高神(たかがみ)と来訪神(らいほうしん)

 

 

 私は前回、「中沢新一が言う<精神と物質とが同じ運動をくりひろげる不思議な領域>とはどのような世界を言うのだろうか? 興味津々・・・。」と 申し上げたが、いよいよ神々の登場です。

 

 前回はグレートスピリットまで紹介してきたが、グレートスピリットはスピリットの世界から外には出ていないのであって、スピリットとまったく同格 だと考えて欲しい。しかし、今回、ここに登場する高神(たかがみ)と来訪神(らいほうしん)は、スプリットやグレーとスプリットの棲む世界と同じなのかそ うでないのかやや曖昧な面がある。一神教までいくともうすっかりスプリット世界とは違う世界になるのだが、この高神(たかがみ)と来訪神(らいほうしん) の世界というのは、どうもその中間的な世界なのである。一神教の世界にいっぽ足を入れている部分もあるがまだ残余のスプリットも残っている。そういうやや こしい世界なのだ。高神(たかがみ)と来訪神(らいほうしん)の世界というのは中間領域であって、スプリット世界といえばスプリット世界だし、かといって 神(ゴッド)がいないかといえばそれも居る。シュミットに言わせれば、高神(たかがみ)と来訪神(らいほうしん)という二種類の神(ゴッド)が居る。実 は、わが国がそうなのだが・・・、ちょっと微妙な世界、それがこの高神(たかがみ)と来訪神(らいほうしん)の世界なのである。

 

 

では、高神(たかがみ)と来訪神(らいほうしん)の勉強に入ろう。以下の説明は、例のごとく、中沢新一の[神の発明]からの抜粋であるが、私の考え により一部修正してある。その点、ご承知おき願いたい。

 

 『 高神(たかがみ)と来訪神(らいほうしん)

 このときスピリットの世界にいったい何かおこったのか、事の真相を知るためにここでは少し視点を変えて、カタストロフィ的な変化ののちに出現して きた神(ゴッド)の性質を考えてみることから、はじめてみることにしましょう。

 シュミット神父の大著『神(ゴッド)という観念の起源』があらわれて以来、世界中で人類が生み出した神の観念の比較や分析の研究が進みました。な かでもシュミットの弟子にあたるコッパースの研究はとてもすっきりしているもので、しかもなかなか汎用性に富んでいます。シュミット=コッパースの説から 発展したさまざまな考え方に共通しているのは、人類の抱いた神(ゴッド)観念を大きく二つの類型(タイプ)に分けることができると、主張する点にありま す。

 一つは「高神HighGod」型と呼ばれるものです。この神は「いと高き所」にいる神と考えられています。また階層構造をもった「天」の考え方と 結びつくことも多いために、「天空神(ゴッド)」と呼ばれることもあります。この神について思考するときには、垂直軸が頭に浮かんできます。高神自身が高 い天上界にあると考えられるときには、その神を人間が呼び求め祈りを捧げるときには、人間の心は「いと高き所」をめざし、そこから降りてきてくれることが 求められます。すると、このタイプの神は、山の上や立派な樹木の梢(こずえ)に降下してくれると、考えられているのです。

 もう一つのタイプは「来訪神」型とでも呼ぶことができるでしょう。「高神」型の神について思考するときには垂直軸のイメージが必要でしたが、「来 訪神」型の神の場合には、海の彼方や地下界にある死者の世界から生者の住む世界を訪れてくるために、水平軸のイメージが必要となります。このタイプの神 は、降臨してくるのではなく、遠い旅をしてやってくるという形をとることが多く、出現の場所も洞窟や森の奥といったほの暗いところに設定されています。

 二つの類型の神(ゴッド)の違いを、対照表にしてまとめてみましょう。

 シュミット=コッパース説では、人類が着想しえた神(ゴッド)はこの二つの類型のどちらかに帰属するという大胆な主張がおこなわれましたが、興味 深いことに、今日まで知られているどんな神(ゴッド)観念も、この二つの類型のどちらかに属するか、もしくは二つの類型の混合として出来上がっていて、そ れ以外の第三の型というものは見出されません。おそらく、彼らの神観念の類型説は正しいのだと思います。

 

高神型             来訪神型

いと高き、天空         海上他界、地下冥界

垂直軸の思考          水平軸の思考

高所からの降下         遠方からの来訪

観念の単純さ、表象性なし       豊かな表象性

純粋な光             物質性

 

 『 スピリット世界の分化

 それにしてもどうして神(ゴッド)にはこの二類型しかないのでしょう。その理由はこの二つのタイプの神(ゴッド)が、もともとはスピリット世界に 内在していた二つの特質が、分化して表面にあらわれてきた結果である、というところにあります。

 高神と来訪神を、スピリット世界の構成原理とていねいに比べてみることにしましょう。するとスピリット世界で「グレートスピリット」と呼ばれてい る存在のもつ特徴の多くが、そのまま高神の特徴となっていることがわかります。アメリカ先住民たちは、「いと高き所」にいます、高い倫理性と美を備えたグ レートスピリットに向かって、お祈りしていました。そのグレートスピリットはきわめて純粋な観念で、どのようなイメージを結ぶこともできないし、どんな像 にして表現することもできません。あらゆる存在を貫いて流れ、あらゆる存在にふさわしい居場所を与え、動物や植物や人間のような生物にも、樹木や岩のよう な非生物にも、等しく存在の息吹を吹き込んでいく、そういう純粋な観念でした。

