●Voice June,1999 特集日本の「強さ」と「弱さ」

 

国家と宗教の相性のよさ

白鳳女子短期大学学長 山折哲雄

 

 大事なのはやはり、われわれの歴史に目を向けることだ。、日本列島の過去を眺めればわかることだが、長期にわたる「平和」の時代がじつに二度にわたって出現している。第一が平安時代、桓武天皇の平安遷都(七九四年)から後白河天皇の保元の乱(一一五六年)まで、ほぼ三百五十年である。第二が江戸時代、家康による開幕(一六〇三年)から明治維新(一八六八年)までほぼ二百五十年だ。この二つの時期は、内乱状態が沈静化され、一貫した政治体制と社会秩序が保たれた。固有の芸術と文化が繁栄し、後世に伝えられる精神の型がつくられた。

 同時代のヨーロッパ史やアジア史をみればわかるが、「平和」の状態が三百年前後ものあいだ、しかも二度にわたって続いたというような例は一つもない。なぜ、そんな奇蹟のよぅなことがこの日本列島において可能となったのだろうか。理由はいろいろあるだろう。そのなかで私は、国家と宗教の相性がじつによかったという点を挙げなければなるまいと思つている。その両者の関係がこんなにもうまく噛み合った例は、ほかにははとんどみられないからだ。

 

 

 社会秩序の機能回復をはかるバランス装置の発見

 

平安時代を見渡して驚かされるのは、怨霊、もののけといつたたぐいの言説が満天の星くずのように夜空を彩っていたということである。野心、反逆、惑乱の種子とされ、天変地異と疫病の先触れとみなされた。社会の動向を占う仮構された幻想バイキンだ。それは天皇家や貴族たちの館をはじめ、都鄙の人心、中央・地方の広大な空間を飛び交い、人びとを恐柿と不安に陥れた。王朝時代の公的な記録や私的な日記類、「源氏物語」や「栄華物語」、絵巻や民間説話などをのぞけば、そのことは一目瞭然である。

 政治と祉会にかかわる不穏な動きは、しばしばこれらの怨霊やもののけの崇りによるとされたのである。このイデオロギーは病原体(怨霊、もののけ)の特定と、そこから発生する病理現象(崇り)の診断から成り立っていた。こうして、そのもののけの勢力を鎮め、怨霊の立ち騒ぎを祀りあげる装置が開発されることになる。たとえば各地における御霊社の設立―その典型が菅原道真の怨霊を祀りあげる北野天神社の創始だった。これに密教僧たちにまる加持祈祷が加わって鎮塊システムの軌道がしかれた。神仏の協同体制にもとづく崇り排除の柔構造である。

 国家に対する反逆を芽のうちに摘みとる巧妙な仕掛けだったといっていい。アノミ−(混沌状態)に陥った社会秩序に、瞬間的な衝撃を与えて機能回復をはかるバランス装置の発見だった。憎悪と暴力衝動の社会化を阻止し、それをあらかじめ国家の内部に回収する政治と宗教の複合運動である。

 

 その複合運動忙よってかつぎあげられた神輿が天皇だった。この神輿は朝日に輝く宗教的シンボルだったが、その権威の働きを政治的に演出してみせたのが王朝政権だった。今日の象徴天皇制の原型である。国家と宗教の相性のよさを空気のような膜で押し包む高気密のオブラートである。

 江戸時代の場合はどうだったのだろうか。ポイントは、ここでも国家と宗教の提携がわれわれの想像以上にうまく機能していたということだ。

 一般に、この時代の宗教・社会関係をあらわすキーワードとして知られているのが家であり、死者儀礼であり、墓(地)であった。その三者が結びついて檀家制度が生れ、葬式仏教が形づくられた。封建的で遅れた「江戸」のシンボルマークである。二百五十年の歳月の流れを平和な社会とみなすかわりに暗黒の闇に塗りこめる陰気な道具立てであった。

 そのことで無視されてしまったことがある。この時代になつてはじめて、仏教と神道が国民の各層に淫透したということだ。社会の秩序がそのネットワークによって保たれ、国家的統合の心理的な基盤づくりが進行したということである。

 平安時代では、神道は崇り現象の発生源であったが、江戸時代になると地域社会を統合する信仰へと発展する。村々の鏡守の森を中心とするカミ信仰である。それはむろん地域の共同体レベルにとどまるものではなかった。皇室における伊勢信仰、徳川将軍家における日光東照宮の場合をみればわかるだろう。皇室や将軍家も、庶民の場合と同じように氏神や祖先の祀りに精力を費やしたのである。

