陰について

 

 

 私は先に、「光と陰の生活空間を生きる・・・鋭い感性を磨く・・・」と題して、お台場の「陰」の部分に光を当てた。「陰」の大切さを皆さんにわかってもらいたいからだ。

 

 もう随分昔のことになる。私が中国地方建設局の局長であった頃であるから、平成3年か4年のことだ。永年の懸案であった国道183号線(島根県横田町から広島県西城町に向かっている国道)の権限代行・三井野原ループ橋が完成した。権限代行というのは、本来県が施工すべきところ、国が国の県により代行するもので、全国的にそう実例はない。県境付近の仕事はなかなか県はやらないので、国が権限により代行するのであるが、大体は技術的のも大変むつかしい事業が多い。三井野原のバイパスも大規模なループ橋となり、建設省はその技術力をかけて施工したものである。両県の喜びようはひとしおであった。当然であろう。竹下登先生も開通式にわざわざ出席され、心底喜んでおられた。沿道の人々は日の丸の旗、旗、旗である。竹下先生は地元の人々と一緒になって本当に喜んでおられた。私はあのときの竹下先生のお顔を忘れることはできない。そして、しみじみとおっしゃっておられた言葉を私は終生忘れ得ないのである。「自然の美と人工の美とが織り成して実にすばらしい!」と・・・・。そうなんだ。私たちは自然に手を加えて今の文化を生きているのだが、人工と自然が一体として融合していなければならない。清濁併せ呑むという言葉があるが、地域の構造も利便性と不便さが共存していなければならない。「光」と「陰」との共存である。竹下登先生の「ふるさと創成」の発想の原点もそこにあるのではないかと思う次第である。「光と陰の哲学」である。私たちは、「光と陰の生活空間」を生き、新しい文化、いや文明を創っていかなければならない。

 

 

 中西進がその著書「古代日本人・心の宇宙(日本放送出版協会、2001年4月)」で言っているが、「かげ」という言葉は輝きをいう言葉である。つまり明滅があるから、光であったり陰であったりする。だから「陰」とは光の「滅」の状態をいうのであって、あくまでも「かげ」の概念は明滅だというのである。「明」のときもあるし「滅」のときもある。「かぐや姫」は光の開かれた状態の女性であるというのです。むつかしいですね。むつかしい。むつかしいがこれが古代人の認識であり、真理である。私は、日ごろ思っているのだが、宇宙と響き合うのは夜がいい。私の山小屋は、「北天の小屋」というのだが、ベランダに出ると、北極星の周りを北斗7星が夜通し回っている。全部の星を引きつれて・・・。真っ暗な夜は星がきれいだ。光の滅の状態・陰がいい。他の光がよく見えるからだ。他の存在がよく見えるからだ。他の存在を知るということは大変大事なことで、他の存在を知らないとモノの本質を知ることなどできないのではなかろうか。他の存在を知るということは存在の本質、大いなる存在というものを知るということだ。それが「響き合い」である。下の囲炉裏小屋は「響き小屋」という。

 

 中西進によれば、「光」は「かた」であるが、「陰」は「しろ」である。こう考えないと源氏物語に出てくる「かたしろ」(形代)という言葉が理解できないという。明滅の中にある実態が「かたしろ」である。それが真実である。「かた」はいずれ消えてなくなる。「しろ」は「陰」であり見えないかもしれないが、間違いなく存在する。谷崎潤一郎の「陰翳礼賛(いんえいらいさん)」は、私たちの生活の中で実感できる「陰」の奥ゆかさを余すことなく書いているのだが、その背後にある哲学については谷崎潤一郎は何も書いていない。「光と陰の哲学」は、やはり中沢新一の助けを借りないといけないようだ。中西進も中沢新一の哲学を補強しているように思われる。もう少し中西進の言うところを見てみたい。

 

 上述したように、中西進によれば「しろ」は「陰」である。また、「み」という言葉は実態をいい表わしている言葉のようであるが、「陰」も実態であるから、「しろ」は「み(実)」であるという中西進の説明はうなずける。形見(かたみ)というのは「形代(かたしろ)」といっても同じものだが、それは代表品ではなくて、そのものである。実態を言い表している。「実(み)」である。私たち日本人の心情からすれば、日常の愛用品にはその人の魂が移っていてその人そのものである。形見(かたみ)は大事にしなければならない。また、道具というのは使っているうちに自分の魂が移っていくので、それを捨ててしまうときには供養をするということも行なわれる。針供養などである。

 中西進がいうように、「つねに転移してやまない現実、材料(しろ)として、個体を超えて存在しつづける形、明滅の中にある実態。それらこそが古代人にとっての、物の姿」・・・であったのだ。陰のうちにある「しろ」や「み」が、実は、本当の姿であるかもしれない。本質であるかもしれない。「光」が非現実だというのではなく、「陰」にも現実がある。その「陰」の現実はかえって本当の姿であるかもしれない。だから、じっと眼(まなこ)を凝(こ)らして「陰」を見なければならないのである。

 

