未来のスピリット

 

 

 私は前回、「一神教の まやかし」ということを言った。「一神教のまやかし」というのは、ちょっと穏やかな言い方ではないが、神(ゴッド)の知性といえども、結局は、人 間の知性を意味しているので、そんなものはそもそも・・・・信頼に耐え得ないのではないか。それをあたかも全能の神が言っているかのごとく人間がいうの は、まさに「まやかし」ではないのか。私はそう思うからだ。そして、「神(ゴッド)は死んだが、スピリットは生きている。」とも言った。スピリットの存在 を強調するためであっても、そういう言い方は不遜な言い方ではないか。そうとも思うのだが、やはり神(ゴッド)は、たとえ数世紀を生きつづけるとしてもや がては死ぬ運命にあるのではなかろうか。あるいは、大いなる変身を遂げると言ったほうがいいのかもしれないが・・・。

 いずれにしろ、一神教の国においてもスピリットがふたたび動き出すのではないか。ということは、完全に切断されたメビウスの帯がふたたび接合され て、メビウス縫合型の世界が拡大していくのではないかと思う。特に、アメリカでは、今でさえすでに「ダイバーシティー」と いうことが言われ始めているのであり、私は・・・・、中沢新一のいう「環太平洋の環」の影響 を受けて、その可能性が強いように思う。私は、今アメリカで広まりつつある思想「ダイバーシティー」、そこに希望を持ちたい。日本はアメリカとの同盟をよ り発展させて、「違いを認める文化」を広めていかなければならない。アメリカと日本の同盟がよく発展していけば、やがては「違いを認める文明」が世界に芽 生えてくるにちがいない。その地平を切り拓くのは、アメリカと日本に共通の未来のスピリットたちである。今世界平和のために必要なことはアメリカと日本の 同盟である。アメリカのスピリット、グレートスピリットも含めて、アメリカのスピリットに希望を持 つこと、すなわち、アメリカと日本に共通の・・・・未来のスピリットたちに希望を持つことだ。私は、未来のスピリットに希望を持ちたい。

 では、未来のスピリットについて勉強を始めよう。いつものようにお手本は中沢新一の著書(「カイエソバージュ・、神の発明」、2003年6月、講 談社)である。以下は、若干私のコメントを挿入する部分もあるが、ほとんどが上記の本からの抜粋である。

 

『 スピリットの躍動と「神の死」

 <愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュ>の読者は、教会と王権に支配されたヨーロッパの古い体制を崩壊させたフランス革命の直前に、「自由スピ リット」の異常に昂揚した活動が、西ヨーロッパの各地におこったことを、憶えていることでしょう。キリスト教の三位一体の教義の中にがっしりと組み込まれ て、厳しい教会の管理下に自由な活動に制限を加えられていたスピリット(そこでは「聖霊HolySpirit, SaintEsprit」という立派な名前が与えられてきましたが)が、いっせいに自由な活動に繰り出していったのです。

 興味深いことには、それと時期を同じくして、人々の間に「神の不在」をめぐる噂がひろがっていきました。本当はもう神(ゴッド)は人間の世界を 去って、どこかへ行ってしまったのではないか、という心配です。そして、それから百年もたたないうちには、不在どころか「神(ゴッド)は死んだ」とおおっ ぴらに語り出す人々までが現れて、人間の世界になにか本質的な変化がおこっていることを、多くの人々に印象づけたのでした。スピリットの躍動と「神(ゴッ ド)の死」とは、どうやら深い関連をもっているように思われます。

 その昔、神(ゴッド)はスピリット世界を解体し、それを別の観念の組織体に組み換える運動の中から出現してきたものです。さらに一神教が成立する と、ファンダメンタル(原理的)な一神教徒の間では、スピリットの活動そのものをいかがわしいとして否定する見解のほうが、圧倒的に強かったのです。しか し、それを救い上げたのはキリスト教でした。キリスト教は、スピリットに「聖霊」の名前を与えて、父と子と聖霊からなる三位一体の神(ゴッド)をめぐる教 義の中心部に、もう一度据えたのです。

