権威ということ

 

 

 激動の時代である。政治はもとより企業も行政も混沌としておりその行方が定まらない。国民生活もそうだ。何をどうすればいいのか・・・・、全く途方に暮れている状態、それが今の状態ではないか。

 KSD問題や外務省機密費問題などの犯罪のみならず、航空機のニアミス問題など無責任極まりないことが余りにも多すぎる。これらを教育問題にすり替えて済ます動きもないではないが、それには問題が余りにも複雑で大きすぎるのではないかと思う。私は、社会システムまで踏み込んで考えないと根本的な解決は難しいのではないかと考えている。そこで、ここでは、社会システムのあり方に関連して、権威についてひとつの考察を行うこととしたい。社会全体の中に権威というものが失墜してしまっており、それが故に無責任極まりない行動が多発していると考えるからだ。

 

 権威には宗教的な権威と世俗的な権威がある。権威とはおおよそ関係のない団体もあるけれど、権威のある団体も少なくない。団体は、ここでは宗教的な団体と世俗的な団体に分類するとして、それぞれ法人格を持った団体と任意団体とがある。宗教法人にもおおよそ権威のないのがあってそのこともこれからよくよく考えねばならない問題であるが、今ここでは法人格を持った世俗的な団体に権威というものがないということを問題にしたいと思う。このことについては実証が必要であるし、また、法人格を持った世俗的な団体になぜ権威というものが必要なのかという点も議論が必要だ。

 しかし、ここでは、法人格を持った世俗的な団体についても、原則として、然るべき権威というものがあって、その権威のもとに社会的責任が果たされるべきだという考え方に立とう。そういう考え方に立って「権威」について考えてみたい。

 「権威」は必ずしも「権力」とは同じではない。否、ひとつの機関に権力と権威が集中している例も少なくないけれど、「権威」と「権力」とは本質的には違うものであると考えるべきであろう。「権威」とは、「権力」を超越したもので、本来「権力」とは無関係に人々の生き方に然るべき影響を与えるものであろう。

 

 聖武天皇は、全国各地に国分寺と国分尼寺を建立し、仏教により国の「権威」というものを打ち立てた。その総本山が東大寺であり、大仏はまさに国家の精神的中心として建立されたものである。

 巨像・る舎那仏にわが身を投影し、その存在を宣揚した聖武天皇は、仏教国家の範を聖徳太子に仰ぎ、白鳳の精神を伝統とする理想の君主国・日本の実現を目指した英主であった。これは、中西進さん(大阪女子大学長)の見方である(中西進、「聖武天皇」、1998年、PHP研究所)。

 しかし、中西さんも言っておられるように、一般的には、聖武天皇の評判は悪い。いちばん評判が悪いのは天平12年(740)から5年間、つぎつぎと都をかえたことだ。それまで都は奈良にあったが、天平12年、藤原広嗣(ひろつぐ)という男が九州で反乱の兵を挙げると、天皇はただちに都を抜け出して伊勢へゆき、そのまま奈良に帰らないで、恭仁(くに。今の京都府相楽郡加茂町)にとどまり、そこを都とした。のみならず、そののちも難波や紫香楽(しがらき)に行幸をくりかえした。「彷徨(ほうこう)5年」などという言葉もあり、聖武天皇はノイローゼになったのではないかという人も少なくない。杉本苑子さんも、その著書「穢土荘厳(えどしょうごん)」(1986年、文芸春秋)では聖武天皇の精神状態を病的なものと捉えている。ノイローゼだったという訳だ。

 

 私は、中西進さんと杉本苑子さんの中間的な見方をしている。中西さんが言うように、聖武天皇を白鳳の精神を伝統とする理想の君主国・日本の実現を目指した英主というのはちょっと違うのではないかと思う。聖武天皇は、藤原氏の勢力と新興勢力・橘諸兄の間にあって苦労する。ノイローゼにならんばかりの心労が多かったと思う。かといって・・・・・ノイローゼであったというのはちょっと言い過ぎではないか。

