孝明天皇ゆかりの「場所」 

 

明治維新に果たした天皇の役割というものを語るとすれば、明治天皇ではなくむしろその父君・孝明天皇を語らねばならない。しかし、孝明天皇について ほとんどの人は無関心である。また、明治天皇その人についてもその生母や生家について知る人はほとんどいない。無関心なのである。何故なのか。明治維新が 舞台の小説は山ほどあるし、明治神宮を参拝する人は数知れない。それにもかかわらず明治天皇の父君や生母についてほとんどの人が無関心であるというのは奇 妙ではないか。そのことを皆さんにも考えてもらいたいと思うが、とりあえずは、「場所」を見てもらいたい。ゆかりの「場所」である。

註:明治天皇のお生まれになった「場所」・「祐井(さちのい)」は後で出てきます!

 

まずは孝明天皇の眠っておられる「場所」である。

 

かって文久3年(1863)に朝彦親王(中川宮)が孝明天皇呪詛を企てたという噂が流れたことがあったが、慶応2年(1867)12月に、孝明天皇 は不可思議な死をとげられる。孝明天皇の死因には天然痘と毒殺の二つの説があるようだ(注:日立デジタル平凡社の世界大百科事典には、<病状が回復しつつ あったときの急死のため毒殺の可能性が高い>となっている)・・・・・・。ドナルド・キーンの著書によれば、孝明天皇は天然痘に罹り加療中であったが、回 復に向かっていたその日、孝明天皇はにわかに激しい嘔吐と下痢に襲われた。顔には紫色の斑点が現れたと諸資料は語り、また「御九穴より御脱血」とも語る。 西暦1867年1月30日、孝明天皇は、断末魔の苦しみの内に息を引き取られた。まことに悲しい出来事であり、私は、孝明天皇の死を今更ながら愛惜の情を 以って悼む。孝明天皇は、今、京都の東山の・・・・天皇家の菩提寺・泉涌寺(せんにゅうじ)の 奥山 に眠っておられる。後月輪東山陵(のちのつきのわひがしのみささぎ)である。

 

後月輪東山陵(のちのつきのわひがしのみささぎ)を知る人は京都でも少ない。

泉涌寺(せんにゅうじ)はまあ知る人ぞ知るで比較的訪れる人が多いかも。

是非、後月輪東山陵(のちのつきのわひがしのみささぎ)にも足を伸ばして欲しい。

東山通りは南の突き当たり近く、泉涌寺道の信号を東に入る。

10分も歩けば参道の入り口だ。

 

[参道入り 口] [泉涌寺の北側 を 行く]

[泉涌寺を振 り返る] [坂道を行 く]

 

 

泉涌寺の公 式サイト!

 

次は、明治天皇のお生まれになった「場所」である。

ドナルド・キーンの著書「明治天皇」は明治天皇の生家の記述から始まるので、それを紹介することとしたい。

 

京都御所を取り巻く御苑の北の端は、かの有名な「猿が辻」からすぐのところに、板塀で仕切られた 屋敷跡がある。その庭の一角に、一棟の小さな家が建っている。明治初期、初めて古都に住むことを許されたアメリカ人宣教師たちは、自分たちの家を 探す当座の間だけ、家具調度など身の回りの品々を置く倉庫代わりにこの家を使ったことがある。今となってはほとんど目をとめる者とてないが、この家は寛永 7年(1854)4月の内裏を全焼させた大火をまぬがれたばかりでなく、明治元年(1868)の事実上の東京遷都後の荒廃と破壊をも生き抜いた数少ない公 家屋敷の一つである。

人の出入りを禁じるように周囲に板塀をめぐらせた外側には、「祐井(さちのい)」と記された 小さな 木柱が建っている。板塀の内側には、より重々しい石碑があるのが塀越しにかろうじて目に入る。過去を物語るこの二つの標識だけが、ここを訪れた者 に次のことを教えてくれる。この家は江戸末期に立てられた伝統的な日本建築の一つ・・・それも実にありきたりの・・・・というだけでなく、はるかに重要な 意味を持っている、と。事実、この家で明治天皇が生れ、「祐井(さちのい)」の水で産湯を使ったのだった。

 

 

 

