鎌倉[市]
かまくら
神奈川県南東部,三浦半島の基部に位置し,相模湾に臨む市。人口17万0329(1995)。市の中心部は標高100m内外の丘陵に囲まれた低地で,その周辺に〈やと〉〈やつ〉と呼ばれる奥深い谷地が多く見られる。1192年(建久3)鎌倉幕府の成立により武家政治の中心地となり,室町時代に入ってからも鎌倉府の所在地として栄えたが,15世紀半ばに鎌倉公方足利成氏が鎌倉を追われて以後衰退した。鎌倉彫や相州物などの手工業も残ってはいたが,江戸時代にかけては農漁業中心の寒村であった。江戸近郊の観光地としての鎌倉の史跡,社寺めぐりは江戸中期以後盛んになった。1889年大船から分岐する国鉄(現 JR)横須賀線が開通し,東京に近く,温暖な気候のため,別荘地,郊外住宅地としてしだいに市街地が形成された。1910年江ノ島電鉄線(江ノ電)が全線開通したころから臨海部には療養施設が並び,観光客,海水浴客も増加した。25年の横須賀線の電化により,京浜への通勤が可能になって,人口増加も著しくなり,39年鎌倉町は西隣の腰越町と合併して市制を施行した。第2次世界大戦後,東京・横浜の戦災によって,京浜からの移住者が多くなり,48年北西方の深沢村・大船町が編入されて現在の市域となった。61年大船駅から湘南モノレールが湘南江の島まで開通し,沿線の旧大船町,深沢村,腰越地区の宅地化が急速に進んだ。七里ヶ浜背後に高級別荘地として開発された鎌倉山一帯もその南斜面が60年代以降,宅地化された。旧大船町地区のうち大船駅周辺は,第2次大戦中から京浜工業地帯の延長として工業化が進み,市内の事業所の半数以上がここに集中している。1936年東京蒲田から移転した松竹撮影所,大船観音(1960完成),県立フラワーセンター(1962開園)も大船にあり,撮影所の縮小に伴って市立の芸術館(1993),松竹のシネマ・ワールド(1995)が建設された。
鎌倉は歴史都市といわれるが,鎌倉時代の遺構で現存するものは少ない。しかし三方を山で囲まれ,相模湾に面した自然環境や,鎌倉七口といわれる鎌倉に入る切通し,道路網などに昔をしのぶことができる。鎌倉の市街地の中心をなすのは鶴岡八幡宮で,八幡宮前から由比ヶ浜海岸に向かって一直線に若宮大路が通じる。八幡宮境内には1928年開館の市立国宝館と51年日本最初の近代美術館として開館した県立近代美術館などがある。八幡宮から北西へ小袋坂の切通しを越えると JR 北鎌倉駅に近い山ノ内で,ここには北条時頼創建の建長寺,北条時宗創建の円覚寺のほか,周辺には鎌倉五山の一つ浄智寺,縁切寺で知られる東慶寺がある。八幡宮の東隣が源氏の居館の跡で,最初の幕府所在地,その中央背後に頼朝墓がある。北条氏が執権をつとめた時代の幕府は若宮大路の東にあったが,今は住宅が立て込んでいる。頼朝墓の東には社歴の古い荏柄(えがら)天神,1869年(明治2)創建の鎌倉宮があり,その北には覚園寺,鎌倉宮の東には二階堂永福寺跡,瑞泉寺がある。頼朝墓前を東西に走る道路は金沢道で,古寺杉本寺,浄明寺,朝比奈切通しを経て東京湾岸の金沢八景へ抜ける。相模湾沿岸は,旧鎌倉市街地の中央を流れる滑川の河口によって二分され,その東岸が材木座海岸,西岸が由比ヶ浜海岸で,夏季は海水浴客でにぎわう。材木座には海岸近くに浄土宗光明寺があり,淘子市との境界海面上に日本最初の築港の跡といわれる和賀江島がある。この海岸部を走る国道134号線が切通しで抜ける海側には新田義貞の鎌倉入りで知られる稲村ヶ崎がある。稲村ヶ崎の東は極楽寺,その東が長谷で,長谷には鎌倉大仏(国宝)と,金色の観音像で知られる長谷寺がある。長谷通りから入ったところにかつての前田邸を利用した鎌倉文学館がある。稲村ヶ崎から西へ小動崎(こゆるぎざき)までの海岸が七里ヶ浜で,小動崎の西には腰越の漁港があり,その南に江の島(藤沢市)が浮かぶ。
第2次大戦後,鎌倉の宅地化が急速に進んだため,鎌倉市は奈良・京都両市とともに古都保存の運動を高め,1966年の〈古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法〉が制定された。
