一神教のまやかし

 

 

 今まで私たちは、長い時間をかけて勉強してきた。スピリットとグレートスピリット、高神(たかがみ)と来訪神(らいほうしん)とは何かを勉強して きた。そして一神教がどのようにして誕生してきたか、そして一神教の誕生、それは一神教革命と呼ぶにふさわしいのだが、そのことが持つ意味を勉強してき た。まだ、キリスト教の問題については一切触れていない。イスラム教とキリスト教のどこがどう違うのか、その点については一切触れていない。この問題は現 代を解明するために極めて重要な問題であり、中沢新一は、その問題についても明確な考えを持っており、彼の本の随所に出てくるのであるが、今私の最大の関 心事である「劇場国家にっぽん」とは直接的には関係しないので、ここでの勉強はあえて割愛する。ここでは、キリスト教やイスラム教の区別をしないで、とも に一神教ということで批判の対象とする。

 「一神教のまやかし」というのは、ちょっと穏やかな言い方ではないが、神(ゴッド)の知性といえども、結局は、人間の知性を意味しているので、そ んなものはそもそも・・・・信頼に耐え得ないのではないか。それをあたかも全能の神が言っているかのごとく人間がいうのは、まさに「まやかし」ではないの か。私はそう思う。それよりも、人間はひとりひとりが神々の声を聞く。仏の声を聞く。怨霊や鬼、そしてさまざまな妖怪にある種の怖れや親しみをもって、 「あの世」のことを考えながら、「この世」を謙虚に生きていくのが自然ではないのか。神(ゴッド)は死んだが、スピリットは生きている。私はそう思うので ある。

 では、いつものようにお手本は中沢新一の著書(「カイエソバージュ・、神の発明」、2003年6月、講談社)である。以下は、若干私のコメントを 挿入する部分もあるが、ほとんどが上記の本からの抜粋である。

 

 『 「メビウスの帯」の抑圧

 一神教が成立したごく初期の段階についての、ここまでの説明からわかることは、「高神」を中心にして構成された多神教宇宙が、「唯一神」のみの一 神教に組み換えられていく過程で、それまであった重要な要素の完全な取り除きとか破壊とかは、じっさいにはおこっていない、ということです。ではどういう ことがおこったために、一見するとまったく異質な一神教が、多神教の中から出現してくることができたのでしょうか。

 取り除きや破壊ではなく、「抑圧」がおきたのです。「トーラス型」の宗教的思考によって、「メビウスの帯」のような心の働きを維持しようとしてき た心の機構全体が、抑圧されることによって、表面には出てきにくくなった、そういうやり方で、多神教は一神教に作り変えられたと見るのが、正しいと思いま す。

 この過程は、スピリット世界が多神教宇宙に作り変えられるときにおこったような過程とは、どうも根本的な違いをもっているようです。そのときに は、心のトポロジーの構造が、「対称性の自発的破れ」とよく似た精神力学的過程をとおして、ほんものの変化をおこしています。ところが、これまで見てきた とおり、一神教の成立については、そのような心の構造のトポロジーに関わるような、根本的な作り変えはおこっていません。

「トーラス型」の心の働きも、「メビウス縫合型」の心の働きも、現生人類の脳が直感する「超越性」の領域の近くでわきおこっている心のエネルギーを 造形することによって、つくられてきたものです。ですから、もともとの「素材」はいっしょ、と言えるわけで、そこに抑圧が働いて全体の配置転換がおこった だけなのだ、と一神教の成立を理解することができます。』

 

 『 「唯一神」のトポロジー

 そういうものとして一神教を理解してみますと、「純粋な一神教」などというものが存在するのは、とても難しいことだ、ということがわかります。し かし、それを理念で思い描いてみることはできます。「純粋な一神教」というのは、きっと「トーラス」だけで出来上がった心のトポロジーのことを意味してい るでしょう。