明治天皇が御所の中でなく、このような質素な家で生れたのは宮中の慣習によるものだった。生母中山慶子(よしこ)(1835〜1907)は、懐妊が 明らかになるや御所の局(つぼね)を出なければならなかった。出産は建物を穢す(けがす)、と古くから信じられていたからである。代々、天皇の御子は宿下 がりした生母の家の近くで生れるのが普通で、それも用済みの後は壊される別棟で生れることが多かった。皮肉にもこの小さな家は壊されるどころか、かってそ の周囲に見事な屋根を競い合っていた公家たちの凝った屋敷よりも長く生き延びることになった。

 

御子の誕生にあたり慶子の父、権大納言中山忠能(ただやす)(1809〜88)は敷地内の屋敷の隣に、この「産所」を建てた。当初は、近隣の公家の 邸内の空地を融通してもらうつもりだった。生れてくる子供は、或いは将来天皇になる皇子かもしれないのだった。にも拘らず忠能の土地借用の申し出は、こと ごとく断られた。仕方なく忠能は、狭い自分の屋敷内に産屋を建てなければならなかった。忠能は当時の多くの公家がそうであったように、浴室と厩のついた二 間だけの質素な家を建てる費用さえ賄えないほど貧しかった。建築の費用の大半は、借金しなければならなかった。

 

歴史は正しく認識されなければならない。そうでないと今後歩むべき道を見誤ってしまう。家近良樹がその著書「孝明天皇と一会桑(いっかいそう)」で 言っているとおり、私は明治維新に関する歴史認識についてもまだ見直さなければならない点があるのではないかと思っている。天皇と公家に対する認識であ る。ともかく現地に行って欲しい。現地に行けば何か感じるものがある。響き合うものがある。その上でいろいろと考えて欲しい。私が「劇場国家にっぽん」を 提唱する所以である。

 

京都御所は見るところが多く、四季折々何度も出かけ下さい!

京都御所は広すぎて中を歩くのはちょっと大変ですが、

一度は歩いてどこに何があるかを確かめておくとよいと思います。

そして、四季折々出かけて下さい。

まずは春先ももの頃・・・・、ここをクリッ ク!

そして桜ですね。

[八重桜1] [八重桜2] [八重桜3] [八重桜4]

 [枝垂 れ桜1] [枝垂 れ桜2] [枝垂 れ桜3]

ここもクリックし て下さい!御苑の桜情報ページ(リンク)です。 

私の桜情報です!

 

[蛤ぐり御 門] [正面の大通 り]

 [内裏]   [猿が辻]   [猿が辻2]

[公園内の散 歩道]

 

 

 

 

 

 

 以上は内裏の外である。現在松のほかに桃ノ木や桜の木などが植えられて公園になっているところに公家の屋敷が立ち並んでいた。天皇は、内裏の中で 生活をされ執務もされたので、内裏の外に出ることはほとんどなかった。天皇の世界というものは内裏の中がまあ総べてといってもいいのかもしれない。どんな に窮屈な世界であったろうか。お可哀想な気もする。内裏の中は、春と秋に一般参観があるし、普段も申し込めば特別参観ができる。いくつかのホームページも できているので、それを見ながら天皇の生活を想像して欲しい。建物は立派でも心の充実というものは果たしてどうであったのか。旅もままならぬ。テレビもラ ジオもない。私たちの生活は如何に自由で伸び伸びとしているか。自由ほどありがたいものはない。天皇たちが時に出かける「熊野詣うで」は如何にいきいきと 希望に満ちた旅であったろうか。現在の天皇や皇室ももっともっと自由な旅を楽しむことができるといい。「劇場国家にっぽん」としては「場所」である。いろ んなゆかりの「場所」に出かける「旅」である。それが正しい歴史観を生み、伝統文化に対する正しい理解を生むのである。それがとりもなおさず創造力であ る。現在の天皇や皇室ももっともっと自由な旅をしなければならない・・・・と、私はつくづく思うのである。

写真が豊富なホーム ページです!

工夫を凝らし たホームページです!