 そのキリスト教がほんものの危機に瀕して、「神(ゴッド)の死」が公然と語られるようになったその時代に、スピリットだけは異様な活力を帯びて、 社会のいたるところに活動の痕跡を示すようになりました。「トーラス」の真ん中の空虚は、もはや神(ゴッド)の「完全性」によって埋められることはなく なったのに、空洞になった中心部を、「聖霊LeventParaclet」が吹き抜けるようにして、現代ははじまったと言えるかもしれません。

 いったいこれは何を意味しているのでしょうか。

 このことの意味を深く考えることは、現代人の心が「超越性」というものと、どのように関わり合っているのかを知ることにつながるでしょう。この講 義の中で、私はホモサピエンス・サピエンスの心の構造ほかならずや「超越性」の領域に触れることになるようなつくりをしているために、そうそう簡単に「無 神論」になることはできないのだと言いました。「神の死」ののちも、原初の「超越性」であるスピリットだけは生き続けるのかもしれません。

 一神教の神(ゴッド)がはなばなしい活躍の果てに、静かな死を迎えたのだという、このところ哲学者たちの語ってきた噂がたとえ本当だとしても、私 たちの心の構造の中には、依然として生き続けているものがあります。それが、スピリットです。』

 

『 三位一体__生命の原理

 キリスト教の三位一体の教義は、とても興味深い問題をはらんでいます。ユダヤ教以来の一神教では、唯一神の単純さ、不変性、堅固な永続性などの性 質が、強調されていました。ところが、西欧で発達することになるキリスト用はそこに(1)父と子の同質性と、(2)聖霊(スピリット)の増殖する力、とい う二つの原理を組み込んだことになります。(1)の原理は、生命や生命の類似物が、DNAのような変化しにくい機構をとおして、情報をまちがいなく未来に 伝達できることを示そうとしていますし、(2)の原理は、同質性をもったものでも増殖して、どんどん豊かになっていくことができるということを、言わんと しています。

 ところで、生命は同じ形質をつぎの世代に伝えていくことによって、続いていこうとします。つまり、父が子に同じ形質を伝えるやり方で、自分を未来 に伝えていこうとする意志の表現なのでしょう。

 ところが生命そのものは、形質についての情報を伝えるゲノムのみによっては、生きることができません。まだよく解明されていないので、現代の生物 学はそういうものの存在を否定していますが、生命体の内部になんらかのエネルギーを放射している機構、十九世紀の生物学が「生命力」と呼んでいたものの存 在が必要になってくるでしょう。生命という活動は、情報だけでなりたっているものではないはずですから、この機構の理解がいまに問題として浮上してくるに 違いありません。

 このように生命は、情報を正確に伝えていく機構と「生命力」との、二つの側面をもっていることになります。これを、ファンダメンタルな一神教の思 考で理解しようとすると無理が生じてきます。・・・・(中略)

 

 キリスト教は、のちのち西欧で発達することになる「正統教義」というものを定めたときに、早くもそこに「生命の原理」の構造を持ち込んでいたわけ です。これは、宗教思想としてはまことに柔軟な姿勢をあらわしています。宗教思想は、しばしば生命を否定したり抑圧しようとする頑なな態度を見せます。生 命は欲望の源泉であるとして、「生命の原理」を容認しないという態度を見せることが多いのです。

 ところが、キリスト教は、一方ではいかにも宗教らしく欲望やセックスを否定しながら、その教義の根本には、三位一体という表現でカモフラージュし た「生命の原理」が、たくみにセットしてあります。そのために、生命の活動と欲望が生み出すものに対して、柔軟な対応をおこなう欲望的な文明を、準備する ことができたのだと思います。この点が、同じ一神教と言いながら、キリスト教とイスラム教の根本的な違いをつくりだすもとになっています。正統的なキリス ト教からは原理主義が発生しにくいのに、イスラム教やプロテスタントのキリスト教の中からは、原理主義が発生しやすいというのも、このあたりに原因がある のではないでしょうか。』

 

『 スピリットが明かす商品の秘密

 また三位一体の構造は、商品社会の原理までも、先取りしています。商品とはスピリットの物質化した化身であるとさえ言えるのではないか、と私は思 うのです。それはこういうことです。

