「いわき」は石城

 

 

「いわき」は磐城とか岩城とも書くし、岩木とも書くことがあるが、本来は石城である。「続日本紀」には陸奥国石城郡と書かれている。大石を並べた城塞のようなところが石城であるが、古代の蝦夷(えみし)に対する防衛前線基地の施設であった名残りで石城となっているのだろう。

 

前に述べたように、「北天の雄」アテルイが・・・胆沢城築造中の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)のところに降参してきたのが平安時代のはじめの802年である。鎌倉幕府ができるおおよそ400年前である。会津の清水寺、のちの恵日寺(えにちじ)及び石城の長谷寺が徳一によって開かれたのが807年であり、その少し前に徳一は奈良から東北に移住している。20歳半ばの情熱に燃える新進気鋭の青年僧である。アテルイが降参し、坂上田村麻呂によって東北が統一されてから間もなくの頃である。東大寺ができて約50年が経っている。常陸の国も含めて板東には国分寺がすでにでき、全国的に仏教が盛んになっているが、東北はやっと統一がなったところであって、仏教教学の普及はまだまだこれからというところである。807年という年は、そういう年であるが、最澄が唐から帰ってきたのが806年であるから、その翌年である。天台宗が公認されたその年であり、まだ空海は九州に留め置かれたままである。徳一は、最澄の14歳年下、空海の7歳年上である。高橋富雄(「徳一と最長」、1990年中公新書)によれば、徳一の生年は西暦781年とされているので申し添えておく。

東北の統一のなった802年という年に戻ろう。徳一はまだ20歳そこそこの年であるが、東大寺を中心として、奈良仏教の隆々たる時代である。高橋富雄(「徳一と最澄」、1990年中公新書)によれば、徳一は、興福寺から身をおこした。西大寺などにも身を置いたことがあるかも知れないし、大和の神野寺に修行したこともあったらしいが、やはり東大寺に移ってからが主たる修行時代となったらしい。であるから、徳一は、興福寺の僧といっても良いし、東大寺の僧といっても良い。飛び抜けて優秀であったようであるので、奈良仏教を担うべき新進気鋭の青年僧であったといってもよい。そういう優秀な青年僧が何故東北に移住するのか。そこが謎である。

 

徳一の東北移住に藤原氏の意志が働いていたのかどうか。また、移住先は会津が先であったのか石城が先であったのか。それらはよく判らないようであるが、私は、藤原氏の意向もあって、まずは石城に居を構えたのではないかと考えている。

徳一といえばまずは会津か筑波を思い浮かべる人が多く、石城(いわき)を思い浮かべる人は少ない。ほとんどないと言って良いのかも知れない。高橋富雄もその著・「徳一と最澄」(1990年中公新書)で、石城(いわき)のことは詳しく書いているが、どうも会津に重点をおいていて、「東北徳一の年代は、一応の目安として、大同2年〜天長元年(807〜824)の17年間を会津時代、天長元年〜承和9年(824〜842)の18年間を常陸時代と言っていて、石城時代を無視している。しかし、私は、どう考えても石城(いわき)が徳一のスタート地点というか本拠地で、会津や筑波は飛躍発展の地であったのではないかと思えてならない。石城(いわき)にも恵日寺(えにちじ)がある。和銅2年(709)奈良の僧・慈恵がこの地に錫を止めて草庵を結び布教した。その後、大同元年(807)に徳一が石城に来て、この堂を再建して布教の拠点にした・・・と伝えられている。

 

先に述べたように、東国はもともと物部の勢力の強いところであったが、中臣氏がそれをのっとってしまった。中臣氏、すなわち藤原氏である。東北経営は藤原氏のペースで進んでいったようで、武力とともに文化とりわけ宗教が東北経営に重要な役割を果たしたのであって、鹿島神宮や香取神宮のほか、奈良仏教の役割は非常に大きかったと考えざるを得ない。興福寺は藤原氏の菩提寺である。そこに育った新進気鋭の青年僧・徳一に藤原氏の期待がかかるのは当然であろう。アテルイが降伏し、東北の統一はなった。いよいよ仏教を中心に各地域の安定を図らなければならない。そういうときに徳一の東北移住が行なわれたのである。布教の拠点は石城(いわき)でなければならないのだが、何故石城(いわき)なのか。いよいよ石城(いわき)という「場所」について勉強していきたい。「場所」を知ることこそ「劇場国家にっぽん」の要諦である。

 

冒頭に述べたように、「いわき」は、石城である。古事記、日本書紀、風土記に表れる和訓は「伊波岐」であるが、その後、磐城とか岩城とも書くし、岩木とも書くことがあるが、本来は石城である。「続日本紀」には陸奥国石城郡と書かれている。大石を並べた城塞のようなところが石城であるが、古代の蝦夷(えみし)に対する防衛前線基地の施設であった名残りで石城となっているのだろう。

いわき地方は、古くから、関東圏に内包され、東北地方ではもっとも早く開発されて、大和朝廷化した地域である。私たちの多くは、学校教育においてほとんど大和朝廷を中心とした歴史しか習わないし、どうも東北地方は蝦夷(えみし)などという遅れた地域のイメージを持っているようである。もちろん、大陸文化という意味では、その伝播は朝鮮半島から次第に東へ或いは北へ向かうので、皇国史観からすれば確かに東北は遅れ他地域であり、大和朝廷化がすなわち近代化であるという感覚を持ってしまうかも知れない。しかし、三内丸山遺跡を見るまでもなく、日本列島の縄文文化はまちがいなく東高西低であり、思いのほか立派な文化があったのであって、弥生文化も私たちの想像以上の早さで吸収している。弥生文化は、東北地方に伝播したのではなくて、東北地方がいち早くそれを吸収したと考えるべきである。稲作は別だが、海の幸・山の幸はどうもいわき地方が、ある時期、東北地方でもっとも豊かであったらしい。その辺はおいおい追求していくこととして、ここでは、石城にもどる。

 

 石城には、石城軍団が置かれていた。大領(たいりょう)というのは郡の長官のことであるが、石城の大領・雄公が承和7年(840)に天皇から從五位下という官位を受けた。これは、征夷の軍功と道路や河川や営繕などのいわゆるインフラ整備に尽くしたその功績が非常に大きかったからである。大和朝廷の東北経営は、武力と文化の両面から行なわれたことはまちがいなく、文化の面では特に宗教に力を入れたのではないかと思う。石城(いわき)は、ある時期、大和朝廷軍の拠点であったであろうし、アテルイが降参して東北の統一がなってからも、石城(いわき)は仏教教化のもっとも重要な拠点であったのではないか。そのなかに徳一がいる。私は、徳一を語らずして東北を語ることはできないと思う。それにはまず石城(いわき)を語ることだ。

私は、世界平和を考える際に、或いは世界的な視野で仏教史を見るとき、徳一と最澄の宗教論争を勉強しないわけにはいかないと考えている。世界的視野で徳一という人物を見ているということだが、そのことについてはもっと後にしよう。とりあえずは、石城で(いわき)ある。そのあとは会津にも行かなければならないし、筑波にも行かなければならない。でもとりあえずは石城(いわき)である。

 

それではさらに石城(いわき)の何たるや・・を勉強していくことにしよう。まずは石城(いわき)の海である。

 


それではいよいよ「潮目の海」に参ろうか!

参ろう!参ろう!