秦(はた)と太秦(うずまさ)

 

 

 私は先に、「将門の即位式」というページで、次のように述べた。

 稲荷神社について、『 全国的にもっとも数の多い八幡神社は、本来は秦(はた)氏の氏神であった神が昇格したものである。実は、秦(はた)氏がお祭りした神が全国に普及したものに稲荷神社がある。稲荷神社は、もともとわが国の古代信仰として信仰されていた「田の神」が昇格したものである。それをそうなさしめたのは秦(はた)氏である。京都の稲荷神社は、今でこそ全国の稲荷神社の総元締になっているが、もとは秦(はた)氏の創建になる。けだし、秦(はた)氏という氏族はものすごい氏族である。 』・・・・と。

 そうなのだ。秦氏という氏族は、明らかに渡来民族だが、わが国文化の基層をつくったすごい氏族なのだ。間違いなくそうなのだが、よくよく考えてみれば、それを吸収し、飲み込んでしまったわが国の国柄というものがすごいのかも知れない。わが国の国柄、それは・・・・・、私は、河合隼雄のいう「トライアッドの原理」、「中空均衡構造の原理」が働く国であるのかも知れない。「母性原理」、「女性原理」の働く国であるのかも知れない。清水博のいう「場の原理」や西田幾多郎のいう「場所の原理」が働く国であるのかも知れない。律令国家が成立するまで、天皇家も血で塗られた壮絶な歴史を持っており、決して平穏な歴史を歩んできたわけではない。その一例として、すでに私は、平安時代への権力闘争について書き、「いかみ」の怨霊について書いた。平安時代も自分の子供である早良親王の怨霊に悩まされ続けた・・・・言うに言われない状況を乗り越えて・・・・、やっと天皇家の安寧が保たれるようになった。国として、中空均衡の統治構造ができ上がったからである。そのような血なまぐさい歴史を経て、やっと、かの聖徳太子が理想とした・・・「和を以って貴し為す」・・・という理念が実現していったなかも知れない。私は、そうかもしいれないという思いをしながら、この点については、もう少し時間をかけた吟味をしよう。今は、ともかく・・・、秦氏のゆかりを訪ねることとしたい。

 私はすでに、桃源雲情は旅のシリーズで「私と京都」と題して次のように書いた。すなわち、

 『 私は、京都に生まれ、京都に育った。小学校は、四年生まで安井小学校である。安井小学校というのは、花園と太秦との間にある。蚕の社というのが学校のすぐ近くにあって、そこの湧水池で良く遊んだものだ。水泳も、嵐山で覚えた。嵐山は歩いて行ける距離にあるので、夏は、毎日のように嵐山に泳ぎに行った。嵐山のあの付近は、一般的には桂川であるが、地元では大堰川と言う。渡月橋のすぐ上流に今も立派な堰あって、その水面が嵐山の風景を殊のほか引き立てているが、その付近には古くから堰があってその名が生じたのであろう。

 都1200年ということであったが、さらにその昔、秦の始皇帝の子孫と言われる弓月君(ゆづきのきみ)が、多くの人を引き連れて京都に入ってきたと言われている。それが秦氏の祖先である。秦氏というのは、良く知られているように、機織り、養蚕、潅漑、酒造など殖産の技術をもって、全国にその勢力を拡大していった氏族だ。その神様松尾神社は、嵐山のすぐ近くにあるが、秦氏ゆかりの神社である。嵐山の堰も、勿論、秦氏の造営に始まる。蚕の社も、秦氏ゆかりの神社で、松尾神社と同様その歴史は誠に古い。蚕の社で遊び、大堰川で泳いで育った私である。私の歴史好きの源流はこの辺にあるのかも知れない。

 ちなみに、太秦の広隆寺(峰岡寺)について言えば、あの弥勒菩薩は、秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から拝領してお祭りしたものである。秦河勝は、聖徳太子の側近だが、物部守屋との戦いで守屋の首を打ち落とす功績を上げたと言われている。その功績により、あの弥勒菩薩を拝領したのかもしれない。小説「斑鳩の白い道のうえに」に描かれている守屋との戦いに挑む聖徳太子のあの勇姿は、又河勝の姿でもあったであろう。