 ドーナツ状をした「トーラス」の表面には、ことばのもつ象徴秩序を実現して、「この世」を秩序ある、知的にも理解可能なものにするための、無数の ことば的表現が描き込まれています。そのことば的表現の作用は、意識の表面だけではなく、「無意識」と呼ばれる領域にまで及んでいます。このようなことば 的表現が、ドーナツの表面を何重にも埋め尽くすようにして、「この世」は出来ています。

 しかし、このようなことば的表現を無限に積み重ねても、「トーラス」の真ん中に開いた「穴」を埋め尽くすことはできません。というよりも、「この 世」の現実はことばの象徴秩序によってつくられるという、この考えそのものが、中心に開いた「空虚な穴」を必然的に生み出してしまう、と考えたほうがよい のでしょうね。

 そこで一神教の神(ゴッド)だけが、この中心の空虚をみたすことができる、と考えるのです。人間のおこなうどんな知的な活動も、世界の全体真理の すべてを表現し尽くすことはできません。ことば的表現のとらえる「この世」は、どうしても「不完全」なのです。ところが、神(ゴッド)の知性だけが「完 全」です。そのために、人間の知性にとっては「非知(考えることができない、知ることができない)」であるものを、神(ゴッド)の知性だけは知ることがで きる、という考えが一神教の中では発達していくことでしょう。つまり、神(ゴッド)とは「非知」の領域を包み込んだ、「完全な知性」の活動をあらわすこと になります。』

 

 『 世界を知性だけでつかみとろうとする欲望の発生

 見ようによっては、こういうやり方で、一神教も世界の全体性をつかみとろうとしているのだ、と言えるかもしれません。非対称の原理を徹底させるこ とによって、神(ゴッド)の知性が「非知」の領域までも含んだ世界の全体性をつかみとる、という戦略ですね。多神教の場合には、「メビウス縫合型」をした 低次の対称性を含むさまざまな神々の活躍によって、原初の対称性を回復しようとする努力が試みられていました。それとよく似たことを、一神教は非対称性の 原理だけをつかって実現しようとしてきた、と考えることができます。

 この結果、私たちのようなもともと多神教宇宙の中で発達してきた文化を生きてきた者には、とうてい納得しがたい主張が、一神教とくにキリスト教の 側から、力強く発せられてきたものです。とりわけキリスト教的な近代文明が、あまりに「知性」を偏重するあまり、「知」と「権力」とが一体であるような文 明を、グローバルな規模で拡大しようとしてきた、そしていまも強力に推し進めている様子に、私たちは深い懸念を抱いているのです。・・・・(中略)

 さまざまな来訪神を生み出してきた多神教宇宙では、「この世」の現実(リアリティ)はことばの象徴機能によって刻一刻かたちづくられていくもので あるとしても、「あの世」はそういうものと関係なしに存在する。この世は「この世」、あの世は「あの世」なのだ。そのために、このような思考法は、しばし ば一神教の側からは「神秘主義」というレッテルを貼られることになりました。ある意味で、多神教はそうすることで、「知の権力」が絶対に及ばない領域とい うものを、思考の中に、あるいは脳の中に、確保しようとしてきたのかもしれません。

 ところが、このような「メビウス縫合型」の思考を協力に抑圧してしまいますと、「知の権力」が思考の全面を覆い尽くすような、まことに由々しい事 態が発生することとなります。なぜなら、本来「高神」である「唯一神」には、原理から言って「この世」しかないからです。・・・・(中略) 

 この神(ゴッド)のもつ「全知全能」の照らし出す街灯の下でだけしか、一神教の思考はおこなわれません。そのために、「神(ゴッド)の全知全能」 が、最初から「この世」の地平にくり込まれてしまっているという事態がおこります。そうしますと、そこからはすぐに「知は権力なり」という、一種のすり替 え思考が生まれてくることになるでしょう。非対称性の思考だけで宗教を形成すると、こういう危険な事態が生まれやすくなってしまうのです。』

 

