鎌倉大仏建立の謎

 

鎌倉の大仏が何故建立されたのか。これは大いなる謎である。全く謎ではあるが、怨霊説が有力だ。そこで、以下、怨霊説について触れておきたい。

先に私は、鎌倉の大仏が奈良の大仏と同じように怨霊を鎮めるためにつくられたのではないかと述べたが、永井路子さんも同じような認識のようであるので、まずは永井路子さんの説を紹介しておきたい。御承知のように、永井路子さんは、小説「北条政子」を書いておられ、鎌倉についての造詣の深い方である。永井路子さんの説は傾聴に値すると思う。

 

頼朝挙兵以来北条氏とライバル関係にあった三浦氏が、1247年、遂に滅ぼされてしまう。その後、天災が続いたので、人々はこれを三浦氏の怨霊の祟りと考えた。三浦攻めの積極的な推進者であった安達藤九郎盛長(もりなが)がその怨霊を鎮めるために計画したというのだ。当然幕府の強力な援助はあったであろう。でも、安達藤九郎盛長(もりなが)には相当の財力があったようだ。

なにせ藤九郎はかっての鎌倉の長者・染屋太郎太夫時忠の子孫ですからね。藤九郎の屋敷は鎌倉大仏と地続きの甘縄神社にあり、もともと藤九郎の土地に大仏が建てられた可能性が高い。

また、染屋太郎太夫時忠は、大仏開眼の立て役者・良弁の父親であり、奈良の大仏の建立に相当の寄付をしたふしがある。鎌倉の大仏と奈良の大仏とのつながりがあって、この説は大変面白いと思う。

 

なお、大仏の建立とは関係がないかもしれないが、政子が亡霊に悩まされる記録があるので紹介しておく。幕府の公式記録ともいうべき「吾妻鏡」の1213年4月4日の条だ。

この日、奥州平泉寺の修理をすべく執権北条義時の命令書が現地の地頭に下された。これは、昨夜、政子の夢に甲冑姿の亡霊が出て、「平泉寺の墓が荒れていることを深く恨みに思っている。あなたの子孫の運のためにこのことを言う」と言ったからだという。政子は目を醒ますとすぐに弟の義時に伝えた。昨夜は藤原秀衡(ひでひら)の死んだ日である。ひょっとしたら秀衡(ひでひら)の亡霊だろうか。それにしてもなぜ甲冑を着用していたのか。人々は不思議に思いあれこれ語ったことだった。     以上

 

清水真澄(ますみ)著の「鎌倉大仏」という本(有隣新書)がある。上記の・・・永井路子さんの説も紹介してあるのだが、この本は鎌倉大仏を語る上で必見の本だ。以下、要点を紹介しよう。

 

頼朝の死後、この大仏建立が行なわれるまでのやく40年間は、鎌倉幕府150年の中でももっとも事件の多い激動の時期である。頼朝、頼家、実朝をはじめ、何と多くの人たちが殺されたことであろうか。多くが非業の死である。怨霊がうごめいて不思議はない。

でも、聖武天皇の頃とはちがって、なんせ板東武士の時代だ。怨霊に悩まされるようなことはない。しかし、非業の死を遂げた人たちの鎮魂は必要だ。

承久の乱も治まり、鎌倉がなんとか安定期に入った・・・泰時(やすとき)のときになって、平和を願いながら、多くの亡霊の鎮魂のために大仏は建立された。もちろん、泰時の考えによる。責任者は、叔父の北条時房とその子の大仏朝直である。大仏次郎は大仏朝直の子孫である。

原則的には勧進聖による寄付によることとし、幕府はできるだけ影に隠れるようにしたらしい。民心を考えてのことらしい。それが明惠(みょうえ)の「あるべきようは」であるのか・・・・。

 


泰時(やすとき)と明惠(みょうえ)については、おいおい説明をしていきたいと思う。

21世紀における我国のありようを考える際の・・・・・大いなるヒントがそこにあるのかもしれない。

 

私は、漠然としたそんな思いがあって・・・・「武家社会源流の旅」を始めたのであったのだが、ようやくにしてここまでたどり着いた・・・そんな感じである。感無量である。

しかし、今ここで、これまでの旅を振り返った時、まだまだ見たいところが残っているようだ。それらはおいおい行くとしよう。急ぐ旅ではあるまい!

それでは、もういちど初心に立ち返る意味で、・・・スタート地点に戻るとしよう!


それでは次に進んで下さい!

 

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