 京都は、身近な所にごろごろ歴史が転がっており、歴史好きにとってはたまらない。いろんな想像をかき立ててくれる。何となくロマンを感じるのは私だけではなかろう。私は、今も京都に帰ると何となしに落ち着く。それは、京都の地形が盆地であり常に周りの山が見えるということもあるが、空気にも歴史の重みが感ぜられ、それゆえに落ち着くということがあるのだろう。 』・・・・と。

 そして、蚕の社についてはこのように書いた。『 太秦にあるかの有名な「広隆寺」の少し東にあり、古くから泰氏の祭る神社であったらしい。平安時代には水の神社として信仰を集めていた。この蚕の社には、元ただすの池という池があり、その池の中に何とも不思議な鳥居が立っている。三本柱の鳥居だ。その謎ときは後日にゆずるとして、ここでは元ただすの池の湧水が古くから信仰の対象になっていたらしい点を指摘しておくにとどめる。』・・・・・と。そして、それ以来ずっと「蚕の社」や「広隆寺」については、ページアップのチャンスを逃していた。どうやら、今、そのチャンスがきたようだ。

 秦氏については、あまりにも奥が深くて、ごく表面的なことしか私には判らないが、一応、私の承知する範囲で、秦氏の紹介をしてみたい。まずは、「蚕の社」から紹介する。まず、「蚕の社」の不思議は、先に述べた「三本柱の鳥居」(三柱鳥居<みはしらのとりい>という)だ。

 

 

 この三柱鳥居<みはしらのとりい>については、奈良県はかの三輪(大神)神社にも三柱鳥居<みはしらのとりい>があることはあるが、これは比較的最近ものであって、「蚕の社」のものをヒントにつくられたものである。

 

 

明治十五年に社教分離令が出て、大神神社から大神教会が分離した。

大神教会は一の鳥居を入った直ぐにあり、そこに三柱鳥居がある。

ムスビ鳥居とも呼ばれて、

天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神を三位一体としてムスビ鳥居とも言われる。

三柱鳥居は京都の 木島坐天照御魂神社 が有名である。

 

蚕の社の三柱鳥居<みはしらのとりい>は全国唯一の誠に珍しいものである。これについては、いろいろと説があるが、京の都は聖なる二つの山、愛宕山と比叡山を礼拝するためのものというのがどうも正解のようだ。京の都は、御承知のように、和気清麻呂と秦氏がつくった。その秦氏の本拠地が太秦(うずまさ)である。京に都がくるずっとずっと前から秦氏は太秦(うずまさ)に本拠地を構えていたわけで、その中心となる殖産興業の神の一つが「蚕の社」である。三柱鳥居<みはしらのとりい>のある池を元糺す(もとただす)の池というが、糺すの森(ただすのもり)というのは下賀茂神社の森をいう。糺す(ただし)の元はここだという意味であろう。糺す(ただす)は只洲(ただす)で、川の近く河原という意味ではないかという説がある。私の想像では、大昔は、桂川がこの辺りを通っていたのではなかろうか。都の造営のとき、桂川は西側に曲げられ、加茂川もある程度東側に近くに付け替えられたのではないか。和気清麻呂と秦氏によって大規模な河川付け替え工事が行なわれたと思う。私の記憶では、元糺すの池は、私の子供の頃でも湧き水が非常に豊富であったが、大昔は、すばらしい水源が太秦というかこの元糺す(もとただす)付近にあったのではなかろうか。古(いにしえ)の記録によると、「蚕の社」の境内も昔ははるかに広大なもであったらしい。

 

それでは広隆寺は、かの牛祭りを見るとしよう。

その日は・・・・「蚕の社」の祭りから始まる。

それでは参ろうか。 参ろう!参ろう!