地蔵

じぞう

 

の一つ。サンスクリット名クシティガルバKitigarbha の訳。六道および五濁悪世を選んで救済活動にあたり,弥勒の出現まで活躍する。〈わが名を唱える人を苦から救う〉という誓願をたて,梵天,夜叉,狼,閻魔などさまざまの姿をとって衆生を導く。《地蔵菩本願経》によると,かつて二王がいて,一王は自ら悟ってから衆生を救おうと考え,一王はまず衆生を悟らせてから自らも悟ろうと考えた。前者は一切智成就如来,後者は地蔵菩である。〈地蔵〉の意味は〈大地(クシティkiti)の子宮(ガルバ garbha)〉であり,大地はたとえ裸でもさまざまのものを生み出す力を秘めているように,〈地蔵〉はいま菩であっても仏としての豊かな可能性を秘めていることを象徴している。したがって沙門の姿で表される。中国の偽経《預修十王生七経》では,罪人は死後に十人の王の役所を通過するとされ,日本の偽経《地蔵十王経》ではそのうちの閻羅(閻魔)王が地蔵の化身とされる。                    定方

[日本における地蔵信仰]  正倉院写経文書によれば,日本にはすでに奈良時代に《十輪経》など地蔵経典は伝来していた。しかし当時の地蔵造像の例は,阿弥陀,観音,弥勒などに比較して非常に少なく,その傾向は平安時代に入っても9世紀後半まで続く。おそらく現世利益信仰が仏教の主流を占め,来世の六道輪廻の恐怖がそれほど深まっていなかったこの時代には,地獄の救済を特色とする地蔵の信仰は,あまり人々の関心をよばなかったためと思われる。

10世紀末の源信の《往生要集》は,《十輪経》の一節を引き,地獄に入って衆生の苦を救う地蔵の徳をたたえており,浄土教の発達にともない地蔵の利益(りやく)は天台宗の僧侶や貴族の間でようやく注目されはじめたのである。しかし当時の天台浄土教では,地蔵は多くの場合,弥陀五尊の造像形式にみられるように,阿弥陀をとり囲む聖衆(しようじゆ)の一員として礼拝されるにとどまり,単独で造像崇拝される専修的信仰はまだ発達していなかった。

 平安時代後期,民間にも仏教が広く浸透するにつれて,地蔵信仰は大いに発達した。11世紀の中ごろ三井寺(園城寺)の僧実睿が民間地蔵説話を集成した《地蔵菩霊験記》は後に散逸したが,その説話の多くは《今昔物語集》巻十七に再録されており当時の民間地蔵信仰の特色をうかがうことができる。

功徳の集積が容易な貴族たちの間では死後の地獄の恐怖がさして切実でなく,地蔵への関心が薄いのに対し,浄土往生の功徳を積むすべのない民衆の間では,〈地獄は必定〉という深刻な地獄観の下で,地獄に入って人々の苦しみを代わり受ける地蔵の信仰が発達し,〈ただ地蔵の名号を念じて,さらに他の所作なし〉といった地蔵専修さえ成立したのであった。

鎌倉時代になると,法然,親鸞らの説く他力易行の浄土教が民間にひろまり,阿弥陀専修の立場から地蔵信仰否定の動きもみられた。これに対し,旧仏教側の無住の《沙石集》など阿弥陀にみられぬ地蔵の身近な利益を強調したこともあって,地蔵はむしろ現世利益的な面で民衆に信奉されるようになった。浄土に住まず,人々の間に交わり,大悲をもって罪人の苦を代わり受けるという地蔵の利益は,地蔵が信者の欲する力をもった人間となって現れたり,危難を被りそうになった信者の身代りになってくれるといった,〈身代り地蔵〉の信仰へ発展した。

こうして鎌倉時代から室町時代には,地蔵が僧の姿になって信者の看病をしてくれる話とか,信者に代わって田植をしてくれる〈泥付地蔵〉の話などが生まれ,地蔵の治病神・農耕神的性格もみられるようになった。また武士の間では,地蔵が戦場に現れて危急を救う〈矢取地蔵〉や〈縄目地蔵〉の話がもてはやされた。

足利尊氏が深く地蔵を尊び,みずから地蔵像を描いて人々に与えたのは有名である。こうした武士の地蔵崇拝は,甲冑をつけ,右手に剣をとり左手に幡をなびかせ,戦に臨めば向かうところ敵なしという,日本独特の〈勝軍(将軍)地蔵〉を生んだ。

 一方,14,15世紀ころから,仏教各派は民衆の間に浸透定着しようとして,死者の葬送追善儀礼を十王信仰と結びつけて強調した。日本偽の《地蔵十王経》では,地蔵は,亡者を裁断する畏怖すべき閻羅(閻魔)王の本身であるとされ,民衆の素朴な冥界の恐怖を背景に,地獄の鬼から亡者をまもる慈悲の面を代表するものとして信奉された。

六道をめぐって衆生を導くという信仰は,々の六地蔵を生み,あるいは地蔵が小僧の姿で現れるという日本古来の通念を基盤に,在来の道祖神などとも習合して,地蔵が地獄の鬼から子どもを救う〈賽の河原〉の信仰も発達した。

江戸時代には,延命地蔵,腹帯地蔵,子育地蔵,片目地蔵など無数の身代り地蔵が民衆によって創出されるが,こうした身代り的現世利益とともに,地蔵は来世救済の面も兼ねそなえ,日本人にとってもっとも親しみ深い菩として今日にいたっている。⇒地蔵盆                   速水 侑

[地蔵のイコノグラフィー]  密教系の地蔵菩としては胎蔵界曼荼羅の中に地蔵院(第三重北方)があり,地蔵菩を中尊として九尊が並ぶ。この地蔵菩は,通形の菩形で右手を挙げて日輪を持ち,左手は腰前におき,上に宝幢幡(ほうどうばん)をのせた蓮華を執り,赤蓮台上に結跏趺坐する。しかしこの図像をとる地蔵菩は胎蔵界曼荼羅中にのみ描かれ,単独で造像・作画された例は見当たらない。一方,釈滅後より弥勒出世までの無仏時代の六道衆生を済度し,また地獄に苦しむ衆生を救出する末法思想や浄土信仰と結びついて広く親しまれた地蔵は,袈裟をつけた声聞形をなすもので,その図像は中国で成立したと考えられる。右手を施無畏印とし,左手に宝珠(盈華形)を執る地蔵は立像・座像とも平安時代に多い。さらに右手に錫杖を執る作例や,左足を垂下させた半跏像などは,平安時代から鎌倉時代にかけての作例が多い。絵画の場合,左手に宝珠を執り,右手の指を捻じて正面向きに立つ知恩院本などのほか,大半は宝珠と錫杖を執る像で立像・半跏像であり,座像は見当たらない。立像の地蔵では来迎雲に乗った作例が多く,しかも正面向きのほか,斜めを向いて来迎する情景を表現したものなどが見いだされる。また半跏像では岩座に座し,背景の自然景や侍者を伴う作例があり,さらに《十王図》と組み合わされたものや,《十王図》中に描き加えられた作例もある。これら《十王図》と組み合わされた地蔵像は,宋・元や高麗の地蔵図と強い結びつきが認められる。なかでも高麗画や敦煌画に見いだされる特異な図像を有する地蔵に,被帽地蔵と称される一群の作品があり,声聞形をなす地蔵が頭巾をかぶる姿で表される。                      百橋 明穂

 

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