吉備真備 695‐775(持統9‐宝亀6)

きびのまきび

 

もと下道(しもつみち)真備。奈良時代の学者,政治家。備中国下道郡出身。父は右衛士少尉下道圀勝(くにかつ)。母は楊貴(八木)氏。圀勝の母の骨蔵器が岡山県矢掛町三成で発見されている。716年(霊亀2)22歳で唐への留学生となり翌年出発し,735年(天平7)に帰国。唐では儒学のほかに天文学や兵学,音楽も学んだことは,帰朝時に献上した《唐礼》130巻(経書),《大衍(えん)暦経》1巻,《大衍暦立成》12巻(以上天文暦書),測影鉄尺(日時計),銅律管,鉄如方響,写律管声12条(以上楽器),《楽書要録》10巻(音楽書),絃纏漆角弓,馬上飲水漆角弓,露面漆四節角弓各1張(いずれも騎馬民族の使う弭(ゆはず)が角製の弓),射甲箭20隻,平射箭10隻等によってわかる。また《東漢観記》も将来した(《日本国見在書目録》に記す)。帰朝後,大学助また737年中宮亮に任ぜられ,738年右衛士督を兼ねた。

 737年痘瘡が流行して多くの貴族が死に,生き残った貴族から橘諸兄が738年右大臣に任ぜられ,政権を握った。吉備真備と僧玄(げんぼう)(真備と同時に帰国)とは諸兄に重用された。

 これをねたんだ大宰少弐藤原広嗣は740年に真備と玄を除くのを名目として九州で反乱を起こしたが,まもなく鎮定された。真備は皇太子阿倍内親王(のち孝謙・称徳天皇)に東宮学士として《漢書》《礼記》を教授した。彼が後年称徳天皇時代に右大臣に任ぜられたのは,このときの信任によるといえよう。743年従四位下,春宮(とうぐう)大夫兼皇太子学士になり,746年姓吉備朝臣を賜り,747年右京大夫に転じ,749年従四位上に昇った。

 孝謙天皇が即位すると,藤原仲麻呂が専権をふるい真備は不遇であった。淳仁天皇時代も同様である。

 すなわち750年(天平勝宝2)筑前守ついで肥前守に左遷され,14年間九州にいた。754年大宰少弐,759年(天平宝字3)同大弐に昇任し,この間751年遣唐副使として渡唐,また筑前怡土(いと)城を756年に築いた。763年儀鳳暦に替え,大衍暦が採用されたのは,彼の暦学が認められたものである。764年造東大寺長官に任ぜられ,70歳で帰京できた。

 

 同年9月恵美押勝(藤原仲麻呂)が反乱を起こしたときには,その退路を遮断する方向へ派兵,押勝を斬りえたのは,彼の兵学の才を示す。その功で従三位勲二等を授けられ,中衛大将に任ぜられた。称徳天皇の重祚により,中納言,大納言をへて766年(天平神護2)右大臣に任ぜられた。地方豪族出身では破格の出世である。

 

 770年(宝亀1),称徳天皇没後,後継天皇候補に文室(ふんや)浄三を推して敗れ,辞職。775年10月2日,81歳で没。著書に《私教類聚(しきようるいじゆう)》《道和上纂(どうせんわじようさん)》《定(さくてい)律令》がある。

                           横田 健一

 

 《江談抄(ごうだんしよう)》や《吉備大臣入唐絵詞》などによると,真備は入唐のとき,諸道・諸芸に通じていたので,唐人は恥じてこれを殺そうとする。まず鬼のすむ楼に幽閉するが,鬼が唐土に没した阿倍仲麻呂の霊で真備は救われる。さらに《文選》,〈野馬台の詩〉の解読や囲碁の勝負などを課せられるが,鬼の援助で解決する。最後に食を断って殺そうとするが,真備は鬼に求めさせた双六(すごろく)の道具で日月を封じ,驚いた唐人は彼を釈放したという。

 《今昔物語集》は僧玄をとり殺した藤原広嗣の霊を真備が陰陽道の術をもって鎮圧したとし,《刃辛(ほき)抄》は,陰陽書《刃辛内伝》を請来したのを真備とし,彼を日本の陰陽道の祖とする。

 中世の兵法書などは,張良が所持した《六・三略》の兵法を請来したのを真備とし,日本の兵法の祖とする。野馬台の詩は蜘蛛(くも)のひく糸によって解読したと伝えるが,中世の寺社などではこの野馬詩を重宝し,多くの写本が作られた。

 囲碁,《文選》,火鼠(かそ)の皮なども真備が日本に請来したとされる。    

                            山本 吉左右

 

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