神にならなかったグレートスピリット

 

 

 聞くところによると奥会津はまさにスピリットの世界らしい。今は道祖神と徳一ゆかりの場所を訪ねて・・・旅をしているが、いずれ機会を見て、是非 奥会津にも足を伸ばしたと思っている。時間があれば沖縄にもゆっくり出かけたい。スピリットの旅は実に楽しい。

では、今回はグレートスピリットの勉強である。いつものようにお手本は中沢新一の著書(今回は「カイエソバージュ4・・・神の発明」、2003年6 月、講談 社)である。以下は、若干私のコメントを挿入する部分もあるが、ほとんどが上記の本からの抜粋である。その点ご承知おき願いたい。

 

 

『 多様性の森としてのスピリット

 スピリットの最大の特徴はと言いますと、その種類の多さということにつきるでしょう。なにしろ多種多様で、数が多いばかりではなく、種類もべらぼ うにたくさんなのです。このことは、日本語の世界で「おばけ」とか「妖怪」とか言われているものの多様さを考えてみれば、よくわかるでしょう。江戸時代の 人はユーモアたっぷりに、そういうスピリットの世界の「博物学」をつくって楽しんだりしていました。「百鬼夜行」ということばが示すように、つぎからつぎ へと涌(わ)いてくるのがスピリットの特徴です。

 こういう特徴は、どうも世界中で一般的なようです。オーストラリアの砂漠に住む人たちも、アマゾン河流域のジャングルに住む人たちも、極北の氷原 にアザラシを追っている人たちも、多種多様なスピリットの存在をよく知っていました。

 キリスト教によって、聖霊という特別な連中を残して、あとはスピリットなどすっかり駆逐されてしまったと思われているヨーロッパでさえも、じつは スピリットは死に絶えてなどいません。イングランドのストーンサークル遺跡の近くにでかけてみれば、いまだってさまざまなスピリットの活躍の様子を語り続 けている人たちに出会いますし、北欧の「トロール」と呼ばれるスピリットの生活は童話や絵本になって子供たちに愛好されています。

 スピリットの存在は、人類に普遍的なのです。それはおそらく、スピリットという存在が現生人類の脳におこった知的能力の革命的変化の本質に結びつ いており、そのためどんなに権力や大人たちの常識が否定しようとしても、子供や自由な精神をもった人たちの心から、スピリットの存在を示す気配のようなも のを、消し去ることができないからでしょう。それどころか、スピリットを遮二無二(しゃにむに)否定しようとする人たちこそ、自分たちの能力がそこから発 生してくる「はじまりの場所」の記憶を抑圧しようとして、無理をしているように思えてなりません。

 人類の知的能力の「はじまりの場所」では、自由な流動性を得た純粋知性の流れが、イメージをつむぎだす思考平面を通過していくたびに、不可解なイ メージのかたまりをつぎつぎと生み出していきます。それは心の内的体験と外的世界の体験とのちょうど「中間」に生み出される、それ自身が流動的なイメージ ですので、ひとつとして同じ形のものに固定されることがありません。その流動的なイメージ群が、分類的思考によって多少整理されることによって、私たちの よく知っているあの「百鬼夜行」するスピリットたちが、登場してくることになるわけです。』

 

 『 虹の蛇

  砂漠性の気候に生活するオーストラリア・アボリジニにとって、乾期にも干上がってしまうことのない水源の池はきわめて重大な意味をもつ場所で す。そのために、岩の窪地などにできたこうした池は、特別な扱いを受けてきました。めったなことではそこに近付いてはいけないし、特に生理中の女性が近づ くことも、大声で話をしたり笑ったりするのも禁じられていました。その池の底に「虹の蛇」が住んでいると考えられていたからです。

 虹の蛇のイメージは、あの広いオーストラリア大陸に住むアボリジニのあいだで、ほぼ一定しています。それをあらわす言葉をよく調べてみますと、 「虹の蛇」というきまった実体が考えられているわけではなく、水源の池の奥底に住む蛇のイメージと、空に立ち上る虹のイメージには、なにか共通するものが あるという思考から、この二つがゆるやかに結合され、そのまわりにいろいろなイメージや思考を引き寄せていることがわかります。

 この蛇は巨大な大きさをもっていて、ふだんは深い池の底に住んでいますが、雨期が近づいてくると、しばしば空中に向かって立ち上がってくることが あり、それを人は虹と見るのです。虹は大地の底から空中に立ち上がったエネルギー体をあらわしています。それはプリズムのように輝きながら、空中に架け渡 された虹の身体をとおって、流動していくエネルギーなのです。

 虹の蛇のことを「創造をつかさどるスピリット」と呼んでいる人々もいます。それは雨期にはこの蛇が地中から立ち上がって、雨をもたらし、洪水を引 き起こすのとひきかえに、大地を潤していくからです。虹の蛇のおかげで、植物も動物も豊かに繁殖を続けることができるわけです。虹の蛇の身体から無数のス ピリットの子供が産み落とされ、まき散らかされます。そしてそのスピリットの子供が母親の体内に入り込むと、やがて人間や動物の子供が生まれてくると考え ている人たちもいます。

