メビウス縫合型とトーラス型

 

 

 私は前回、一気に一神教の誕生物語までいってしまった。そして、一神教革命の意味についても次のような中沢新一の話を紹介しておいた。

『 一神教革命の意味 

 人類の思考のうちにはじめて、絶対的に非対称な神が出現したのです。

 苦難の歴史を体験するたびに、イスラエルの人々の間には、「唯一の神ヤハウェ」への絶対的な信仰と、いまや「異教の神」としてレッテルを貼られる ことになった多神教宇宙の神々に対する拒絶を主張する預言者たちが、つぎつぎに登場しては、モーセがはじめたこの「一神教革命」を、どんどん極端なところ にまで引っ張っていこうとしました。・・・(中略) 

 ホモサピエンス・サピエンスの脳はじめて出現したスピリット世界は、何回にもわたる構造の組み換えをへても、「対象性の維持」ということをとおし て、いまだに原初の全体性を保ち続けてきました。そのスピリット世界の構造の組み換えから生まれた「高神」という存在の中から、ヤハウェなる神(ゴッド) が出現したわけですが、このヤハウェを「唯一神」とすることによって、その全体性(メビウス縫合型世界とトーラス型世界)を突き崩そうとする人々が、ここ に出現しようとしていたのです。それはいずれ、世界の姿を変えてしまう力をもつにいたるでしょう。その意味で、たしかにこの出来事は一種の「革命」だった のだと思います。』

 

しかし、この一神教革命の意味というものをもっと深く理解するためには、メビウス縫合型世とトーラス型ということについて勉強しておかなければなら ない。今回ここでは、その勉強をしたいと思う。いつものようにお手本は中沢新一の著書(「カイエソバージュ・、神の発明」、2003年6月、講談社)であ る。以下は、若干私のコメントを挿入する部分もあるが、ほとんどが上記の本からの抜粋である。

 

まず「来訪神」のほうに焦点を合わせて、この神の特質をモデル化する試みをおこなってみることにしましょう。

『 メビウスの帯を縫合する

「来訪神」を「メビウス縫合型」の神として、とらえることができます。もう少し正確に言うと、この神は「切り込みを入れられたメビウスの帯を、もう 一度縫い合わせる」機能をもっている、と考えることができるのです。

 私たちはすでに、高次元のスピリット世界が「メビウスの帯」のモデルでとらえることができる様子を、詳しく見てきました。そこでは、「あの世」と 「この世」がいつも同じ場所でひとつながりになっているのでした。そのスピリット世界が圧力によって「つぶれ」、高次元の対称性が自発的に破れたところか ら、「来訪神」というものが、壊れた対称性を一部分保存する存在として、多神教宇宙を構成する一つの重要な軸として、生まれてきたのでした。

 つまり、「メビウスの帯」はいったん中心線にそって、切り離され、それまで一つの表面上にいた「あの世」と「この世」は、もう簡単に行き来できな い裏と表に分離されてしまったと表現することができるでしょう。そのままでは、「あの世」は「あの世」、「この世」は「この世」に分離され、思考からは いっさいの対称性が失われてしまうことになるでしょう。そこで、いったん中心線にそって切り離された輪を、その切断線にそってもう一度縫い合わせるという 行為によって、失われた対称性の一部を取り戻そうとする精神(心)の運動がおこるとき、そこに「来訪神」のような神が生まれてくることになります。

 「メビウスの帯」に切れ目を入れると、その輪がもっている特徴は失われて、「メビウスの帯」自体は消失することになります。しかし、人々の意識は 切れ目のところにあらわれた隙間に注がれることになります。この隙間を埋めるイメージを発見できれば、消失してしまった「メビウスの帯」が回復できるので す。そうすれば、スピリット世界ではごく自然に誰にでも見えていた世界の全体性を取り戻していくことも可能でしょう。ではどんなイメージであれば、その隙 間を充填することができるでしょうか。多神教の思考は、ここで現代の精神分析学を先取りする、じつに重大な発見をおこなってきたのでした。』

 

