東北文化の誕生

 

 

 「続日本記」(724年)には坂東八国とあり七世紀の初期にはすでに相模の国が出来ていたらしいが、七世紀になった頃はまだ相模の国はなかったと考えられている。その頃、武蔵の国は現在の埼玉県と東京都と神奈川県からなる広大な地域であり、その中心地は現在の府中市の辺りであったらしい。しかし、あくまでも関東地方の中心は鎌倉であったのである。意外に思われる方が多いかも知れないがそれが事実である。関東の中心は、関東地方のみならず東北地方にも睨みを聞かさなければならない関係から、海上交通で大和と直結していた鎌倉でなければならなかったのである。大量輸送の手段は舟運であり、大和と直結するのは海上交通でしかない。その頃越後の国まで大和の支配が及んでいたが、これは日本海の海上交通によるものである。

 

 大和朝廷の勢力が東方に伸びていく過程において、太平洋の海上交通は物部一族、日本海の海上交通は安曇一族がそれぞれ大きな役割を果たしたと考えられるが、それぞれの発展過程において両地域にどのような交流があったのであろうか。太平洋川の地域と日本海側の地域とはどのように結ばれていったのであろうかというのが私の問題提起である。

 関東と越後とを結ぶ舟運は、荒川の舟運と千曲川の舟運である、秩父の十文字峠を経て二つの舟運は繋がってはいたが、その地形的条件から、関東と越後はそれほど密接な交流があったとは考えにくい。太平洋の黒潮文化と日本海文化とが繋がるのは、大和朝廷の勢力が東進し、それらが山形に至って出羽の国ができてからである。庄内平野と山形盆地、米沢盆地が繋がって出羽の国ができるのだが、東北地方の文化的発展を考えたとき、出羽の国誕生のもつ意味は非常に大きい。

 

 東北文化の臍(ヘソ)とも言うべきところがあの山寺で有名な立石寺であると思う。立石寺といえば円仁であるが、坂上田村麿(さかのうえのたむらまろ)の往くところ、いたるところに円仁の蔭がある。円仁は東北文化の成立に大きな役割を果たしたのではないか・・・・・私はそのように考えているのである。円仁は、最澄を超え空海を超え徳一を超えた、わが国が誇るべき世界の偉人である。その円仁が布教活動にもっとも力を入れたところ、それが東北地方である。

 

 

Iwai-Kuniomi