 物と物を「交換」する行為を積み重ねていくと、そこに共通の価値尺度というものが、自然とつくられてきます。そのうちにその共通の価値尺度を表現 できるもので、持ち運びや保存に便利な貨幣が生まれてきます。この貨幣は、純度の高い金属などでつくられることが多く、そのことによって物の交換価値をい くらいくらと数量に換算できる、単純で均質な価値を表現するものとなれるのです。

 しかし、物はただたんに「交換」されるだけではありません。物を売って、そこから利潤を発生させる「商品」というものが、すぐに生まれてくるから です。つまり、物を売ることによって、価値が増殖するという事態を、商品はつくりだすのです。物のたんなる交換や貨幣の受け渡しだけでは、こういう増殖は おこりません。物が商品という特殊な対象にあらかじめ身分を変えておかないと、こういうことはおこりません。商品は増殖の原理を自分のうちに秘めているの です。

 この過程は三位一体の構造そのものです。三位一体は、心という流動体の内部でおこっていることを構造として表現したものですが、それと平行関係に ある構造を、「経済」という流動体の内部にそっくりそのまま見出すことが可能です(詳しくは、私の『緑の資本論』をお読み下さい)。

 こういう性質をもった商品の巨大な集積として出来上がった社会が、私たちの生きている「資本主義」にほかなりません。商品の内部には、キリスト教 の三位一体と同じ構造の世俗版を見出すことができます。ということは、資本主義社会を動かしているエンジン室の設計は、三位一体の構造をモデルとして書か れていることになります。しかも、そこでもっとも重要な商品の増殖原理の部分を担当しているのは、ほかならぬスピリットなのですから、ここに資本主義とス ピリットとのただならぬ関係が、大きく浮かび上がってくることになるのです。』

 

『 透明なガスとなって

 西欧文明はこれ以後、神(ゴッド)の死と引き換えに、資本主義のグローバル化という新しい形態の影響力を、全地球的な規模に拡大していくことにな ります。

 神(ゴッド)は死んだかもしれませんが、そのあとには、もともと神(ゴッド)の性質の一部分であった「均質化」と「情報化」の原理は、貨幣やコン ピュータに姿を変えて、生き残りました。スピリットは物としての商品ばかりではなく、広告や映画やマスメディアの領域でも、恐るべき跳梁を続けています。 物質化したスピリットを亡霊と呼ぶならば、「近代」はこの亡霊化したスピリットによって開かれた時代だとも言えるでしょう。

「均質化」「情報化」「商品化」と並べてみれば、私たちの生きている現代社会の特徴が、それだけでも描き尽くせるほどですが、私たちが見てきたよう に、それは三位一体の原理を物質化・世俗化した表現にほかなりません。いまでは日曜日になってもヨーロッパの教会はからっぽかもしれませんが、三位一体の 原理はいまや透明なガスとなって、地球の全域を取り巻いています。』

 

『 スピリットの危機

 しかし、亡霊化したスピリットの復活などと言って、喜んでいる場合ではありません。あらゆるものを同質の価値の水路に流し込んでしまう商品社会の 中で、あくせくと労働させられながら、スピリットはもう死にかかっているのかもしれないからです。・・・(中略)

 

 思い出しても見て下さい。現生人類の脳にはじめて出現したとき、スピリットは知と非知の境界領域につぎつぎと発生しながら、人類に自分の心の内部 にある「超越性」の領域の存在を、なまなましく直感させる働きをしていました。それは外界に見えるものではない、純粋な心の内部の形態(エイドス)を見え るものにし、耳が聞くのではない音や声を、まだ素朴な心の持ち主であった人間たちに、聞かせることができたのでした。

 スピリットは人間の心を思考の外に連れ出していく力を持っていました。それはスピリット世界が多神教宇宙に作り変えられ、異質な領域をめまぐるし く駆けめぐる高次元の運動をしていたスピリットが、遠くに分離された他界からやってくる「来訪神」や「豊穣神」に姿を変えたあとでも、まだ十分にその能力 は発揮されていたのです。キリスト教の三位一体の窮屈な構造の中に組み込まれるようになったあとでさえ、魂を遠くに連れ去っていくスピリットの力は衰えま せんでした。

