史的自己としての孝明天皇


 

私は先に、歴史的自己としての孝明天皇について、次のように述べた。「孝明天皇は頑として古い信念を捨てようとはされなかった。けだし、肝心なことは相手の立場にたって考えるということだ。孝明天皇はそれを立派に成し遂げられたと私は思う。それがなければ分裂が融合に向かうはずがない。動きには得てして行き過ぎを伴うものだ。幕藩体制から公武合体へ、そしてその動きは一気に明治維新へと向かった。明治維新は確かに時代が求めたものであろう。しかし、それは必ずしも孝明天皇、正確に言えば歴史的自己としての天皇ということだが、そういう孝明天皇からすれば、その後の動きというものはまったく皮肉な動きであったといわざるを得ない。歴史的自己としての天皇を立派に生きた人・・・・・それが孝明天皇である。」・・・と。

1846年(弘化3年)、アメリカ艦隊が浦賀に来航するなど異国船が盛んに日本にやってくる。そこで天皇は8月に、時の関白であった鷹司政道(たかつかさまさみち)を通して、幕府が異国船に対して適切な対策を採ることを求めた。これは対外問題に関して天皇が勅を幕府に下した最初のケースとなった。そして、これに対し幕府の方も、異国船の近状を天皇に知らせた方が、かえって叡慮を安んじることが出来ると判断して、同年の10月に、(中略)、この年に琉球、浦賀、長崎などへ渡来した外国船の状況を奏聞(そうぶん)する。もっとも、天皇(朝廷)と幕府との関係が、政局のひとつの焦点となってくるのは、やはりなんといっても、1853年(嘉永6年)6月のペリー一行の来日と、彼らによる開国(通商)要求がなされて以後のことであった。そして、ペリー来航直後から、幕府は、朝廷にいわゆる幕府・朝廷・諸藩の三者からなる公儀権力の一員として、それなりの役割をはたすことを求めるようになる。それが何であったかというと、宗教的役割をはたすことであった。すなわち、幕府は、京都所司代を通して、異国船の「調伏(ちょうぶく)」、つまり朝廷が神社仏閣に異国船を滅ぼすための祈願を命じることを要請する。そして、これは、以後、幕府が朝廷に求める基本的な要請となり、朝廷側もこれに常に応じていく関係が築かれていく。以上は家近良樹の近著「孝明天皇と<一会桑(いっかいそう)>(2002年1月、文芸春秋)」からの引用であるが、以下、この著書を中心に孝明天皇の果たした役割について考えてみたい。

1854年(安政元年)3月に、幕府は日米和親条約を調印するが、和親条約はたんに欧米諸国と親しみ仲良くすることを謳っただけで、なんら条約としての実質をともなうものではなかったから、この段階で朝廷側は格別問題視することはなかった。しかし、9月に、ロシアのプチャーチン一行が突如大阪湾に姿を現し、天保山沖へ停泊したことで朝廷側の不安・恐れは現実のものになったようである。

1857年のハリス江戸登城と前後して欧米との通商条約問題が取りざたされ、これを推し進めようとする幕府とこれに反対する水戸の徳川斉昭(なりあき)との軋轢が表面化してくるが、1858年(安政5年)1月、孝明天皇は関白の九条尚忠に対し、「夷人願い通りにあひ成り候ては、天下の一大事のうえ、私の代よりかような儀にあひ成り候ては、後々までの恥の恥に候はんや」と、幕府が進める開国通商路線に否定的な考えを表明する。家近良樹の言うように、「私の代より」というところに、孝明天皇の苦衷が集約してあらわれている。家近良樹によれば、孝明天皇は、ただただ「私の代より」今までの歴史伝統を損なうようなことは出来ないということであり、それ以上の深い考えはなかったのかもしれないとのことである。多分そうだろう。しかし、この天皇の意思表明により、天皇と鷹司(たかつかさ)太閤との対立が表面化してくる。鷹司太閤の考えは、幕府との信頼関係を重視しなければならないというものであり、鷹司太閤は、幕府をこの件で追い詰めれば、「承久(じょうきゅう)の乱」のような事態が発生しかねないとの警告を発した。その後の朝議でも・・・・「もの言わぬ天皇」がはっきり自分の意思を表明。鷹司太閤は自ら辞職、天皇の意思が朝廷の主流となっていく。