伊倉 退蔵
[歴史] 鎌倉の名はすでに《万葉集》の東歌に〈鎌倉山〉〈鎌倉の美奈瀬(みなのせ)川〉〈鎌倉の見越崎(みこしのさき)〉などとよみこまれ,《正倉院文書》中の天平7年(735)の〈相模国封戸租交易〉には,鎌倉郡鎌倉郷のうち30戸分の田135町109歩の租の半分が,食封として高田王に与えられたと見えている。鎌倉郷は同時に郡の名にもなっており,地域の中心的集落だったことがわかる。三浦半島の付け根に位置し,房総地方へと通ずる古道も通過する重要な場所で,平安時代を通じてほぼ国司の支配下の国衙領であったらしい。平安時代後期,相模守など東国の国守を歴任して地方武士団を組織しつつ,“武家の棟梁”への道を歩んでいた源頼義は,鎌倉を所領とし,1063年(康平6)には武運を祈るため石清水八幡宮をこの地に勧請した。これが鶴岡八幡宮の起源で,源氏と鎌倉との関係の始まりである。頼義4代の孫の義朝も,先祖伝来の館を鎌倉に所有しており,若い時にはこの館に住んで東国一帯に大きな勢力をふるっていた。義朝の子の頼朝が1180年(治承4)伊豆で挙兵して東国武士団の組織に成功し,新しい軍事政権を樹立した時,頼義以来の縁故のある要害の地として鎌倉が本拠に選ばれた。以後,鎌倉幕府が所在する東国の政治的中心として目ざましい発展をとげ,中世を代表する都市の一つとなった。
都市としての鎌倉の範囲は,13世紀前半に四境とよばれた境界外の地点が東は六浦,南は小坪(小壺),西は稲村(あるいは片瀬),北は山ノ内とされているから,ほぼ推察がつく。すなわち鎌倉七口と総称される切通し,それに稲村崎越と小坪道など,東・北・西の三方を囲む丘陵を越える峠道によって区切られる地域が鎌倉なのである。これらのけわしい山越え道は,ほとんど尾根を切通しで通過するが,非常時の防衛のためにせまい道を屈曲させ,また切通し以外からの侵入を防ぐために,尾根筋に平行に切り落とした人工の崖を長々と連ねている。切通しの入口には,城塞の門としての木戸も設けられていた。鎌倉はまさに“木戸の中の都市”であり,西欧中世はじめ世界各地に広く分布している囲郭都市,城塞都市であった。当時の人口数について,信頼すべき記録は何もない。しかし13世紀末,鎌倉を訪れた《問はず語り》の作者二条は,仮(化)粧坂(けわいざか)から鎌倉を見下ろして,東山から京を見たのとは大違いで,人々はまるで階段のように重なり合い,袋の中に物をつめこんだ状態で住みついている,と述べた。鎌倉の地形の特徴である細かいひだのような谷の奥まで雛壇のように宅地が造成され,人家の立ち並んでいた様子がしのばれるとともに,人口密度の高さが推察される。1252年(建長4)に幕府が酒の販売を禁止し,鎌倉の民家の酒壺を調査したところ,全部で3万7274個あり,1軒1個を残してほかは破壊させた。1軒に3〜4個の割合と仮定すれば,当時,鎌倉の民家は約1万戸あったことになる。いずれにせよ,特に13世紀以後の鎌倉が,人口稠密(ちゆうみつ)な都市であったことは間違いない。
都市としての鎌倉の中核部に位置するのが鶴岡八幡宮であり,頼朝は鎌倉入りの直後,それまで海岸にあった八幡宮を山寄りの現在の地に移し,その東側にみずからの屋敷(幕府)を建てた。そして八幡宮から南の海岸まで一直線の幹線道路の若宮大路をつくり,これを中心に何本もの道路を走らせて町づくりを進めた。頼朝の建てた勝長寿院,永福寺(二階堂)などの大寺院や,有力な御家人の武士たちの居館は,八幡宮や将軍の屋敷を囲むように山寄りの谷間に立ち並び,いわば山手ともいうべき中心地を形成していた。しかし武士の居館は,鎌倉の内の各地域,場合によっては境界部やその外側にも広く分布していた。特に北条氏一族は,鎌倉時代中期以後,名越,極楽寺,大仏,常盤,山ノ内,六浦(むつら)など鎌倉七口のすべての境界部を一族の支配下におき,そこに館を建てて防備を固めた。