 中西進の説明の詳細はその著書「古代日本人・心の宇宙(日本放送出版協会、2001年4月)」をご覧いただきたいが、要は、「陰翳礼賛」の哲学はここにあると考えるのである。「光」は、「かた」であり「モノ」である。「有」である。「陰」は「しろ」「み」であり「タマ」である。「無」である。「むす」は誕生を言い表す言葉だが、その「むす」の根源は「タマ」である。「タマ」から「モノ」が誕生する。「無」から「有」が誕生し、「陰」から「光」が誕生するのである。「モノ」の本質は「むす」にある。「むす」によって「タマ」から「モノ」が誕生する。その繰り返しが永遠に行なわれる。永遠というものがどういうものかわからないが、ともかく宇宙のビッグバーンから現在までとほうもない時間をかけて「むす」が繰り返されて現在があり未来がある。永遠に「むす」が繰り返されているという実感が大事なのです。そういう「むす」の繰り返しという・・・まさに宇宙の神秘の中に今たしかに自分がいる・・・・、そういう実感が大事なのです。

 「たまきはる命に向かひ恋ひむゆは君がみ船の舵柄(かじから)にもが」という万葉集の歌がある。「たま」は魂であり、「きわむ」は極限に向かってなお終了しないことを言い表しているのだそうで、「たまきわはる」という言葉は「命」にかかる枕詞(まくらことば)なのだそうだ。この「たまきはる」という言葉の感覚が大事で、「たまきある」という言葉を聞いたとき「むす」の繰り返しをイメージしないといけない。「むす」によって魂は永遠なのです。生命が個々人の身体になく魂にあるのだと考えれば、命は永遠だ。そういう感覚が大事なのです。「魂の転移」・・・、それは「むす」である。この感覚は後で述べるアポリジニの「点の連鎖」における感覚とまったく同じ感覚であるのだが、古代人にはそういう感覚が十分に備わっていた。私たちにはそういう感覚がほとんどなくなっているのかもしれないが、よくよく考えればそれが真実であるから、やはりこれからはそういう感覚を取り戻さなければならないのです。「魂の転移」、「点の連鎖」、「光と影の明滅」をそうあらしめているものは「むす」である。

 先に、「かぐや姫は光の開かれた状態の女性」という中西進の説明を紹介したが、そうなんだ。かぐや姫はいつ消えてなくなるかもしれない。だから、かぐや姫の本当の姿というか、本当のかぐや姫を手に入れるためには、その本質の部分「むす」を手に入れなければならない。「むす」だ。「むす」の象徴は、中沢新一が指摘するように、南方熊楠のいうところの「燕石」である。その「燕石」を手に入れないとかぐや姫は消えてどこかにいってしまいますよ・・・というのが「かぐや姫」という物語であって、中西進のいうようにまさに「かぐや姫」は光の開かれた・・・きわめて不安定な「形(かた)」の物語である。彼らはかぐや姫を手に入れようとすれば「燕石」を手に入れなければならなかったのだし、私たちはモノの形にとらわれるのではなくて、モノの本質を手にしなければならない。私たちはもっともっと「しろ」や「み」、すなわち「陰」をわがものとしなければならないのである。

 

 

 最近、柳父章(やなぶあきら)の「翻訳文化論」が「秘の思想(法政大学出版局、2002年11月)」として新たな展開を見せその哲学的発展が期待されている。柳父(やなぶ)は、「秘は、送り手と受けての側でつくられる」といい、記号論的に「秘」の問題を捉えているが、その奥ゆきは大変深い。これを私流に言えば、形はあってないほうがいい。大事なものはできるだけ隠すほうがいいということだが、柳父の「秘の思想」も「陰」の本質を言い得て妙である。したがって、中沢新一の「光と陰の哲学」を広めたいと考えている私としては、いずれ柳父の「秘の思想」をも真正面から取り上げたいと考えているが、今ここでは時間がない。「陰」の問題が中沢新一のいうところの「東北」つまり「環太平洋の環」にどう現われているか、最後に、中西進の言説を紹介してこのコラムの終わりとしたい。「明滅の中にある実体、それらこそが古代人にとっての、物の姿である」ということに関連して彼は次のように言っている。

 『 老子が「天象に形なく」といったのもそれにほかありません。恍(こう)であり惚(こつ)であること、物が窈(よう)であり冥(めい)であるといった実体の不確かさ、つきつめていったときに物はそれほど固形を希薄にするという認識は、「万葉集」にも「源氏物語」にも認められるものでした。

 さて、そうなると古代人は存在を個々の人間や草木において認めながら、この「点」としての存在はとどまることなく連続性をもち、つぎつぎと点を連ねながら線を形成していきます。

 ちなみに、この認識と同じものを、われわれはオーストラリアの先住民、アポリジニの思考の中に発見します。

彼らは画布に無数の点を打ちます。先祖から人間がつぎつぎと生まれ、繁栄した結果このように世界に溢れたのだといいます。彼らは人間をつねに先祖と子孫という関係で捉えており、その一人ひとりの人間は、いわば点として描かれてよい存在です。

 

 ですから画のモチーフに先祖がしばしば登場するのです。これは先祖が泉から泉へと旅をしている画だ、といいます。その周辺にはあの点がみちています。

 アポリジニは時間を超えます。遠い先祖の時間の旅が描かれます。これらを高度に思弁的に語ったにすぎないものが「源氏物語」だとさえ思えます。

 何も永遠は生死の面に限られないけれども、点が点でありながら連鎖して線を形成するあり方は、こうして生死の中に、より典型的に語られるようになります。 』

 


それではいよいよ「陰」の技術論に入っていきます。

ここをクリックして下さい!

 

 

 

Iwai-Kuniomi