査会、1993年)」で大学の技術教育について次のよう に述べている。http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/11hakubu.htm

つまり、『 わが国における大学の設立方針はほとんどヨーロッパの体制から学んだものであった。ただ、ヨーロッパ大学に見られなかった工学部を設立 したことは、当時の先進国から輸入された近代機械・器具類を取り扱える人材を早急に育成するためであったのだろう。これが、第二次大戦後の生産技術の大躍 進の原動力の一つとも考えられる。

 

ただその当時、「モノづくり」の基礎としての工学に関する哲学や教育のあり方が深く検討されたかどうかについては、定かでない。現在われわれが生活 している大量生産・大量消費の「工業社会」の歴史は、ホモ・ファーベルとしての人類の「モノづくり」の歴史の中では、きわめて短い。真の人間の幸福を追求 する「モノづくり」の哲学が、今の時代にこそ強く望まれている。 』・・・と。そうなのだ。小林昭がいうように、真の人間の幸福を追求する「モノづくり」 の哲学を語り、新しい技術体系を作らなければならないのである。私が中沢新一の「光と陰の哲学」による新技術論を提唱する所以である。

 

 

 

 

(1)まずは、中沢新一の言うところの「光と陰の哲学」に対する国民世論の支持を得なければならない。経済のグローバル化を放置しておいて、伝統技 術の保存と活用を図るだけで、ハイデッガーの言う「世界のヨーロッパ化」が防げるのだろうか。「世界のヨーロッパ化」は今では「世界の欧米化」と言い換え たほうがいいのかもしれないが、「世界のヨーロッパ化」をセーブし、国民文化や人間性を守ることが本当にできるのかという疑問がどうしても残るであろう。 その疑問に応えながら・・・、中沢新一の言うところの「光と陰の哲学」に対する国民世論の支持を獲得する・・・・、このことは決して容易なことではない。 でも、難しいからといってやらないわけにはいかない。ともかく「光と陰の哲学」の普及を図ることだ。私としては、インターネットをつうじて「光と陰の哲 学」の普及活動をしていきたいと考えているが、名古屋大学の松尾稔総長を始め私の同志の力添えを特に期待している。

 

 

(2) 次に、「光と陰の哲学」に対する国民世論の形成を図りながら、伝統技術の保存と活用を進めていくための良い方法を考え、必要な政策を展開していかなければ ならない。当面、「光と陰の哲学」に対する国民世論はまだ無いとして、別の観点から伝統技術の保存と活用を進めることはできないか。当面それしか方法があ るまい。でも心配ご無用。日本の国是が「モノづくり」であるという世論は現在満ち満ちているし、しかも前に述べたように、「伝統の創造力」というものが今 見直されようとしている。したがって、当面「光と陰の哲学」を横においても、伝統技術の保存と活用を図っていくことは可能である。やろう!ともかく「伝統 の創造力」という考え方の普及を図ることである。これも私としては、インターネットをつうじて普及活動をしていきたいと考えているが、そのためには、小林 昭をはじめ同じ考えの同志の全国ネットワークを作らなければならないのではなかろうか。

 

 

(3)さらに、「光と陰の哲学」を技術面で実践すると同時に、「光と陰の哲学」を経済面で実践していかなければならない。それは贈与経済の部分を増 やしていくことだ。これも前に述べたように、今、機が熟してきている。地域づくりのNPOを組織して、地域の公共財事業についてその事業展開を図ることを 考えたい。まずは、既存のものでも新規のものでもいい、行政から補助が出ている公共的な事業、民間が事業主体の公共事業PFIということだが、そういう事 業に焦点を当て、そのお手伝いをボランティアでやることを考える。ボランティアを基本とするので、それほど大きな活動資金はいらないが、それでもやはり活 動資金が当然必要だ。でも、魅力的な事業計画をつくり、寄付を集めるところからはじめたい。ともかく地域づくりのNPO活動を実践することだ。それがとり もなおさず「光と陰の哲学」の実践ということであろう。これも私としては、インターネットをつうじて普及活動をしていきたいと考えており、今 JUUU−NETという全国ネットワークを作る準備をはじめている。

 

 

 

 

おわりに

 

 

 そういう地域づくりのNPO活動をやりながら、陰翳の技術、タマシイの技術、鎮魂の技術を含む「モノ的技術」、私に言わせればそれらは公共財とい うことになるが、そういう「タマ的技術」を含む「モノ的技術」を身近に感じることのできる「場」を作っていくことだ。そうすれば、世界の人びとは日本にお いてそれを体験し、自国にその種を植え付けることができる。それができれば、それが萌芽となって、世界レベルで「モノとの同盟」が行なわれていくのではな かろうか。それが可能となれば人類の新たな文明が始まる。中沢新一のいうところの「東 北」の出番がやってきた。http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/jinruita.html

 

 万象に天意を覚る者は幸いなり、国のため、人類のため。・・・青山士(あきら) 

 

                                以上

 

 

註:(1)2003年1月31日の国土政策フォーラム「地域と公共事業」における岩井國臣基調講演原稿 「地域と公共事業2」http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/200301b.html

註:(2) 公共財 事業のすすめ( 平成15年1月10日 参議院議員 岩井國臣)

http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/koukyoza.html

註:(3)陰についてhttp://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/kage.html

註:(4)日本的集 落の構成原理http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/syurakug.html