中でも北方の山ノ内は,北条氏嫡流家の所領で,13世紀半ばごろから執権の別邸や建長寺,円覚寺,浄智寺など禅宗専修道場の大寺院が続々と建てられた。こうした地域が,いわば鎌倉の山手ともいうべき場所であった。これに対して海岸に近い大町,小町,材木座一帯にかけては商工業者が多く住みつき,にぎやかな商業・港湾地区となった。1223年(貞応2)に鎌倉を訪れた紀行《海道記》によれば,南の海岸には数百艘の舟が停泊し,千万宇の宅が軒を並べる繁華さであったという。海岸のちょうど東南には,はじめ勧進聖の往阿弥陀仏が発起し,32年(貞永1)執権北条泰時が後援して完成した和賀江島(飯島)の築島と港湾施設があり,今も干潮の時には累々たる石積みの姿を現す。一方を海に開かれた鎌倉は港湾都市でもあり,その外港となった東京湾岸の六浦とともに,北九州や奥羽,北海道への大船,小船が往来した。最近まで鎌倉の海岸には,中国宋・元時代の陶磁器の破片がよく散らばっていたが,これは当時の中国との貿易の盛大だったなごりであり,北九州を中継点として鎌倉と中国とは意外にも密接に結ばれていたのである。鎌倉五山以下の禅寺は今も異国風の文物を蔵しているが,当時はまさに最新の中国文化の租界といった趣を呈していたに違いなく,港湾都市としての機能は鎌倉にとって大きな意味をもっていた。海岸の東側に今も材木座の地名が残るのは,鎌倉時代からこの地に材木商人の座のおかれたことを物語っている。鎌倉七座といって,なおほかにも多くの商工業者の同業組合があったとされ,多分事実であっただろうが,鎌倉時代の文献に現れるのは材木座と博労座のみである。
いうまでもなく鎌倉は,将軍の居所,幕府の首都ともいうべき都市で,将軍の直轄支配下におかれていた。幕府は京都の制度を導入して鎌倉でも家地の単位の戸主(へぬし)(50平方丈),家の集合体としての保(大きさは不明)の制度を作り,保ごとに保奉行人をおいて管理に当たらせた。そして保奉行人を統轄し,鎌倉を支配する地奉行を任命した。地奉行は幕府の政所に所属し,2名のうち1名は政所の高級職員,1名は北条氏嫡流家の被官が選ばれたようである。主として13世紀半ばごろ,幕府が地奉行,保奉行人らに出した法令によると,庶民や商工業者の乗馬をはじめ鎌倉での交通手段や服装の規制,盗人,悪党,ばくちの禁止,道路の清掃と保全,嶋々での相撲や行商の制止,濫行をこととする念仏者の追放などが命ぜられている。また幕府は,鎌倉の商業地域を大町,小町,米町,魚町,和賀江など7ヵ所に限定した。その場所の多くは,下町ともいうべき海寄りの地域であるが,山寄りの地域でも大倉嶋など道路の交差点や,化粧坂上など境界部は,商業地域に指定されている。幕府は市場以外で商人から直接に安く買いたたく“迎買(むかえがい)”や,市価より安く強引に買い取る“押買(おしかい)”を取り締まる一方,商人の暴利を規制する物価統制令や高利貸の利息の制限令も出し,発展しつつある商業・金融業を統制しようとつとめていた。しかしどこまで実効をあげたかは疑問である。
今も鎌倉には日蓮宗の寺院が多く,しかもその立地は海寄りの商工業地域に集中していて,山手の谷々の奥にある旧仏教や禅宗の寺院とは好対照をなしている。これは“嶋説法”に象徴されているような,宗祖日蓮の積極的な布教の中心が,まず鎌倉の商工業・交易地や街頭と深いかかわりをもっていたことを示唆し,当時,日蓮の門弟たちの教えが,鍛冶番匠の宗教だと非難された事実を思い起こさせる。日蓮にややおくれて一遍もまた,鎌倉での布教にその運動の成否をかけようとしたが,幕府によって鎌倉入りを阻止され,結局は郊外の片瀬の地で多くの人びとを教化した。鎌倉仏教の興起と都市鎌倉は,やはり深い関連があったのである。特に鎌倉にとって重要な役割を果たした人物は,北条氏一族と結びついて鎌倉の西の入口極楽寺を本拠とし,社会事業や下層民の救済につくす一方では,和賀江島や由比ヶ浜一帯の管理者として活躍し,日蓮とするどい対決をくりかえした真言律宗の忍性(にんしよう)とその門弟たちであった。彼らは,幕府が十分に支配・統御できなかった鎌倉周縁部に生きた多くの人びとを政治的中心に結びつける回路でもあったと考えられるからである。
