法相宗
ほっそうしゅう
中国仏教十三宗の一つ。中インドのナーランダ寺で戒賢に師事した玄奘(げんじよう)が,唐初に帰国して伝えた護法(ダルマパーラ)の《成唯識論(じようゆいしきろん)》の学説に基づき,《解深密経》《瑜伽論》などを所依の経論として,慈恩大師窺基(きき)が開宗した宗派。唯識宗,慈恩宗などともよぶ。法相とは諸法つまり万象が有する本質の相状のことで,識以外の何物も存在しないと説くのがインドで成立した唯識派つまり瑜伽行派であり,窺基は師の玄奘が訳出した《成唯識論》の注釈たる《成唯識論述記》などを著し,法相を五位百法に分類し分析的に説明した。玄奘と窺基が唐の高宗の厚い信任を得たことから,法相宗は一世を風靡したが,その教義がインド仏教を直輸入した色彩が濃く,教理組織が繁雑をきわめたこともあり,武周朝(690‐704)に法蔵の華厳宗が隆盛になるにしたがい,宗派としてはしだいに衰えてしまった。
礪波 護
日本では法相宗は八宗および南都六宗の一つであり,入唐求法僧により数次にわたって伝えられた。653年(白雉4)道昭が入唐留学して玄奘に受学し,帰国後飛鳥元興(がんごう)寺でこれを広め,658年(斉明4)に入唐した智通や智達も帰国後に当宗を広めた。これらは同系統に属し,平城右京に元興寺が創建されるに及んで法相宗も移り,元興寺伝,南伝といわれた。703年(大宝3)に智鳳,智雄らが入唐し,また717年(養老1)に入唐した義淵の弟子玄隈(げんぼう)も,ともに濮陽の智周に師事して法相を修め,帰国後これを広めた。なかでも玄隈は興福寺にあって当宗を興隆し,興福寺法相宗の基をきずいた。興福寺伝または北伝といわれる。
8〜9世紀には法相宗は隆盛を極め,多くの学僧が輩出した。ことに興福寺では賢憬(けんけい),修円,徳一などが傑出し,修円は同寺内に伝法院を創建,その1流は伝法院門徒と称せられた。元興寺には護命(ごみよう),明椿などの碩学が出たが,のち元興寺法相宗は興福寺に吸収され,興福寺は法相宗を所依とする1宗専攻の寺となった。平安末期以降にも蔵俊,貞慶,覚憲,信円らが輩出した。1882年に興福,薬師,法隆の3寺が大本山となったが,第2次大戦後,法隆寺は聖徳宗を標榜して離脱し,興福寺,薬師寺の2本山が統括するにいたった。 堀池 春峰
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