『 隙間を埋めるもの

「メビウスの帯」の切れ目を縫い合わせて、隙間を充填できる存在とは、「あの世」と「この世」との間に発生した距離を、遠い旅をしてつなぐことがで きるものであり、生活のいろいろな場面に生まれる「内部」と「外部」のちょうど中間を占めるものであり、「この世」を流れている時間の流れを逆行させて、 人々の意識を「はじまりの時間」に連れ戻すことのできる強力な幻想力をそなえたものでなければなりません。精神分析学ではこういうものを中間的対象と呼ん でいます。

 どうでしょう。そうして見ると、「来訪神」に与えられた特質のすべてが、みごとにこの中間的対象の条件をそなえていることがわかります。それは死 と生命を一つにつなぎ、身体の「内部」と「外部」を一つにつなごうとします。そういう力を持った物質としては、母乳、涙、血、精液、唾液、排泄物などをあ げることができるでしょう。人間の住んでいる領域と外の世界との境界に生えているのは植物ですから、それを身にまとうことで中間的対象としての性質を帯び ることになります。またそういう対象は、身体の輪郭がはっきりしているものよりは、グロテスクの美に近親性を持つことになるでしょう。』

 

『 救済者の原像

「来訪神」という存在が、低次の対称性を持つと言われることの、深い意味はそういうことなのです。それは切れ目の入れられた「メビウスの帯」を縫い 合わせて、失われた対称性の一部分を回復しようと試みて、「あの世」と「この世」を一つにつなぎ、裏と表、内部と外部の区別のできた世界をトポロジーの奇 術で裏返しにし、前方にだけ進んでいく時間の矢を止めて、あたりをドリームタイムの薄明に変えてしまうとするのです。

 あきらかに「来訪神」の中には、フロイト理論の実践的な先駆けを見出すことができます。そして、宗教に備わった強烈な幻想力の源泉は、まさにこの 「メビウス縫合型」をした思考法のうちから、わきあがってきます。現実の世界をつくる原理に逆らってまでも、失われた対称性を取り戻そうとするこの神のう ちに、私たちは「救済者」や「革命家」の原像を見出すことさえもできるでしょう。人間の心の構造が、それを幻想的に求め、現実の中に生み落とすのです。』

 

そうなのだ。「来訪神」という存在が、低次の対称性を持つと言われることの、深い意味はそういうことなのだ。それは切れ目の入れられた「メビウスの 帯」を縫い合わせて、失われた対称性の一部分を回復しようと試みて、「あの世」と「この世」を一つにつなぎ、裏と表、内部と外部の区別のできた世界をトポ ロジーの奇術で裏返しにし、一瞬のうちに「トワイライトゾーン」を現出せしめるのだ。「トワイライトゾーン」は現実の世界「この世」ではない。しかし、完 全な意味での「あの世」でもない。その中間的な世界なのである。「この世」といえば「この世」、「あの世」といえば「あの世」、「この世」でもあるし「あ の世」でもある。かといって「この世」でもないし」あの世」でもない。そういう世界が「トワイライトゾーン」だ。まあ言うなればハチャメチャの世界なので ある。これが「メビウス縫合型」の世界であるのであります。

 

『 芸術家・サヨク・トリックスター

「メビウス縫合型」の心の働きを表現しているものの中には、大人になることを拒絶して、原初の一体状態に立ち戻ろうとする芸術的な表現なども含まれ ることになりますし、人類学で「トリックスター」と呼ばれているいたずら者の神の形象なども、典型としてそこに含まれることになります。

 出来上がった社会の秩序に反抗する秩序転覆的な精神活動も、現実を否定して救済された世界を強烈に求める心理ももとをただせばこの「メビウス縫合 型」の心の働きに根ざしていると考えることができますから、この概念はじつに広い適用範囲をもつと言うことができるでしょう。このタイプの心の働きは、精 神における「サヨク的傾向」を代表するものと言えます。』

 

『 父としての「高神」

 これに対して、「高神」として現れることになる象徴秩序の神は、精神の「ウヨク的ないし保守的傾向」をあらわしている、と言えるかもしれません。 芸術家的な「メビウス縫合型」の神は、コミュニケーションの潤滑な流れを阻んで、そこに意味の多様性や、イメージの豊かさなどを導き入れようとしますが、 象徴秩序を支える「高神」型の神は、人々の間に確実なコミュニケーションの回路が保たれているように、一年中この世に留まり続けて、人間の暮らしを見守っ てくれる神なのです。』

 

 