 しかも虹の蛇は偉大なる「律法者」でもあります。女性や食べ物などが結婚の規則や交換の仕組みにしたがって円満に循環していくためには、人間はい ろいろと複雑な規則にしたがわなければなりません。その規則を破る者に対して、この蛇は激しい怒りを催し、侵犯がおこなわれたことに気づくや、たちまちに 地中からその巨大な鎌首(かまくび)を持ち上げて、「律法」を犯した者を呑み込んでしまうと、まじめに信じられていました。』

 

 『「大いなるもの」の感覚

 虹の蛇はまぎれもなくスピリット族の一員でありながら、オーストラリア・アボリジニにとっては、偉大なる「創造者」にして「律法者」だったわけで す。一神教の成立に決定的な意味をもつことになったモーセの体験のことを、ここで思い起こしてみるのもいいでしょう。モーセの前に出現した神(ゴッド) は、天地を創造した「創造者」であるとともに、厳(いか)めしい態度で律法の遵守をユダヤ民族に要求する「律法者」でもありました。モーセの神(ゴッド) は自分以外の一切の神を大切にすることを、激しい嫉妬心をもって拒絶しました。ところが、虹の蛇は自分がスピリットの仲間であることを否定するどころか、 むしろスピリットの増殖に一役買おうというほど、おおらかな性格をもっています。

 つまり、虹の蛇はスピリット中でもすば抜けた存在でありながら、あくまでもスピリット世界の一員であることを変えません。スピリットの世界はおび ただしい数と種類のスピリットでひしめき合っています。しかしそこには同時に、一神教の神(ゴッド)を思わせるようなとてつもない威力と単独性をそなえた 「大いなる霊」も存在し、おたがいを排除しあうことなくひとつのスピリット世界で共存しあっています。そしてこのようなスピリットのあり方は、「国家をも たない社会」では、むしろ普通のことだったのです。』

 

 『 アメリカ先住民の「グレートスピリット」

 最初にアメリカ先住民と白人が接触をはじめた頃から、彼らの間にキリスト教の神(ゴッド)の考え方とよく似た「超越者」の概念があるらしいという ことが、気づかれていました。霊的な存在すべての上に立つ、大いなる霊という意味で、その概念は英語で「グレートスピリット」と呼ばれるようになりました が、宣教師たちがいくら「君たちの信じているそのグレートスピリットこそ、われわれの言う神(ゴッド)なのだよ」と説明しても、先住民たちは容易に納得し ませんでした。それは神(ゴッド)とグレートスピリットのあり方に、根本的な違いがあったからです。

「グレートスピリット」と訳されることになったこの偉大なものに捧げる、祈りの言葉(「カイエソバージュ4・・・神の発明」、中沢新一、2003年 6 月、講)談 に耳を傾けてみることにしましょう。これはカナダの五大湖のあた りに暮らしていたオジブア族のものです。

 

  おお、グレートスピリットよ、私は嵐の中にあなたの声を聞きます。

  あなたの息吹は、万物に生命を授けています。

  どうか私の言葉を、お聞き届けください。

  あなたが生んだたくさんの子供の一人として、

  私はあなたに心を向けているのです。

  私はこんなに弱く、そして小さい。

  私にはあなたの知恵と力が必要です。

  どうか私が、美しいものの中を歩んでいけますように。

  赤と緋に燃える夕陽の光を、いつも目にすることができますように。

  あなたが創り出したものを、私の手がていねいに扱うことができますように。

  いつもあなたの声を聞き取っていられるよう、

  私の耳を研ぎ澄ませていてください。

  あなたが、私たち人間に教え諭したことのすべてと、

  一枚一枚の木の葉や一つ一つの岩に隠していった教えのすべてを、

  私が間違いなく理解できるよう、私を賢くしてください。

  私に知恵と力をお授けください。

  仲間たちに秀でるためではなく、人間にとっての最大の敵を

  わが手で打ち倒すために。

  汚れない手とまっすぐな眼差しをもって、

  あなたの前に立つことができますように。

  そのときこそ、私の命が夕焼けのように地上より消え去っていくときにも、

  わが魂はあなたのもとに堂々と立ち返ってゆけるでしょう。

 

 なんとも美しい祈りの言葉ではありませんか。私たちの知っているどんな宗教の「偉大な者」たちも、これほど純粋で、これほど美しい言葉で呼びかけ られたことはないのではないでしょうか。

 さて、ここからすぐわかることは、「グレートスピリット」というものが、私たちが神学的な言い方だと「神(ゴッド)」、哲学的な言い方だと「存在 Existance」と呼んでいる概念に、きわめて近いということです。それはこの世界のあらゆるもの(諸物)に偏在して、区別なく生かそうとしている力 をあらわしています。しかもこの力がくまなくいきわたっているからといって、諸物のもつ個体性がなくなってしまうというのではなく、個体性を保ちながらも その壁をのりこえて、あらゆるものにいきわたっていくのです。』