 

 御所は周囲が石垣で囲まれ門は頑丈である。したがって、たびたび発生する加茂川の水害には安全である。しかし、落雷や飛び火による火災はあったよ うだ。疫病の心配もなくはない。外の世界は魑魅魍魎の世界である。そこに「陰陽師」の活躍がある。御所は「陰陽師」によって護られているのである。先の 「猿が辻」は陰陽道によって誠に奇妙なつくりになっている。角度を変えて見てみよう。角 が凸では なくて凹になっているのがお判りになるであろうか。この角が御所の鬼門に当たるところから、比叡山延暦寺の地主神、日吉神社の木彫りの猿が蟇股 (かえるまた)に置かれ、このような構造になっているのである。赤山禅院の猿も同様の主 旨で置かれている。「陰陽師」については、是非、清明神社や上賀茂神社に出か けて遠く想いを馳せて欲しいし、陰陽道については、是非、崇導神社や赤山禅院に出かけて遠く想いを馳せて欲しい。京の都にうごめく魑魅魍魎から王城を護る のは「陰陽師」や陰陽道である。

 ただし、菅 原道真の怨霊だけは、「陰陽師」や陰陽道では何ともならなかったようである。陰陽道と修験道と密教

の合力が必要であったのかも・・・。

 


 今回は、孝明天皇ゆかりの「場所」を訪れた。私としてはまた新たな思いが湧いてきてそれなりの収穫があった。是非、みなさんもお出かけ下さい。

 私の提唱する「劇場国家にっぽん」は、歴史や芸術文化を大事にし、又違いというものを大事にして、創造力豊かな国を創ろうとするものである。その 際の哲学は「場所の論理」と「種の論理」である。私は、世の中がそれらによって動いていると考えているのである。「場所の論理」は「場所」を大事にする し、「種の論理」は「違い」を大事にする。

 孝明天皇ゆかりの「場所」を訪れて思うのは、「天皇制の両義牲」ということである。そもそも私は権力と権威という両義性を大事にしなければならな いと考えており、その点から「象徴天皇」を評価している。日本では歴史的にそうであったし、したがって、孝明天皇はその歴史的自己を立派に生きてこられ た。歴史的自己とか自己限定というのは西田幾多郎の「場所の論理」における言い方であるが、そういう歴史的な天皇というものは、・・・・・現在の天皇もそ うだが・・・・・・、天皇の生活においても公式的な生活と私的な生活という「生活の両義牲」考えたとき、私的な生活にはあまりにも自由がなさ過ぎはしない か・・・・・ということだ。私はそれを強く感じた。

 「天皇制の両義牲」についてはもっと歴史的な研究がなされなければならない。それが不十分な現在はかってに私見をいわざるを得ない。それもやむを 得ないことだろう。私見によれば、私見というよりも感じという程度のものかもしれないが、まあ私の勝手な思いによれば、天皇の私的な生活にもっともっと自 由があって然るべきだ。網野善彦の一連の研究によれば、中世において、私に言わせれば鎌倉幕府以降に天皇が制度的に象徴天皇になってからということだが、 まあそういう中世においては・・・・どうも私的な生活の面で、天皇の権威というものが芸能者、木地師、鋳物師などの下層の職能民と深く結びついていたらし い。社会には恵まれない人々が常にいるのだから、私は、これからの天皇の権威というものを考える際には、そういうことを十分考えるべきではないかと思う。 つまり、私的な生活では、社会的に見捨てられようとしている過疎地域などの地域で・・地域文化を守りつつ苦しい生活を余儀なくされている人々であると か・・・・、身体障害者などの社会的に恵まれない人たちであるとか、そういう人たちとの触れあい、響き合い、「コミュニケーション」を深める・・・・・、 そういう必要性があると思うのである。私たちは、そういう人たちの喜びとか苦しみというものを共有すべきである。天皇や皇室も同じだろう。天皇や皇室は もっともっと「旅」に出掛けるべきである。今回の旅ではそういうことを強く感じたのであるが、どうであろうか。そういった「天皇制の両義牲」についてはい ずれ時期を見て考えることにしたい。京都御所は梨木神社の横、廬山寺(ろざんじ)を近々訪ねたいと思っている。「天皇制の両義性」を考える旅である。乞う ご期待!・・・・・では、「場所の論理」に戻ろう。

 

もう一度孝明天皇に話を戻し、

 

いよいよ・・・・「場所の論理」にもとづき、

孝明天皇に関する私の想いを申し述べることとしたい。 

「歴史的自己 としての孝明天皇」についてである。