さあ、次は高神の本質を表現できるモデル「トーラス型」の勉強に入ろう。

『 人間はトーラスだ、とラカンは言う

「来訪神」の本質を、切り開かれた「メビウスの帯」をもう一度縫合しようとする精神の運動の表現としてとらえたときと同じようにして、この「高神」 の本質を表現できるモデルを見つけ出す必要があります。それはすぐに見つかります。「トーラス」と呼ばれるドーナツ状の立体がそれです。

 心の働きのなかにこのモデルを最初に発見したのは、「メビウス縫合型」のモデルの場合同様に精神分析学者ジャック・ラカンですので、ここでは彼の 思考の道筋を追いながら、問題の核心に近づいていくことにしましょう。

 加計呂麻島の神女が語ってみせたように、「高神」である聖所の神(沖縄本島のほうで「御嶽の神」と呼ばれているものが、それにあたります)はこと ばの象徴秩序を支えています。その神は一瞬たりともどこかよそにでかけたりすることもなく、一年中いつも村に滞在して、その秩序を守っているのですが、そ のおかげで人々の間には共通理解の尺度が保たれることになります。

 そのためには、「私」は自分のものでない、他の人たちとも共通の道具である「言語」というものを使わなくてはなりませんが、これがことばに内在す る象徴機能のことにほかならないのです。「私」が「私のことば」ばかりしゃべっていたら、他人との間に共通理解が発生できません。他人と話をするときに は、「私」の無意識の欲望が語ろうとしている「私のことば」の使用はあきらめて、共通の「言語」の与える規則や法にしたがわなくてはなりません。

 じっさい「私のことば」などというものは、実在しないのかもしれません。それは、子供が社会のものである「言語」を習得して、さて自分の無意識の 欲望をその「言語」で表現してみようとして、それがまったく不可能であるのを痛感したときに生まれる、一つの幻想なのかもしれません。ことばの象徴機能を あらわす「言語」は、このように部分的な真理しか表現することはできないのですが、この「言語」なしには、私たちは自分の心の内面を言い表すこともできな ければ、他人と意志を通わせ合うこともできません。

 このような状態を、ラカンはつぎのようなトポロジー(図形モデル)で表現しようとしています。私たちはことばで全体的真理をあらわそうとして、 トーラスの表面を意味で埋め尽くしていこうとします。ことばの象徴機能である「言語」は、線形的な秩序をもっています(時間軸にそってしゃべるわけですか らね)。だから「ことばをしゃべっている」という状態を、トーラス上の曲線であらわすことができるわけです。こうして、ことばは「すべて」を言い表そうし ます。ところが、意味の中心部に近づいていくと、このトーラスはくるっと内側に湾曲して、中心をそれて、またもとの表面に戻ってきてしまう運命にありま す。けっして中心部の空虚を埋めることができないのです。

 これが、ことばをしゃべる人間という生き物の宿命だ、とラカンは言うのですね。人間は自分の直感がとらえている世界の全体性を表現しようとして、 つぎからつぎへとことばをくりだしてくるのだけれど、「ことばはつねに、自分の語りたいことを語りそこねる」という宿命をもっている。ことばの語られると ころ、必ず空虚な中心が出現する。そのために、ことばとモノが一致することはありえない。私たちがしゃべっていることは、すべて「比喩」にすぎない。「比 喩」の構造をあらわすとすれば、それはトーラスにほかならない。人間とは真ん中に空虚な穴の開いたトーラスだ。これがラカンのあきらかにした、ことばを しゃべる動物である人間の本質です。』

 

以上のように、人間はトーラスだが、実は、「高神(たかがみ)」もトーラスなのである。ここがいちばん肝心なところであり、以下、その勉強すること としたい。いよいよ佳境に入ってきた。

 

『 トーラスとしての「御嶽の神」

「高神」の特徴と人間の従わざるをえない条件とを、まず並べて書きあげてみましょう。

 

「高神」の特徴

聖所に常在している

共同体にとっては唯一神である

見えない隠れた神である

ことばの秩序を維持している

充実した空虚がそこに臨在している

イメージを拒否する

 

人間の条件

寝ていても起きていてもいつもことばが語り続けている

共同体の母語は一つ、ただ一つである

ことばの象徴機能は見えない隠れた働きである

ことばの秩序を維持しようとしている

語られない空虚の存在が「言語」をなりたたせている

ことばはイメージよりも抽象的である

 