 

 『 「グレートスピリット」の形態学・・・(註:スピリットとグレートスピリットとともに暮らす世界)

 アメリカ先住民はこの「グレートスピリット」の概念を、いろいろな名前で呼んでいます。「オレンダ(イロクォイ族)」「マニトゥ(アルゴンキン諸 族)」「ポクント(ショショニー族)」「イェク(トリンギッド族)」「スガナ(ハイダ族)」などなど。そこにこめられている考えは、メラネシアの人たちが 「マナ」と呼んでいる概念や、古代の日本人が「タマ」と呼んだ考えと、ほとんど同じものと言っていいでしょう。・・・(中略)

 

_シュミット学説再考 

 ホモサピエンス・サピエンスへの飛躍を可能にしたのは、脳内に新しいレベルのニューロン組織網がつくられて、それまで領域化されていた知性の働き の間を、自由に流動していける知性が動き出したからだという仮説を認めるとしましょう。現代の認知考古学はここから、「比喩」を本質とする現生人類の言語 能力が形成されてくるプロセスを描き出そうとしてきました。これに対して私たちは、そのとき同時に「思考を超え出たもの」についての直感も発生できるのだ と考えたのでした。

 流動的知性は特定の領域に閉じ込めることができません。特定の領域にその流動的知性が流れ込むときには、その領域特有の「色」や「形」が付けられ ますが、その流動的知性が隔壁を越えて別の思考領域に入っていくと、別のグリッド(枠)の作用を受けて、別の「色」や「形」を付けられることになります。 そのとき二つの領域の重ね合わせがおこって、「色」の混合がおこり、「形」の変形がおこなわれて、ここに「比喩」的な重ね合わせをされた新しいイメージが 形成されます。人類がいま使っている言語は、この重ね合わせが可能にしたものです。

 しかし、どこにも領域化されない流動的知性そのものには、ほんらい「色」も「形」もないものですから、そこに思考の側から焦点を合わせるとなる と、「思考を越えたもの」の実在が直感されるようになります。もともとはその流動的知性が思考をなりたたせているものなのですが、それ自体に焦点を合わせ ると、「思考を超えたもの」が出現してくるというわけです。』

 

 『 一即多、多即一

 このとき二つのモノが「見えて」くるようになります。一つは「色」も「形」もない流動的知性が、心の底部を通過して思考の内部にあらわれてくるた びに出現する、思考と思考でないものとの「中間的」な存在、すなわちもろもろのスピリットたちの存在です。スピリットたちは数の多さ、種類の多様さを特徴 としています。なにしろスピリットは強烈な流動性を失わないまま思考のグリッドを通過してくるために、思考がしっかりと捕捉できるような同一性をもってい ません。それは、自分自身の力によって姿を変化させ(metamorphose)、すばやく運動していく敏捷さをそなえ、出現したかと思うと消えていって しまう不確かさを特徴としています。

 しかし、そういうスピリット世界の向こう側に、もう一つ別のモノが「見える」のです。それは流動的知性の純粋状態をあらわしています。どんな思考 の領域にも触れることがなく、心の底のすぐ向こう側を流動しているように見える、知性的ななにものかのことです。それは「色」も「形」ももちませんし、分 割されることのない連続体ですので、心の内側にいる思考には、とてつもなく「単純」で、「単一」なものが強烈な働きをおこなっているのが、直感されること になるでしょう。これこそ、スピリット中のスピリット、もっとも威力にみちたスピリットである「グレートスピリット」にほかなりません。

 このスピリットと「グレートスピリット」は、仏教的な言い回しをすれば、一即多、多即一の関係にあります。一というのが「グレートスピリット」に あたり、多というのが多種多様のスピリットをあらわしています。もともとその二つは、同一の流動的知性の見せる異なる姿にほかならないのですから、「即」 でひとつに結ぶことによって、はじめて全貌があらわになるような本質をもつと言えましょう。それにしても仏教の論理は、このようなスピリット世界の構造を 表現するのにぴったり、というケースがしばしばです。・・・・(中略)

 

 オーストラリア・アボリジニやアメリカ先住民のものの考え方を見るかぎり、スピリットと「グレートスピリット」は全く同じスピリット世界に、同じ 資格で同居しあっています。ところが、一神教の神(ゴッド)は多種多様のスピリットたちとは、全く違う位相にいます。ようするに「グレートスピリット」は 絶対に神(ゴッド)になろうとしないのです。

 ではいったいどのようなカタストロフィがおこれば、「グレートスピリット」は唯一神(ワン・ゴッド)に変貌できるのでしょうか。この問題を考え抜 いていくと、私たちは精神と物質とが同じ運動をくりひろげる不思議な領域の扉を押し開いていくことになります。』

 

 

 グレートスピリットについては以上ですが、中沢新一が言う「精神と物質とが同じ運動をくりひろげる不思議な領域」とはどのような世界を言うのだろ うか? 興味津々・・・。

 

 

 次は、「高神(たかがみ)と来訪神(らいほうしん)」です。

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