 この時代は、いわれているように士農工商の身分社会だった。タテの階層化がつらぬかれていたが、しかし氏神や祖先神への信仰によって心の安定を得ようとした点では、どの階層も共通していた。階層による信仰の分化という現象は、それほど進行してはいない。それが全体としての社会秩序の形成に役立っていたことは、とくに留意されるべきだろう。上層エリートの高等(カリスマ)宗教、下層庶民の下等(民俗)宗教、という単純な図式性ど、ことの本質を見誤らせる見方はないというべきだ。

 仏教のほうはどうだったのか。一般に、死者は仏式によって葬られ供養をうけるようになった。この方式が身分や地域の差を超えてほぼ全国的におこなわれるようになったのが、この時代だった。家々と菩提寺が寺檀関係を結んだのである。皇室と京都の泉涌寺、将軍家と江戸の増上寺の関係がそれにあたる。それが大名、武士、そして一般庶民にまで及んだのである。死者を葬る蔓(地)がその菩提寺に属していた点も、身分の上下忙関係なく共通していた。タテの階層社会の各層にヨコの寺檀関係が普遍的にゆきわたっていたということだ。それが、いわば国民宗教的な基盤づくりの一翼を担っていたのである。

 また、この階層社会には独特の職分意識が植えこまれていた。武士には武士の職分、農民には農民、町人には町人の職分というものがあった。聯分とは自覚と誇りにもとづく職業意識といってよい。それは大名や天皇の場合も例外ではなかった。そういう点では、この職分意識も階層を超え平等に抱かれていたことに注意しなければならない。それはちょうど、神道の氏神信仰や仏教の死者儀礼が階層を超えて共通の死生観を培っていたことに対応するだろう。それが、さきにも述べた「国民宗教」的な信仰基盤を形づくっていたのである。ここにも、国家と宗教の相性がよかった特徴を見出すことができる。社会の秩序形成と信仰のあり方が親和的な関係を取り結んでいたことがわかる。

 国民意識の統合の程度が高かった、といっていいかもしれない。否、それがあまりにも高かったからなのであろう。そのため過度の集団主義への傾斜を深めていったのは否めない。のちに一億総懺悔、一億総白痴化などとヤユされるような国民性ができあがったのもそのためかもしれない。

 

 

 長期安定政権がなぜ可能だったのか

 

 しかしその反面、そのような国民意識の高度の統合性が、時代の転換期にあたってプラスに働いたこともあったのではないだろうか。それが、ひいては政治変革における血の犠牲を最小限に食いとめる原因になったとも考えられる。

 たとえば明治維新である。それは、ほとんど無血革命に近い革命だったからだ。むろん戊辰の役から西南の役にかけて多くの人びとの血が流されなかったわけではない。しかし、それはフランス革命やロシア革命とくらべるとき、物の数ではなかった。

 明治維新は、なぜ無血入城、無血革命の軌道をすすむことができたのだろうか。それにも、いろいろの原因を挙げることができるにちがいない。すぐにも儒教の禅譲、仏教の不殺生などの言葉が思い浮ぷ。事実、そういう特定のイデオロギーに還元しょうとする論者がいないではない。しかし私は、そうした単純な思想還元論よりも、平安時代の三百五十年、江戸時代の二百五十年にみられる長期安定時代の背景を検討することの性うがはるかに重要であると考える。平安時代における崇りと祀りあげの政治・宗教的メカニズムの役割であり、それとゆるやかに重なり合う「象徴」天皇の存在である。そして江戸時代においては、とりわけ「家」宗教の死者儀礼と「村」宗教の氏神信仰のネットワークが効果的に機能していたということだ。

 

 権力と宗教の関係もしくは緊張関係が、どの局面においても社会を亀裂にみちびくことがなかった。民衆のエネルギーを決定的な対立や相剋に追いこまなかった、とみていい。それどころか、その関係の相性のよさが、人びとの意識を共通の秩序感覚に向けきせるのに役立っていたというべきだ。神仏信仰にもとづく国民宗教的な基盤がつくられることになったのも、おそらくそのことと無関係ではない。サミユエル・ハンチントンによれば、二十一世紀は「文明の衝突」の世紀だという。私もそうなるだろうと思う。そうだとすれば、その新しい世紀に「日本文明」はどのような役割を担うことになるのか。そのことを考えるためにも、まず平安時代と江戸時代における長期の安定政権がなぜ可能だったのか、その「成功」の秘密を研究すること心ら始めるべきではないだろうか。そうすることで、われわれはアングロサクソン流の「強国」になるかわりに、世界に尊敬される「有徳の国」になる方途をつかむことができるかもしれないのである。

 

 

Iwai-Kuniomi