人間の条件をトーラスとして表現するならば、この比較からもあきらかなように、「高神」はそのような人間の条件を純粋化したものとして、やはりトー ラスの構造をそなえていることがわかります。ドーナツ状の表面のすべて(ここでことばの秩序が支えられるのです)と、真ん中の空虚からなる中空の構造とし て、この神の本質をあらわすことができるでしょう。

「御嶽の神」をお祀りするのが、女性だけの集団であるというのも、ひょっとするとこの神のもつトーラス構造と関係があるのかもしれません。このトー ラスの中心をなす空洞は、ことばによって表現不能な「超越性」をあらわしていますが、これは女性という存在がことばの象徴秩序にはおさまりきらない不確定 な霊性を抱えた、とてもデリケートな生き物であることと関係があるかもしれません。

 つまり、中心に空虚を抱えた「高神」と、知性によるのではないやり方で交信をおこなう資格のある生き物は、その神と同じように、心の真ん中にぽっ かりと開いた空虚を抱えた女性(註:心の真ん中にぽっかり空いた空虚を抱いた女性という言い方が悪ければ、霊性を抱いた女性と言い直すといいかもしれな い。)でなければならないのではないかということなのです。』

 

 『 「メビウス縫合型」と「トーラス型」

 ようやく私たちは、多神教宇宙の構造を解き明かすのに、「御嶽の神」や「来訪神」といった地域に少しずつ違う現象的な表現ではなく、純粋なモデル を使って説明することができるようになりました。

 スピリット世界の対称性が自発的に破れることによって出現してきた多神教宇宙は、「メビウス縫合型」と「トーラス型」という二類型の表現である、 神々によって構成されています。この二つの類型は、たがいに深い関係にあります。真ん中に穴の開いた構造をしている「トーラス型」の「高神」が、スピリッ ト世界の外に飛び出してきますと、それによって、「メビウスの帯」のようななりたちをしていたスピリット世界の全体性は壊されてしまいます。その様子は、 ちょうど「メビウスの帯」に切れ目を入れて、裏と表、内部と外部などの区別を発生させてしまうプロセスであらわすことができます。』

 

 『 つまり、「高神」がスピリット世界から飛び出すようにして生まれるということは、スピリット世界である「メビウスの帯」に切れ目が入るという ことにほかならない。何かの力によってスピリット世界から「高神」が飛び出てそれによってスピリット世界に切れ目が入ったとします。すると、その裂け目を 埋めることによって、元の全体性を取り戻そうとする心の運動が、生まれてきます。切れ目を縫い合わせて、失われた対称性と全体性を取り戻そうという運動で す。これが「メビウス縫合型」のイメージを発生させるのです。引き金を引いたのは「高神」の敢行したスピリットの対称性世界からの飛び出しですが、そのと き生じた不均衡を埋めるかのようにして、歴史と現実に抗する夢見がちな神々は出現したのでした。

 いっぽう「トーラス型」の神は、中心に開いた空虚そのものを神とすることで、別のやり方によって、自分自身が全体性そのものになろうとしていま す。空虚が本質なのですから、とうぜんこのタイプの神はイメージを否定して、無像性に偏(かたよ)っていくことになるでしょう。まばゆい光だけが、このタ イプの神の属性として残されていくことになります。

 多神教の宇宙は、この二つのタイプの神々の組み合わせとして出来上がっています。それが沖縄や奄美のように、あざやかなコントラストで表現されて いるところはむしろめずらしいほうで、じっさいには変形や複雑な組み合わせの結果、元の基本構造が見えなくなっているケースのほうが多いのですが、注意深 く観察してみると、そこに神々の宇宙の「原子」のような基本構造を見出すことができるのです。』

 

 『 氏神と祭り

たとえば、日本列島本土の神社の神々の宇宙は、こんな具合に表現してみることができるでしょう。南島の場合との比較で示してみます。

 本土の神社には氏子の集団というものがいます。神社に祀られている氏神を信仰している集団という意味です。一つの氏子集団には一つの氏神がいま す。しかも氏神はただ一つに限るというのが、原則になっています。この氏子の集団が中世にはよく「宮座」というものを結成して、そこで古式豊かな祭式や芸 能を伝えてきましたが、この「宮座」の神をお祀りしているときには、ほかの神を拝んだりすることは、厳禁されていました。つまり、氏神とはもともと「高 神」としての性格を備えていたのはもちろんのこと、さらに進んでユダヤ民族にとっての「唯一神」と同じような要求をしていたらしいのです。

