「いわき」と徳一

 

 

 私は先に、徳一のことに触れておいた。私のホームページには、いろんなところに徳一という名前が出てくるが、主たるページは「空海、最澄、そして徳一」というページと「空海と徳一」というページである。

 

 奈良時代から平安時代に時代は大きく変わったが、わが国の仏教も南都六宗から真言宗と天台宗という新しい宗教に移っていく。空海と最澄という偉大な宗教家によって新風が吹き込まれたということだが、その時期、徳一というこれまた偉大な宗教家がいたということは余り意識されていない。当時、わが国のニューフロントは東北地方だが、その東北地方においては、最澄は徳一に抑えられて全く手がでなかった。 最澄は、唐の留学から帰り、天台宗を唱えて奈良仏教を攻撃したので、徳一は最澄に反撃を加えて五カ年間にわたって大論争を展開した。理論闘争において最澄は徳一に勝てなかったのだ。最澄は、徳一を折伏(しゃくふく)し、東北に天台宗を広めようとして、まずは関東に乗り込んできたのだが、徳一に遮られて成功しなかったということだ。「空海、最澄、そして徳一」というページは、このような徳一が最澄と大論争をやったということを紹介した。そろそろ徳一と最澄の宗教論争を勉強することとしたいが、その前に徳一とゆかりのある「場所」を訪れるなどもう少し徳一のことを理解したほうがいいのではないか。

 

 最澄は徳一とは宗論で渡り合いともに相ゆずらなかったが、空海は奈良仏教の代表ともいうべき徳一とは論争をせず、むしろ尊敬の念を持って付き合おうとしたようだ。当然だろう。815年、空海42才の時、会津は磐梯恵日寺(えにちじ)にいた徳一に対し、空海は、名香ひとつと包みを添えて、お経分の書写を頼んでいる。その手紙の一部を次に紹介しておく。

 「聞くなら徳一菩薩は戒珠玉の如く智海弘澄たり、汚れを払って京を離れ、錫(しゃく)を振って東に往く。初めて寺を建立し、衆生の耳目を開示し、大いに法螺を吹いて万類の仏種を発揮す。ああ世尊の慈月、水あれば影現ず、菩薩の同事、いづれの趣にか到らざらん。珍重珍重。」

 空海と徳一とは気脈の通ずるものがあり、霊妙不思議な法力と二人の庶民性とが相寄るものがあったのだろう。常陸から会津にわたる徳一の関係の寺院のほとんどが空海の開創、徳一の初住と記録して研究家を迷わせているが、これも二人の関わり合いを現していて面白い。「空海と徳一」というページは、徳一と空海との不思議な関係を示唆しておいたものであり、これから訪れる徳一ゆかりの寺が真言宗の寺になっていることに疑問を感じる方もおられるかと思うが、それは徳一と空海とが不思議な関係にあったからである。まず、このことを理解しておいて欲しい。

 

 それでは、いよいよ徳一ゆかりの地を訪れることにしよう!

まずは「いわき」に参ろうか!・・・・参ろう!参ろう!