 私の考えでは、「彷徨5年」というのは、ノイローゼの故に強行されたのではなくて、大仏建立の準備として東国を固める必要性から強行された。西国は、大将軍・大野東人をもってして宇佐八幡に祈願せしめ、藤原広嗣の乱さえいち早く平定すればそれで充分だ。もともと西国は藤原氏の勢力の弱いところだし、難波が西の抑えとして天皇の勢力下にある。それよりも東国を固めることだ。東国の固めは伊勢と尾張を抑えることだ。そして鎌倉を抑えることだ。

 「彷徨5年」によって東国は固まった。いよいよ橘諸兄とともに恭仁(くに)での新しい都づくりだ。大仏建立はやむを得ないとしても、大仏建立の地はいろいろと意見があったようだ。平城京と新都市・恭仁(くに)、或いは思い切って紫香楽(しがらき)がいいか。それとも難波が良いか。大仏建立そのものに反対する意見も多く、侃々諤々議論が沸騰・・・・、なかなか結論がでない。早く決断しないと大仏建立そのものが立ち消えになる。何よりも始めることだ。したがって、大仏建立の場所そのものについては必ずしも方針が定まらないまま、聖武天皇の思惑でとりあえず紫香楽(しがらき)で始めざるをえなかった。私はそう考えている。やる気を示そう!・・・「石橋を叩いては渡れない!」・・・「ともかく始めることだ!」

 この辺りの筋書きは良弁によるのではないかと私は考えている。良弁は、行基と相談の上、片方で大仏建立の地を平城京とすることで藤原氏を説得し、・・・片方で・・・・大仏建立に対する藤原氏の全面的な協力を得るという条件で、大仏建立の地を平城京にすることをやっと橘諸兄に認めさしたのではないか。私はそう考えている。そういう荒技をできるのは、良弁をおいて他にない。

 

 良弁は、華厳宗の創始者である。華厳思想の究極は、法界縁起にあると言われたりする。その概念は、なかなか難しくてそう簡単に説明できないのであるが、とりあえず判りやすく言ってしまえば・・・・、白と黒、善と悪・・・、まあそういった相対的なものを切り離して認識しないで、りょうりょう相まってというか、一見相対的と見えるものの関係性を重視する。一見矛盾するように見えるものについても双方の立場を尊重する。これは近代科学ではあり得ない認識の仕方であるが、河合隼雄さんはそういう華厳思想というものに21世紀の可能性を見ておられる。私も、深いところは判らないまま、何となくそのように思われて、良弁、徳一、明恵などを勉強したいと考えている。華厳思想はすばらしい。その華厳宗の創始者である良弁が聖武天皇を導いた。そのことがない限り大仏の建立はなかったであろう。そして、そのことがない限り、東大寺はできていなかったし、かの明恵は誕生しなかったのではないかと思えてならない。

 聖武天皇と良弁は、行基という偉大な人を重用し、民衆のエネルギーを引き出しながら巨像・る舎那仏を建立し、国家の精神的支柱とした。権力は藤原氏を中心とする官僚システムに委ねるが、権威は天皇を中心とした皇室に残す。そういう棲み分けを構想し、実現したのは良弁であろう。否、華厳思想のなさしめる技ではなかったのか。私にはそう思えてならない。

 貴族社会は、藤原氏を中心に成熟し、やがては武家社会へと移行していくのだが、その武家社会の源流においてふたたび華厳思想がその真価を発揮する。明恵の「あるべきようわ」の思想である。それによって、権威に裏打ちされた貴族たちと・・・・権力に裏打ちされた武士たちの棲み分けが始まった。武家社会の誕生である。

 21世紀という新しい世紀にあっては、「権威」の復権が待ち望まれている。しかし、権威というものがどうでなければならないのか、今の私にはよく判らない。権威のあるべき構造なんて話になると、今の私にはもうお手上げである。しかし、何となく、私には、華厳思想の近代的解釈が必要であると思えてならないし、NPOなどの民衆のエネルギーがどのような「権威」と結びついて発展するのかしないのか・・・・、その辺が気になってならない。

Iwai-Kuniomi