 こういう観察に立って、ある宗教学者はつぎのように書いています。

 

 氏神は氏子によって祭られ、氏子のための神で、氏子にとっては絶対の神である。したがって氏神はほんらい何の神、彼の神というように神の個性が あったり、特殊の機能があったりするものではない。いわば至上神であり、唯一神である(原田敏明『村の祭祀』、中央公論社、一九七五)。

 

 あきらかに神社の氏神は「トーラス型」の神です。しかしそこにまったく「メビウス縫合型」の機能が含まれていないかというと、話は微妙になってき ます。氏神のための儀礼はきわめて厳粛におこなわれます。衣装を整えた氏子が集まって、神主を代表にして、神とのコミュニケーションの回路を開くための儀 式をおこなうのです。この点は、南島の「御嶽の神」などの場合と同じですが、違っている点があるとすると、南島で儀礼を司(つかさど)るのは女性ですが、 本土の「宮座」などでは男性たちがこれを執りおこないます。

 しかし、つつがなく氏神と氏子をつなぐ儀礼が終了すると、そのとたん、あたりの雰囲気は一変します。「祭り」がはじまるのです。さっきまでは騒音 を忌み嫌って、厳粛きわまりない儀礼のおこなわれた神の庭が、明々と燃える松明(たいまつ)、汗まみれの裸の男たち、ふんだんにふるまわれるお酒、にぎや かな楽器の音、色とりどりの芸能、打ち鳴らされる太鼓の響きなど、ありとあらゆる過剰したものによって、覆われ、埋め尽くされていくのを、みなさんも見学 したことがあるでしょう。

「トーラス型」の神を祀る「儀礼」が果てると、つぎの瞬間から主役は交代して、「祭り」の時間に切り替わっていく、日本列島本土の神社の祭礼は、こ のような二つの対照的な行動の連続でなりたっています。そして面白いことに、「祭り」の部分は、私たちの言う「メビウス縫合型」の行為を上手に組み立てる ことによって、出来ているのです。その特徴がいちばんよく出ているのは、「祭り」を彩る芸能の部分でしょう。折口信夫が発見したように、日本の芸能の中の 重要なもの、たとえば「能」のような芸能は、南島の「来訪神」の出現の形態を、一つの原型としているからです。「祭り」を活気づけているのはスピリットた ちなのだと言えるかもしれません。』

 

以上のように、中沢新一は、日本列島本土の神社の信仰を、「トーラス」と「メビウス縫合」の二つのトポロジーの結合としてあらわすことができる、と 考えたのである。いやあ、中沢新一はすごい!すごい哲学者である。

 

『 心の構造の表現としての多神教

 ジャック・ラカンはことばをしゃべる動物である人間の心を「構造」としてとらえると、基本的にそれを理解するためには「トーラス」と「メビウスの 帯(あるいはその高次元表現であるクラインの壺)」という、二つのトポロジーがあれば十分であると、考えました。面白いことに、神々の基本構造を理解する ためにも、「トーラス」と「メビウスの帯」の二つのトポロジーがあれば、十分なのです。

 いったいこのことは、私たちに何を語っているのでしょう。宗教は心の構造の深遠な表現であり、それ以上でも以下でもない、ということです。しかも 心の構造は人間のしゃべることばの構造によって決定づけられており、「精神の考古学」によれば、このことばの構造はまた、現生人類の脳におこった革命的な ニューロンの組織替えの過程で出現した、流動的知性の働きによって生み出されたのです。

 こう考えてみますと、人間が完全な無神論でいることなどは、原理的に不可能なことである、と結論づけたくさえなってきます。神々は長いこと人間の 心の同伴者でしたが、制度としての宗教が消滅するというような時代になったとしても、現生人類としての心の構造が同じままであるかぎり、この先もきっと、 心の構造の表現者であり隠れた同伴者であり続けるのかもしれませんね。』

 

 それでは、いよいよ私の一神教批判です。

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