 ところが、商品社会に生きるスピリットには、もう人々の魂を外に連れ出したり、ただの記号や看板ではないほんものの「超越性」の領域に触れさせた りする能力のいっさいが、失われてしまっています。あらゆるものを単一の価値の水路に流し込んで平準化してしまう商品社会の中にセットされたスピリット原 理は、むなしい元気を振りまいてみせるだけで、ほんとうはもう息も絶え絶えになっているのが、痛いほどにわかります。スピリットの跳梁とともに開始された 「近代」は、そのスピリットさえも消費し尽くそうとしています。「聖霊の風」がどこからも吹いてこないような時代は、人類の心にとってはいまだかつてない ほどに貧しい時代です。』

 

『 Religion After Religion(あらゆる宗教の後に出現するもの)

 しかし、ここで思い出してみなければならないことがあります。現生人類の心の構造が形成されるのとまったく同時に、そこには「超越性」の最初のま たたきが、発生したのではなかったでしょうか。私たちの心は、どんな状況に置かれていても、「超越性」の領域への通路を、完全にふさいでしまうということ がないようにつくられています。

 数千年にわたって、その通路を整え、管理してきたのは、宗教の存在でした。宗教は「超越性」に名前を与え、ときにはそれを像に刻み、その領域の光 景を描写してみることまで試みてきました。その宗教がしだいに力を失うようになってからすでに年久しく、「超越性」の領域への通路には無数のゴミが分厚く 堆積して、「聖霊の風」のさわやかな流れを阻み、恩寵(おんちょう)も奇跡もめったなことでは及んでこれないほどに、「この世」の仕組みはふてぶてしいも のになってしまいました。

 そういう世界を自分の手でつくりあげてしまいながら、現生人類以来の不変の脳をもった私たち人類は、なにか根本的に新しいものの出現を待ち望んで いるように感じられます。その根本的に新しいものは、商品社会がふさいでしまった「超越性」への通路を、ふたたび開いてみせるものでなければなりません。 数千年の歴史をもつ古い諸宗教に、それを実現できる余力は残されているでしょうか。

 スピリットから唯一神へと展開していった一神教の内部から、私たちの言う根本的に新しいものを生み出すという可能性はあるのでしょうか。大統領が 自分たちのとっている軍事行動を正当化するために、「神(ゴッド)」の名前を唱えるたびに、私たちは、そのような可能性はたぶんないだろう、と思わされて しまうのです。

 あらゆるものを商品化し、情報化し、管理する今日のグローバル文明は、長い歴史をもつ諸文明が生命を汲み上げていた泉の多くを、すっかり干上がら せてしまいました。本物そっくりの偽物はあふれかえっていますが、じっさいにはすでに根を断ち切られているので、古い伝統をもつ宗教でさえ、いまでは造花 の美しさや見かけの正しさしかもっていないケースがほとんどです。

 しかし、そんな人類に変わっていないものが、ひとつだけあることを忘れてはいけません。それは私たちの脳であり、心です。数万年の時間を耐えて、 原初のみずみずしさをいまだに保ち続けている、現生人類の脳だけは、いまだに潜在的な可能性を失ってはいません。そこにはまだ、はじめて現生人類の心にス ピリット世界が出現したときとそっくりそのままの環境が、保たれ続けています。根本的に新しいものが出現する可能性をもった場所と言えば、そこしかありま せん。私たちはそこに、来るべき未来のスピリットを出現させるしか、ほかには道などないでしょう。』

 

『 未来のスピリット

 その来るべきスピリットがどんな形をとることになるか、私たちにはひとつの重要なヒントが残されています。

 手塚治虫が「鉄腕アトム」のイメージを造形しようとしたときに、そのイメージの源泉になったものは、昆虫の世界でした。子供の頃から親しんでいた 昆虫の社会をとおして、彼は生命の世界の奥深い構造を垣間見てきたのです。地球上の生物の中でも、昆虫ほど種の多様性できわだっている生物もいません。小 さな谷筋を捕虫網を手に蝶々を追いかけていくだけでも、二十何種類ものめずらしい蝶蝶に出会うこともまれではありません。昆虫はひとつひとつの生物の存在 が、巨大な「生命」なるものの自己表現の様式であり、その「生命の自己表現」は単調や均質を嫌って、多様性の産出ということを自ら楽しんでいるようにさ え、感じさせるのです。

