星井寺
極楽寺坂切り通しの入り口に、
鎌倉十井のひとつ「星月夜の井(ほしづきよのい)」という井戸がある。
そのすぐ横が星井寺(ほしいでら)である。
正式には、明鏡山円満院星井寺という。
天平年間、聖武天皇の時代に、行基によって創建されたと伝えられる。
此の寺の虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)は、
日本三大虚空蔵のひとつで、会津は圓蔵寺のそれと並んで大変貴重な仏像であります。
源頼朝もこの菩薩を崇敬したといわれています。
昔は、35年に一度の御開帳であったそうですが、
最近では、毎年1月13日に開帳され、初護摩が焚かれております。
境内の石仏はこの寺の古さをそれなりに感じさせてくれますが、
星井寺は一見何の変哲もない普通の寺で、
なぜ行基がこの寺を創建したのか不思議に思われます。
鎌倉には、板東33ケ所観音巡礼の札所が4つもありますが、
そのうち一番札所の杉本寺と二番札所の岩殿寺が
行基の創建になるとされております。
星井寺といい、
杉本寺といい、岩殿寺といい、
鎌倉に行基が頻りに登場するのは何故なのか。
そこが大いなる疑問ですね。
大仏開眼の立て役者は、よく知られているように、
行基と良弁ですが、
この二人がともに鎌倉と深く繋がっている。
なにせ、良弁の父・染屋太郎太夫時忠(ときただ)はこの星井寺のすぐ近くに住んでいたのですから・・・・・。
さらに言いますと、
四番札所の長谷寺は、これまた天平年間に、
藤原房前(ふささき)の力によって建てられたと言われていますが、
藤原鎌足の玄孫と言われている染屋太郎太夫時忠(ときただ)と
藤原房前(ふささき)とはどう結びつくのでしょうか。
なにせ長谷寺と染屋太郎太夫時忠(ときただ)の屋敷とはすぐ目と鼻の先ですからね。
先に述べたように、
染屋太郎太夫時忠(ときただ)の創建した甘縄神社が後年源義家の氏神になった・・・・
どうも・・・・染屋太郎太夫時忠(ときただ)が・・・
この謎を解く鍵を握っているように思えてなりません。
しかし、染屋太郎太夫時忠(ときただ)のことはよく判らないのです。
藤原鎌足の玄孫で、鎌倉の長者であったらしいということぐらいしか判っていない。
それも言い伝えでしかない。
いっさいは霧の中であります。
想像を逞しくしてこの謎を解くしか方法はなさそうであります。
鎌倉幕府が開かれるはるか昔、
天平の頃、
鎌倉はどういう場所であったのか、
・・・・
そのへんを探っていきたいと思いますが、
その前にもう少し鎌倉をほっつき歩いてみたいと思います。
まずは、頼朝と政子の墓を訪ねましょう。
