自他力 

 

愛のトランペット吹き鳴らせ!

 

 

早良親王(さわらしんのう)の悪霊は

青音(あおね)の愛によって、

祐姫(ひろひめ)の悪霊(ナマナリ)は

博雅(ひろまさ)の愛によって、

それぞれ成仏(じょうぶつ)することができる。

 

 

けだし、愛というものは本当に大事だなあ!

愛のトランペット吹き鳴らせ!

 

聖書に「Love is Pasient」というのがあるそうだが、愛というものは自分の思うようにそう自由に出し入れできるものでない。相手に対する想いとか思いやりというものが自然に湧いてくるうちはいいが、自己中心的になりそうでなくなると、自己を抑えないかぎり相手に愛を感ずるなんてことはできない。克己ということが必要になってくる訳だ。克己ということはガマンするということだが、ガマンをするということはなかなか大変で、そう簡単にできることではない。やせ我慢になりがちである。やせ我慢でなくて自然にガマンができるようでないとダメだ。そのためには、自己に捉われない境地、すなわち無の境地になるのがいちばんいい。自分自身をコントロールするという努力は必要だが、克己というものでなく、楽しみながら自由自在に自分をコントロールできれば一番いい。実際には、そう簡単にいかないのだが、私が言いたいことはそれを理想にすべきだということである。努力が必要だという意味において「自力」、楽しみながらという意味において「他力」がそれぞれ必要である。私が「自他力」という勝手な言葉を使うのはそういう趣旨である。なんとなくお分かりいただけたでしょうか。

 

「Love is Pasient」というときの愛は、極めて高次元のものであり、己を捨ててはじめて得られるものであろう。自力でもなく、他力でもない・・・・、なおかつ自力であり他力である。そういう絶対認識の境地こそ私たちが目指すべき境地である。私が口癖のように言っている「両頭截断(りょうとうせつだん)」ということだ。

 

現実の政治や経済社会活動において、或いは私たちの日常生活において、さる9月11日に発生した・・・あのようなテロ行為を容認することは到底できない。それを短絡的にイスラム原理主義と結び付けてはいけないのだが、それにしても私があの同時多発テロに関連して思うのは、排他的な宗教というもの、排他的な思想というものは、これからの平和な世界とはおおよそ無縁なものである。そういう意味で私はイスラム原理主義に疑問を感じている。同様に、法然の浄土思想にも疑問をもっている。私は、平和のためには、やはり違いを排するのではなくて、違いというものを認める思想がいいと思う。「劇場国家にっぽん」のモットーは、「バラバラでいっしょ!」がいいと思っている。私はそういうネットワーク社会を目指していきたい。

愛のトランペット吹き鳴らせ!

 

 

 

Iwai-Kuniomi