高橋富雄の「いわき長谷寺考」

その1:徳一に関する歴史感覚 

 

 

 時あたかも最澄と空海が奈良仏教に対抗する形で山岳仏教を打ち立てようとしていた時代である。奈良仏教はどうしていたのであろうか。そこが問題である。私はそこを問題にしたいのである。21世紀のわが国の有り様なり世界平和を考えたとき、奈良仏教を支えてきた仏教の基本的な教説、それを私は仏教哲学と呼びたいのだが、その仏教哲学というものが今後大変大きな役割を果たす筈である。私はそう考えている。時代の流れは、密教を母体としてわが国にいろいろと新しい宗教を生み出していくのだが、奈良仏教が時代とともに消滅した訳ではない。奈良仏教は、徳一や明恵などという偉大な人物を生み出しながら連綿と歴史を繋いできて、今までも仏教哲学の源としての地位をなくしてはいない。奈良仏教、とりわけ法相宗や華厳宗はいよいよ21世紀においてふたたび光を放とうとしている。これが私の歴史感覚である。かかる歴史感覚から徳一を語りたい。

 奈良仏教との決別を意図して平安遷都を強行した桓武天皇。桓武天皇は偉大な天皇である。勉強すべきことが実に多いがとりあえずここでは先を急ぐ。ともかく新しい政治体制のもと・・・、桓武天皇の意図どおり動いていったかどうかは別として、平安遷都はまちがいなく大きな時代の流れというものをつくり出した。東北を完全な支配下に入れて、全国統一のもと、わが国はいよいよ新しい時代に突入するのである。そして藤原氏を頂点とする貴族政治が成熟していくがこの点についてもここでは触れない。ただ、東北経営は桓武天皇の最大の政治課題であったし、その直接の担い手は藤原氏であったということだけは指摘しておかなければならない。藤原氏の菩提寺は東大寺に隣接した興福寺である。

 当時、興福寺は、奈良仏教を代表する寺院であったと考えてよい。その興福寺の新進気鋭の若きエースが徳一であり、徳一に藤原氏から・・・或いは南都六宗から・・・大きな期待が寄せられたと考えてあながち間違いはではなかろう。興福寺は、薬師寺とともに、いうまでもなく法相宗の本山である。法相宗はかの三蔵法師(玄奘げんじょう)がインドからもたらした唯識哲学(唯識説)がもとになっている。わが国における仏教の本家本元、それが法相宗であるといっても決して言い過ぎではなかろう。その新進気鋭の若きエースが徳一である。桓武天皇の意志は、時代の要請として、次の平城(へいぜい)天皇や・・・・嵯峨天皇に引き継がれた訳だし、その徳一に対する藤原氏の期待というものは徳一の生きている間続いたであろう。

 特に藤原四家との関係でいえば、摂関家藤原北家と興福寺との関係が深く、嵯峨天皇の信認のあつかった藤原冬嗣(ふゆつぐ)が非常に興福寺を大切にしていたことは注目すべきである。813年、藤原冬嗣(ふゆつぐ)は興福寺の南円堂を建立している。徳一に対する藤原冬嗣(ふゆつぐ)の支援についても、おそらく・・・・、並々ならぬものがあったに違いない。嵯峨天皇と近い空海はそのことを十分承知しており、徳一に対する尊敬の念を表わさざるを得なかったのではないか。高橋富雄は、空海の「老獪(ろうかい)な微笑外交」と呼んでいるが、もちろんそれもあったかも知れない。そうかも知れないが、私は、私の歴史感覚からして・・・、藤原冬嗣(ふゆつぐ)と徳一との関係から空海は「優雅な微笑外交」を取らざるを得なかったのだと見ている。

 

 徳一は、南都六宗の期待を一身に受けて、また藤原氏の絶大な支援のもとで、東北に赴いたのだと思う。石城でしばし足場固めをして、慎重な計画のもとに会津における大伽藍の建設に着手したのではなかろうか。私の想像である。新しい大伽藍は、比叡山や高野山にすぐるとも劣るものであってはならない。南都六宗の威信がかかっている。徳一の恵日寺大伽藍は寺坊3800余坊、寺野15里四方いらかを並べ、軒をつらねたという。戦国時代に伊達正宗の焼き討ちに遭うまでは隆盛を極めたという。徳一が如何に優秀な僧侶であっても、このような大伽藍が個人の力で短期間にできるものではあるまい。背後に大きな力が働いていたと考えざるを得ない。そのような大きな地下rというものは、歴史的な必然性というか時代の流れの中で生まれてくるものではないのか。私にはそう思えてならない。

 

 恵日寺大伽藍の話は後日に譲るとして、「いわき長谷寺」に話を戻そう。高橋富雄によれば、「いわき長谷寺」は平城天皇の勅願寺であったという。勅願寺は正式には御願寺というが、高橋富雄は同じものとして勅願寺といっているので、私も勅願寺という言葉を使うが、もし「いわき長谷寺」が高橋富雄のいうように勅願寺であったとしたら、これは由々しきことである。勅願寺、つまり御願寺とは、奈良時代の官大寺と異なり,皇室を檀越(だんおつ)とする皇室の私寺で祈裳所,菩提所として営まれ,天皇譲位後の居所としての性格もそなえるものである。こんなものが、奈良ならいざ知らず、石城にあるとはちょっと考えにくい。まあ、控えめに考えて、興福寺と縁のある寺として勅願寺としての噂が立っていたのだとしても、それはもう・・・、「いわき長谷寺」の格式は大変なものである。藤原氏の絶大な支援があったことはまちがいないのではないか。

 

 徳一研究は、過去、会津恵日寺と筑波山中禅寺を中心になされてきたところ、高橋富雄が始めて「いわき長谷寺」に注目したことの意義は誠に大きい。そして、そのことに関連して・・・高橋富雄は、「徳一の仏教哲学と古代信仰の結びつき」について考察しているが、その見解は、これからの仏教の進むべき地平を切り開いているのではないかと思われる。21世紀における世界平和に資する仏教哲学というものの地平を切り開いているのではないかと思われるのである。

 中沢哲学を始め、新しい哲学によって、唯識哲学や華厳哲学の再整理が行なわれ、高橋富雄の見解を参考に、徳一が晩年目指したものの近代化がなされれば、仏教に新たな息吹が吹き込まれるに違いない。

 それではいよいよ「湯の岳」について高橋富雄の説明を紹介する運びとなった。

 しかし、徳一の仏教哲学と古代信仰の結びつきについての高橋富雄の考察に触れる前に、いわきの「湯本温泉」と「湯の岳」について語らねばならない。まずは湯本温泉を紹介したいと思う。

 

それでは、湯本温泉に参ろうか。

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