私が歴史的自己としての天皇というのはそこであり、天皇というものは、元来、歴史や伝統文化を重んずる立場のものであろう。幕府の開国通商路線は正しい情勢判断としてもあの時点で諸藩を含め大方の賛同が得られていたとは到底考えられない。だとすれば、歴史や伝統文化を重んじるべき天皇が幕府の開国通商路線に反対の意思表明をするのは当然であろう。幕府の路線も間違いとは言えないし、孝明天皇の意思表明も間違いであったとは到底言えない。両者が対立していることは事実であるが、お互い間違いとは言えないような対立、私に言わせれば双方意義のある対立ということであるが、そういう対立の中から・・・・真の改革のエネルギーというものが生れ出てくるのではなかろうか。以後、開国と攘夷、公武合体と倒幕という互いの対立が激烈を極めていくが、それが明治維新のエネルギーを生み出したのだと思う。

そういう葛藤の中、尊王を基本として、開国を進めようとする幕府の立場をも尊重するのが公武合体である。対立の末、公武合体が大勢の傾くところと思われたが、孝明天皇の突然の死によってそれが実現せずに終わってしまった。そして、時代の流れは一気に天皇神格化まで押しやってしまったのである。それが歴史的必然性であったのかもしれない。多分そうだろう。しかし、先に述べたように、伊藤博文のまったく正論というべき意見もあったということは決して忘れるべきでないだろう。ドナルド・キーンの著書によれば、斬新派である伊藤は、天皇の将来の役割について深く憂慮していた。外債募集、及び地租米納論を否定した明治天皇の裁断は、もはや受動的、象徴的役割にとどまることなく自ら重大な決定に積極的に関わりたいという天皇の意思の表明ではないか、と伊藤には思われた。伊藤が恐れたのは、このことが天皇の政治的責任問題の発生や、天皇制の是非を問う論議にまで発展するのではないかということだった。伊藤の考えでは、天皇はあくまで天皇を輔弼(ほひつ)する内閣の象徴的な指導者としての役割を演じることが望ましい。特に伊藤は、政治的責任のない宮中派が天皇を通じて影響力を振るうことを心配した。それは内閣の国家運営の不安定に繋がるだけだ、と伊藤は考えた。伊藤博文の考えはまったく正しい。そのとおりだ。しかし、伊藤の上には、三条実美太政大臣、たるひと親王左大臣、岩倉具視右大臣という三人の権威ある公家がいたので、さすがに伊藤といえども自説を押し通すことはできなかったようである。私には、孝明天皇の望む公武合体が成っておればなあ・・・・という想いがどうしても残るのである。

ドナルド・キーンの著書によれば、立憲改進党の党首・大隈重信も、改進党権勢大会で演説したように、立憲君主が率いる英国式議会制民主主義の確立を強く望んでいた。それが結党の目的であったのである。ドナルド・キーンの著書によれば、大隈重信は、その演説の中で、自分が考える民主政体における君主の・・・・積極的というよりはむしろ象徴的な役割を強調した。大隈重信は決して皇室に献身的でなかったわけではない。が、同じ演説の中で、大隈重信は次のように述べている。「維新中興の偉業を大成し、定刻万世の基礎を建て、そして、皇室の尊栄を無窮に保ち、人民の幸福を永遠に全うせんことを冀望(きぼう)する。」・・・と。

