光仁天皇 709‐781(和銅2‐天応1)

こうにんてんのう

 

第49代に数えられる奈良後期の天皇。在位770‐781年。天智天皇の孫,施基(志貴)皇子の第6子,母は紀諸人の女橡姫(とちひめ)。諱(いみな)は白壁,和風諡号(しごう)を天宗高紹(あまむねたかつぎ)天皇という。

737年(天平9)無位から従四位下に叙せられ,以後累進して正三位大納言に至ったが,その間飲酒をほしいままにして皇位継承の争いに巻き込まれるのを避けていた。

 

しかし770年8月に称徳天皇が没し,天武系の皇統が絶えると,藤原百川,永手らに擁立されて皇太子となり,道鏡を下野薬師寺別当に左遷した。

 

ついで同年10月に即位,宝亀と改元し,井上(いかみ)内親王を皇后に,その子である他戸(おさべ)親王を皇太子と定めたが,まもなく皇后が巫蠱(ふこ)に座したという理由で,廃后・廃太子を断行し,代わって山部親王(母は高野新笠)を皇太子に立て,また楊梅宮を造営して移った。

在位中,大中臣清麻呂を右大臣に,藤原良継を内臣,内大臣に任じて重用し,庶政刷新,綱紀粛正をはかったほか,渤海,新羅,唐からの使節来朝が相つぎ,また蝦夷の反乱鎮定にも努めた。

 

781年4月,病によって山部親王(桓武天皇)に譲位,同年12月に没した。はじめ広岡山陵に葬ったが,のち父の施基皇子(春日宮天皇と追称)を葬る大和国添上郡田原の地に改葬した。

                       岸 俊男

 

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