 『 「超越性」の現実への介入

 ワタリガラスの創造主が見せるいいかげんさの背景には、世界はもともと不完全なものとして出来上がっており、それを創造した知性もまた不完全なも のであったはずだ、という認識があるのだと思います。そもそも人間の知性も思考も、自然(ここには動物も植物も人間もスピリットも含まれます)の全体性の 中から生まれたものとして、自然と一体なのですから、知性や思考を根拠づけているいかなる「超越性」もない、と考えるのが、対称性社会に特有の思考法で しょう。

 知性は自分の限界まで進んでいって、そこで「超越性」に触れ、それについて思考することはできても、自分自身を根拠づけているのが、その「超越 性」だとは考えなかったでしょう。そのために、「知」は権力になることがありませんでした。権力Powerの源泉は、あくまでも自然の奥に秘められている ものであって、人間の知性がその権力を自分のものとすることはできないというのが、こういう社会に特有の、自然に対する慎ましさや倫理観をつくっていまし た。

 力強い「唯一神」は、つい力にまかせて、人類がこの地球上で生きていくために必要な、その慎ましさの感覚を壊してしまい、人類が長い時間をかけて 形成してきた「地球に生きるものすべてに必要とされる倫理」を、忘却に追いやってしまったのではないでしょうか。多神教宇宙の記憶をもった私たちには、そ のように思えてなりません。』

 

 『 巨大爬虫類の選びとった進化

 地球上に存在しているあらゆるものに対して慎ましさの感覚を持つためには、いつもどこかで「対称性の倫理」が働いていなければならないことを、私 たちはすでに神話の研究をとおして学んできました。神話は動物や植物などが、はじめ人間とおなじようにことばもしゃべり、おなじように感情や思考の能力を もった存在として、人間の友であり兄弟であり、親や子供同士であったと語ることによって、わかりやすいかたちで、このような「対称性の倫理」を伝えてこよ うとしたのでした。

 このような倫理やそこから発生する慎ましさの感覚が生まれることができるためには、人間の心になんらかのかたちでの「全体性の思考」が、働いてい る必要があります。そうでないと、人間は地球上で特別の存在であると考えたり、人間のおこなう思考は最高で間違いがないなどという、思い上がった考え方が すぐにその心に芽生えてきてしまうほど、人間は不完全に出来ている生き物だからです。あらゆる存在が、細い光る糸でつながっているというのが、スピリット 世界での物の考え方でしたが、たしかにそこでは神話をとおして、そのような「全体性」の感覚がすみずみにまで生きていました。

 唯一神を生み出すにいたった一神教の思考の冒険は、人間に膨大な知識と富の集積とをもたらしました。現代の自然科学も資本主義にもとづく市場経済 のシステムも、もとはといえばキリスト教という一神教が地ならしをしておいた土地の上に、築き上げられたものとして、細かい部分にいたるまで、一神教の くっきりとした刻印が押してあるのがわかります。なぜそんなことが可能になったのでしょう。心の内部を徹底した「非対称性の原理」にもとづいて組織し直す ことを、一神教が精力的におこなってきたからです。そして、その原理は、いまや「グローバリズム」という名前のもとに、地球の全域で大きな影響力を行使す るにいたっています。・・・(中略) 

 そのことがどのような恐ろしい未来をもたらすことになるか、だいたいの結末は私たちにもわかっています。・・・(中略) 

 そういう危機のときには、私たちの心がどこからやってきたのか、どのような道筋をたどっていまの袋小路にいたったのかを、まずじっくりと考え直し てみる必要があります。唯一神の思考も、科学の思考も、経済の思考も、すべてはかってスピリットが出現したのと同じ場所で生まれているのですから、いまい ちど発生学の視点に立って、すべての歴史的出来事の意味を問い直そうとする探求が必要になってくるはずです。

 神(ゴッド)の足跡、それはスピリットの世界から語らなければならないのですが、それは心の内部をこと細かく覗くことでもあり、確かにその探求は 困難を極めるでしょう。神(ゴッド)の足跡を追うことほど、難しいことはありません。発生学の視点だけが、その困難を乗り越えていく知恵をあたえてくれる でしょう。』

 

 それでは、未来はどうなるのでしょうか。

次は、「未来のスピリット」です。