象徴天皇の考え方がすでにこの時期に大きな政治課題として浮上していたということは、私にとって、大変な驚きであるが、よくよく考えてみれば、それは必ずしも驚くに当たらないことかもしれない。そもそも幕藩体制の天皇は典型的な象徴天皇であり、その起源は古くそもそも武家社会が発足した鎌倉時代までさかのぼる。すでに「武家社会源流の旅」で述べてきたように、いうまでもなく象徴天皇の思想的裏打ちは・・・・明恵の「あるべきようわ」にある。伊藤博文や大隈重信の如何にも進歩的に見えながら実は歴史的にはそれがむしろ日本の伝統といえる考えにもかかわらず・・・・現実の流れはそうは流れなかった。三人の権威ある公家の意向というか・・・時代の流れというものが、憲法の草案作りの流れをも・・・・決めていったようである。この年、板垣退助は凶徒から襲撃を受けあの有名な言葉「板垣死すとも自由は死せず!」を叫んだ。すべて時代の流れである。私が思うに、その大勢は王政復古がなった時点で固まったのである。明治憲法も王政復古が原点である。孝明天皇が生きていたら、公武合体がなったであろうし、違った政治体制になっていたかもしれない。そうすれば伊藤博文や大隈重信の影響力がもっと発揮できたかもしれないと思うのだ。まことに残念なことである。しかし、それが時代の流れかもしれないとも思うのである。

家近良樹は、時代の流れというものについてこう語っている。「なぜ幕府政治が終わりを告げたのかという問題を考えたとき、薩長両藩がはたした役割よりも、もっと大きな功績をあげた何物かが他にあったとみざるをえない。それが何かといえば、いままでの政治体制では駄目だという多くの人びとの思いであった。これが結局、幕府政治を終わらせた。こう考えるべきだと思う。」・・と。確かに、長州再征の失敗によって一挙に幕府の権威は失墜するのだが、なぜ長州再征が失敗したかといえば、諸藩の多くが時代の流れを感じて長州再征には熱心に取り組まなかったというのが一番の原因であろう。そうだと思う。しかし、歴史的に大きな出来事をたんに時代の流れといって済ますわけにはいかない。時代の流れというものはさまざまな分裂と融合の動きの中から自ずと出てくるものであろうが、大事なことはそういう分裂と融合の動きである。明治維新の場合は、孝明天皇を中心とした朝廷の空気がそういう分裂と融合の動きに大変大きな影響を与えたのであって、孝明天皇の果たされた役割を決して軽視してはならない。私が、冒頭に、「孝明天皇は頑として古い信念を捨てようとはされなかった。けだし、肝心なことは相手の立場にたって考えるということだ。孝明天皇はそれを立派に成し遂げられたと私は思う。それがなければ分裂が融合に向かうはずがない。動きには得てして行き過ぎを伴うものだ。幕藩体制から公武合体へ、そしてその動きは一気に明治維新へと向かった。明治維新は確かに時代が求めたものであろう。しかし、それは必ずしも孝明天皇、正確に言えば歴史的自己としての天皇ということだが、そういう孝明天皇からすれば、その後の動きというものはまったく皮肉な動きであったといわざるを得ない。歴史的自己としての天皇を立派に生きた人・・・・・それが孝明天皇である。」・・・と述べた所以である。

私は、天皇というものは、わが国の歴史・伝統文化を考えたとき、当然、象徴天皇であるべきだと思う。しかし、孝明天皇がそうであったように、外国の圧力などの予期しがたい事象によって政治に混乱が生じ、民心安定のため早急にその秩序回復を図る必要があると思われるようなときは、天皇は、自らの意思で政治に関与して、わが国の歴史・文化を尊重するという基本的立場に立ち、しかも国際諸情勢を十分勘案の上、政治秩序の早期回復を図ることが必要である。それが歴史的自己としての天皇の役割であろう。私は、孝明天皇は歴史的自己としての天皇を立派に生きられたと思うのである。

Iwai-Kuniomi