さあ、それではいよいよスピリットの勉強をしよう。中沢新一が言うように(中沢新一、「カイエソバージュ・、神の発明」、2003年6月、講談 社)、今まで哲学や科学によって、神(ごっど)の本質を解明しようという試みはたくさんあったのだが、スピリットの思考によって内面から神(ゴッド)の秘 密を明らかにする試みはなかった。中沢新一が初めてである。私は平和の問題を語るのにまず「怨霊、鬼、妖怪」から入っていったのだが、中沢新一も言ってい るように、神の問題を、今日もっともあけすけなかたちで語るには、スピリットによるのがいちばんだ。
これからの世界、「ダイバーシティー」とか「バラバラでいっしょ」とかが大事なキーワードであるが、そのような「違いを認める文明」をつくりあげ ていかなければならない。その手がかりを得るために、私は、今、徳一を訪ねて会津の旅をしている。縄文の神々を訪ねる旅でもある。縄文の神々はいうまでも なくスピリットだ。「劇場国家にっぽん」の主役は地元の人々だが、その脇役はスピリットである。スピリットの名演技なくして「劇場国家にっぽん」は成り立 たない。それほどスピリットは重要だ。
これから、スピリットについて勉強していくが、いつものようにお手本は中沢新一の著書である。上記の本だ。若干私のコメントを挿入する部分もある が、ほとんどが上記の本からの抜粋である。この点はあらかじめご承知願いたい。
『 西洋世界では、神(ゴッド)はこの世界に意味をもたらすと言われています。・・・(中略)・・・ですから、その神が一瞬たりともいなくなってし まえば、世界に意味づけをすることも、その中で生きている者同士がたがいにコミュニケーションをおこなうことも不可能になってしまうでしょう。
西洋世界で宗教というものがまだ大きな影響力をふるっていた頃には、そういう考えは一般的なものでしたが、近代になって「神は死んだ」などとお おっぴらに言われるようになってからは、人生に意味づけしたり、この世界はなぜあるのかといった問いを考えるために、もはや「神」や「救世主」などの考え に、容易にすがることができなくなってしまいました。そのため人生そのものが、やってくるのかどうかわからない「ゴドー(Goodot)」という人を待っ ている、きわめて不確かなものに変貌してしまっているっことを、認めなくてはならなくなっています。じつは近代の意識というものは、この神(ゴッド)の存 在の不確かさの感覚から発生しているのです。
しかしそういう時代になっても、大きな戦争がはじまったりすると、大統領の口からはさかんにゴッド(God)という言葉が発せられて、ゴッドの正 義の名のもとにおこなわれる戦争の遂行が国民に呼びかけられ、たくさんの人々がそのことばに真剣に聞き入っている光景を見かけることになります。私たちの 多くがこの光景に違和感をもつのは、「神」というものが絶対的な正義と結びついたりする発想法に、なじめないからです。
明治時代になってから、日本人はこの「神」ということばでユダヤ教やキリスト教やイスラム教のようないわゆる一神教の神(ゴッド)のことをも表現 するようになりましたが、この日本語の言葉の深層には別の本質と意味内容をもった神(いや神々といったほうがいいでしょう)が、まだまだ旺盛な生命力を もって生きていて、一神教の神のあり方に、いまだにブーイングを鳴らし続けているからです。』
(註:ブッシュ大統領の就任演説は
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/enzetubu.html )
『 スピリットとしてのカミ
つまり、近代の日本語には二種類の「神」がいるのです。一つはGodやDieuなどの翻訳語として、おもにキリスト教徒とともに日本語の中に入っ てきた神です。この神は人間からも自分以外の神々からも超越した存在だ、と考えられています。人間が感覚によってとらえ、思考によって認識し、行為によっ てつくりあげられている世界のすべてから超越しており、その世界を創造し、その世界に秩序を与えているのが、この神(ゴッド)です。感覚からも超越してい るために、具体的なイメージでとらえることもできないし、本来は像を描くことすらもできないほどに、高度な抽象性でとらえられています。・・・(中略)
ところが私たちは、もう一つの種類の「神」を知っています。こちらのほうは、もともとが自然現象と結びついた具体的なイメージを持っています。 『古事記』や『日本書紀』をちょっと開いてみるだけでも、そういう神にすぐ出会うことができます。太陽の神、月の神、水の神、海の表面近くの神、海中の 神、海底にいる神、火の神、穀物の神、飛沫の神、溶けた鉄の神、汗の神、などなど、ほとんど森羅万象にこの神は住んでいます。
そればかりではありません。真っ赤な鳥居の稲荷神社に行けば、狐の神が祀(まつ)られていますし、蛇がご神体になっているという神社もたくさんあ ります。ようするにこのタイプの神たちは、もとをたどれば精霊的な存在でもあったもので、それがしだいに洗練されていま残っているような姿をとるように なったとはいえ、スピリットの世界との密接なつながりを失っていないのです。・・・・(中略)
私たちがこうして今も使用している近代の日本語では、このように同じ「神」ということばで、全くタイプの違う二つの神、つまりゴッドとしての神と スピリットとしてのカミを一緒くたにして表現してしまっています。そのために、いろいろな場面で混乱が生じて、一神教に対する私たちの理解を歪(ゆが)め ています。』
『 増殖の中空空間
スピリットはまわりを閉ざされた空間の中に、いつもは閉じこもっています。卵や繭(まゆ)のような、中が中空になった空間の内部に密閉されている イメージです。座敷童子が薄暗い、めったに人の出入りしない奥座敷を住処(すみか)にしているというのも、そういうイメージにもとづいています。神はしば しば天空の高いところにいるというイメージがありますが、スピリットはむしろ洞窟や祠(ほこら)や岩の割れ目や森の中の木のウロのような、光がさんさんと 射し込んでくることのない、薄暗い密閉された空間を好むようです。
その空間から、スピリットはデリケートに出入りをおこないます。あらわれた!! と思った瞬間にはもう姿を消していたり、見知らぬ子供の姿であら われて、みなが気づかないうちに、すっと姿を消してしまうことも多いようです。これも神社や神殿の中に祀られた神とは、行動様式の異なる点です。神官たち が祝詞(のりと)を唱えたりすることによって呼び出されてくる神とは違って、スピリットの行動は人間の思考にも意志にも縛られることがありません。ひょっ とすると神の思い通りにもいかないのが、彼らの行動なのではないでしょうか。つまり、スピリットは思考や意思の及ばない場所を、活動領域としているわけで す。
さらに、スピリットが住処としている中空の空間はまた、さまざまな「増殖」のおこなわれる空間でもあります。富や食べ物や高い価値をもったもの が、そこからやってくると考えられています。そのために、東北では豊かな財産をもった家の奥座敷には、その家に好意を抱いている童子の姿をしたスピリット が住んでいて、それが座敷に住んでいる間は栄えるけれども、なにかの拍子にご機嫌を損じてプイッとどこかへいなくなったりでもすると、たちまちにして没落 が始まるというふうに考えられたのでした。
ここからつぎのようなイメージが紡(つむ)ぎ出されてきます。スピリットは人間の思考や意志や欲望がいっぱいの「現実」の世界からは隔てられ、閉 ざされた空間の中に潜んでいますが、完全に「現実」から遮断されたり、遠く離れてしまったりしているのではなく、密閉空間を覆う薄い膜のようなものを通し て、出入りをくりかえしているのです。そして、その膜のある場所でスピリットの力が「現実」の世界に触れるとき、物質的な富や幸福の「増殖」がおこるわけ です。』(註:ここがいちばん肝心なところで・・・・・)
次は、「神にならなかったグレートスピリット」です。