さしもの繁栄を誇った鎌倉も1333年(元弘3)の幕府滅亡に際し大きな被害をうけ,以後,南北朝の動乱のなかでしばしば戦乱の場となって昔日の勢いを失った。室町幕府が京都に本拠を移したあと,足利尊氏の次子基氏が東国10ヵ国(のちに12ヵ国)を支配する鎌倉府の首長(鎌倉御所)となり,その地位は子孫に世襲されたので,鎌倉は依然として東国の政治的中心都市であった。しかし京都の幕府との対立抗争などで,鎌倉府の勢力がおとろえるにともなって,都市としての鎌倉も衰微し,1455年(康正1)幕府からの追討軍によって鎌倉御所成氏が鎌倉を追われ,下総の古河を拠点とするに及んで,政治都市としての生命は終わってしまった。以後の鎌倉はまた農漁村の集落にもどったが,それでも仏師や刀鍛冶をはじめかなりの手工業者が残って,かつてのなごりをとどめていた。江戸時代に入ると,ようやく江戸の近郊の観光遊覧地として発展するようになり,名所旧跡の遊覧や社寺の参詣の客が増加して旅宿が並び,地誌,案内記や絵図の出版も盛んに行われ,十橋,十井,五名水などの名所が整えられたが,基本的には東海道藤沢宿の在の農漁村にとどまった。 石井 進
§コラム【鎌倉七口】
鎌倉と外部をつなぐ七つの入口。七切通しともいう。鎌倉は三方を丘陵によって閉ざされ,南を海によって限られた要害の地であったが,承久の乱以後,政治都市として発展するに従い道路の確保が必要となった。しかし,東,北,西の丘陵は鎌倉を守る障壁の役目を果たしており,ここに道路を開くのは要害性を失わせる結果になってしまう。そこで必要最小限だけ尾根を切断して作った道が切通しと呼ばれている。このような切通しが鎌倉にはかなりあるが,中でも主要な7本を七口と称する。仮粧坂(けわいざか),亀谷坂(かめがやつざか),大仏坂,巨福呂(小袋)坂(こぶくろざか),朝比奈坂,名越坂(なごえざか),極楽寺坂である。
[仮粧坂] 梶原郷から損原岡(くずはらがおか)を経て扇谷(おうぎがやつ)の梅谷に通ずる道で,武蔵大路(武蔵と鎌倉を結ぶ道)の一部ともいわれる。そうだとすればかなり古い道で,12世紀にはできていたのかもしれない。1333年(元弘3)の新田義貞の鎌倉攻めの時には脇屋義助の軍が攻撃したが,容易には落ちなかった。
[亀谷坂] 山ノ内と扇谷を結ぶ坂。扇谷側は急坂で亀が登りきれずに引き返したので亀返り坂と名付けられたというが,俗説にすぎない。亀谷はかつての扇谷地区の総称である。
[大仏坂] 北条政村や北条義政の別邸のあった常盤から長谷大仏の西側に通じている。現在も一部は旧状が残るが,宅地造成で切り取られた部分も多い。
[巨福呂坂] 山ノ内から鶴岡八幡宮の西側に至る坂道。現在,旧状をほとんどとどめない。山内荘が北条氏の所領となった後に,鎌倉と所領との往来の便のため開かれたのだろうか。鎌倉合戦では激戦地となった。
[朝比奈坂] 六浦(むつら)口ともいい,武蔵国六浦に通ずる道。中世の六浦は港として栄え,そこで陸揚げされた物資を鎌倉に運ぶ要路であったと思われる。六浦荘には北条氏の一族金沢氏がおり,称名寺や金沢文庫が建てられていた。名前の由来を朝比奈三郎義秀が一人で切り開いたからとする説話がある。切通しの旧観が比較的よく残る。
[名越坂] 鎌倉から三浦半島へ通ずる要路にある。鎌倉七口では最も旧観をとどめ,坂の周辺には階段状地形や切岸などの防衛施設を数多く良好に残す。坂の鎌倉側には北条氏の屋敷が多くあった。三浦半島を本拠地とする三浦氏を意識し,その勢力の分断を図ろうと特に防備を固めた可能性もある。
[極楽寺坂] 極楽寺と甘縄,由比を結ぶ道。旧切通しは現在の坂よりも高いところを通っており,坂の上にある成就院と同レベルであった。鎌倉合戦では大館宗氏を大将とする一隊が攻めたが落ちず,新田軍は稲村ヶ崎の干潟から鎌倉へ侵入している。 大三輪 龍彦
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