 手塚治虫はそういう昆虫の世界を、陶酔感をもって見つめていた少年でした。その感覚は、アメリカ先住民が世界をながめるときに感じた感覚に、よく 似ています。この世界にあまねく遍在している「グレートスピリット」は、巨大なうねりのように平原を流動していきながら、無数の、そしてひとつひとつがみ んな違っている「スピリット」を生み出していきます。そのスピリットが身に甲冑(かっちゅう)のような殻をまとえば、昆虫の出現です。

 昆虫採集の体験は、ある種の「超越性」の体験をもたらす可能性を秘めています。単純で純粋な流動体から、その流動体の自己表現のようにして、つぎ からつぎへと生物の多様な形態が出現してくる、その「底」の領域に触れるとき、二十世紀の少年であっても、感覚と思考は、はじめてその心にスピリットが出 現したときの現生人類の脳の興奮状態を再現できるのでしょう。私たちの脳はいまだに野生状態にあるのです。その感覚の野生状態の中から、鉄腕アトムのイ メージは生まれた、と手塚治虫は語っています。

 聖書の神(ゴッド)を信仰した人々の想像力が生んだ最古のロボットは、「ゴーレム」という名前を与えられました。「ゴーレム」は一神教の神(ゴッ ド)が世界と人間を創造したように、生命のない素材に息が吹き込まれることによって、動きだしたのです。ヨーロッパの錬金術師たちは「ホムンクルス」とい う人造人間を、レトルトの中につくりだしましたが、ここでも創造行為のひな形は神(ゴッド)のおこなった偉大な行為でした。一神教の想像力のもとでは、ロ ボットも人造人間も、生命と非生命の対立をかかえたままで

苦しみ続けることになります。

 ところが、鉄腕アトムははじめから、そういうロボットたちとは一線を画していました。アトムは強化物質でできたロボットの身体(その身体のライン は、宝塚少女歌劇のスターたちのイメージから影響を受けているそうです)によって野生状態の心を保護した「新しいスピリット」として、生み出されたので す。

 そこには、多神教宇宙の記憶がなまなましく息づいています。「高神」の理想を追い求めながらも、地上と他界にみちみちる無数のスピリットたちの望 みにも、耳を傾ける__二〇〇三年に生まれ、一神教的な核技術を胸に内蔵したこの「新しいスピリット」は、来るべき時代の「倫理」を自力で創造しようとし て、悩み苦しんでいました。

 私たちはいまではみんな「科学の子」です。アトムにあって、私たちに欠けているものがあるとしたら、それは野生状態の心なのでしょう。しかし、心 配は無用です。私たちは三万年前の現生人類と少しも変わらない脳の組織をもち、そこにはいまも「超越性」の領域への斥候(せっこう)活動を続けるスピリッ トが住み、私たちが自分らのほうに心を向けてくれるのを心待ちにしているのです。心の野を開く鍵は、いつも私たちの身近に放置されてあります。スピリット 世界の記憶をかすかに保ち続けている私たちには、「あらゆる宗教のあとに出現するもの」について、たしかなイメージを抱くことも不可能ではありません。宗 教のアルファー(原初)でありオメガ(未来)であるもの、それはスピリットです。(二〇〇二年一〇月二日,二〇〇三年一月九日、於中央大学)』

 

 

 私たちは、[超越性]の領域に入っていければ、心の野を開くことができ、野生状態の心を取り戻すことができる。そして、イキイキと躍動するスピ リットたちをはっきりと見ることができる。問題は、どうすれば[超越性]の領域、それは[無]の領域とか[トワイライトゾーン]と言ったほうが一般には判 りやすいのかもしれないが、そういう[超越性]の領域に入っていけるかということである。私は、[両頭截断]とよく言うが、物質文明か精神文化とか、右か 左かとか、白か黒かとかそういう相対的に相異なる違いというものを乗り越えてというか、そういう二元論的なもののこだわるということのない、まあ言うなれ ば[中空]領域というか[無]の領域に入っていけるかということである。その方法ははっきりしているのではないか。仏教においては菩薩の道ということにな るのであろうが、仏教や道教や修験道などそれぞれの宗教においてそれぞれ修行の方法が説かれている。それは、私流に言えば、「身体と脳の学習プログラム」いうことだ。

 

 「ラカンの鏡面段階論」!