 オーストラリア・アボリジニの有名な「虹の蛇」の観念にも、この高神としての性質は濃厚にあらわれています。この蛇はふだんは天空ではなく、いつ も水の溜まっている池の底に住んでいます。この蛇はまれには「水平軸」にそって、遠い旅をすることもありますが、もっとも重要な動きは「垂直軸」にそって おこなわれます。禁忌を犯した者が近くにいたり、雨期の到来が近づいてくると、この蛇は池の底から巨大な姿を立ち現して、天空に高々と鎌首を持ち上げ、そ の全身からほとばしり出るエネルギーは虹となって天と地を結ぶのです。しかも、虹の蛇は人間たちが伝統的な規則を守って、倫理性の高い暮らしを保ちつづけ ることを要求しています。イメージ性は極限に近いほどに強烈です。しかし、虹のスペクトルはもう一歩前に出ると、まばゆい白光の中に溶け込んでいく、ぎり ぎりの極限をあらわしています。それは純粋なエネルギー体というものについての、イメージによるぎりぎりの表現を示しています。このように虹の蛇の中に も、高神の特徴の多くがそのまま含まれていることは、まちがいないのです。

 一方、普通のスピリットたちの生活状況は、来訪神と深いつながりを暗示させます。来訪神は死者の住む世界からやってきます。そこはまた未来に生ま れてくる生命の貯蔵場所でもあります。空間的にとても「遠い所」と言われているところだけが違って、そのほかはすべてスピリットの住んでいる世界と同じで す。スピリットは森の中や洞窟を住処(すみか)にすると言われますが、来訪神はその森や洞窟を「通路」として、遠くの他界から人間の世界に出現してきま す。』

 

 

 中沢新一は、元は数学者であったこともあって、物理学とか数学にも明るい。物理学に、「対称性の自発的破れ」という現象があるのだそうだが、スプ リットの世界、すなわち対象性の世界から高神とか来方神といったちょっとした変わり者が飛び出してくる上記の現象を同じ現象と考え、詳細な説明を加えてい る。大変興味ある問題ではあるが、この際、ここでは紙枚の関係からあえて割愛することとする。要は、国とか社会から制度的に大きなストレスがかかると、脳 の中でも「対称性の自発的破れ」という現象が起きる。それが高神であり来訪神であるということらしい。

 なお、日本のような多神教の社会では、高神と来訪神と残余のスピリットから成り立っている。残余のスピリットという意味は、スピリットたちの中か ら高神に変身するものと来訪神に変身するものがおり、その残余のものという意味である。しかし、スピリットの数は、まあむちゃむちゃ多いので、残余のスピ リットといってもその数は決して少なくはない。

 

 

 中沢新一の話には、メビウスの帯とかトーラス型とか聞きなれない言葉が出てくるので、この際、少し解説しておきたい。

 

 メビウスの帯とは、細長い紙を一ひねりして、その両端を糊付けする。それがメビウスの帯と呼ばれるもので、あの世とこの世を説明するのにもっとこ いのモデルとなる。すなわち、メビウスの帯は、表と裏の区別がないので、もし蟻がこの帯の上をどんどん歩いていったとしたら、表を歩いたり裏を歩いたりす るわけだ。これと同じように、スプリットは、この世とあの世を行ったり来たりしている。あの世とこの世の区別がない。これが多神教の世界である。

 もし、妙な力が働いて、メビウスの帯の真ん中に切れ目が入り、二つに切り裂かれたとする。しかし、メビウスの帯は二つに分かれないで、一つの大き な輪となる。この環には、ちゃんと表と裏の区別があって、その上を歩く蟻は、表か裏か、そのどちらかしか歩けない。要するに、この世とあの世を行ったり来 たりできないわけだ。これが一神教の世界、ゴッドの世界である。制度的なプレッシャーが強すぎて、メビウスの帯は完全に切り裂かれている。

 

 次に、トーラス型とは、ドーナツの形をしたもので、真ん中が空いている。その真ん中の空間に注目願いたい。その空間を少しづつ小さくしていく。少 しづつどんどん小さくしていく。そうすると真ん中に空いている空間はどんどん小さくなって、しまいにはドーナツの表面がくっついて、空間はほとんどなく なってしまう。そういう空間がほとんどないドーナツと普通のドーナツを頭に描いて欲しい。言葉の世界というのは普通のドーナツだ。空間部分が大きいので、 ドーナツの表面を言葉で埋めても空間部分は決して埋まらない。空間がほとんどないド−ナツであれば、言葉で埋まらない空間というのまあ・・・ないと考えて いいのだが、普通のドーナツではそうはいかない。その真ん中の空間、真理は言葉で言い表すことができないのだ。このようなことをトポロジー(図形モデル) で表現したものがトーラス型である。

 

 言葉の勉強をしたところで、いよいよ唯一神(ゴッド)がどのようにして生れたかを勉強することにしよう。

 

 次は「一神教の誕生」です。

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