「歴史と伝統・文化」の象徴である天皇

 

 

 私は先に、天皇はわが国の「歴史と伝統・文化」の象徴であるといったが、この点については、大いに議論のあるところであろう。もし私の主張が的を得たものかどうかは、もちろん、今後の学術的研究に待たなければならない。私は、直感でそういっているに過ぎないが、何故そういうのかは若干の説明が必要だろう。

 

 さて、すでに述べたように、明治時代というものは、明治天皇の父君である孝明天皇が何者かに暗殺され、明治天皇が新政府の頂点に君臨することによって、わが国は強くなっていく。富国強兵をなし、列強諸国に伍してやっていけるようになったのも、そういう新体制のお陰であり、私は、明治維新の歴史的必然性というものをひしひしと感じるのであるが、わが国がそういう歴史を歩むことができたのは何故であろうか。

 そこが天皇制を考えるときのいちばんの問題であり、もし私のいうように孝明天皇の暗殺を歴史的必然性と考えるのなら、この問題はわが国の「歴史と伝統・文化」をどう考えるかという問題に帰する。

 私は、わが国の「歴史と伝統・文化」を「流動的知性」にもとづく「違いを認める文化」だと考えており、そういう歴史的認識に立つならば、西欧列国の植民地になるかどうかの瀬戸際にあって、やはり、わが国の国体を守るために当然の力が働いたと考えざるを得ないのではないか。明治維新は歴史的必然であったと考えざるを得ない。孝明天皇の暗殺も歴史的必然であったと考えざるを得ないのである。私たちは「違いを認める文化」を生きているのであり、それが外部の力によって損なわれるとき、私たちは自ずと結束してそれを守るのである。私たちはそういう国民であると思う。

 

 天皇制というものを考えるとき、もっとも参考になるのは、網野善彦の「異形の王権」(1986年、平凡社。1993年、平凡社ライブラリーに収録。)である。

 網野は、その著書のなかで、『 ・・・「権威づけの装置」の一つとして、儀礼を「家業」としつつ、天皇は江戸時代を通じてその地位を保ちつづけた。なぜそうなったか、南北朝から戦国の動乱のなかでなぜ天皇が消滅しなかったのか。これはなお未解決の問題をいわざるを得ないが、それがさきの権威の構造の転換の仕方に関わっていることは間違いなく、さらにまた後醍醐による「異形の王権」の出現と、その執念が南朝として、細々とではあれ存続しつづけたことに多少とも規定されていることは否定できない。室町幕府がついに南朝を打倒し切ることができず、北朝との合一という形で動乱を収拾せざるを得なかった事実を、われわれは直視する必要がある。室町期以降、天皇家が生きのびた直接の出発点がここにあるとすれば、そこに後醍醐の執念の作用を認めないわけにはいかないのである。

 そして後醍醐は、非人を動員し、セックスそのものの力を王権強化に用いることを通して、日本の社会の深部に天皇を突き刺した。このことと、現在、日本社会の「暗部」に、ときに熱狂的なほどに天皇制を支持し、その権力の強化を求める動きのあることとは決して無関係ではない、と私は考える。』・・・・と述べている。

 その通りである。参考にすべき点が多く、今後しっかりと網野の「異形の王権」を勉強しなければならないと思う。しかし、その本で残念なのは、わが国の歴史になぜ「異形の王権」が誕生したのか・・・・その点がどうもはっきりしないことだ。まだ学問的には未解決ということかもしれないが、政治家である私としては、たとえ学問的に未解決であったしてもある程度は思想として語っておく必要があるだろう。

 わが国では、天皇も国民も「違いを認める文化」を生きてきた。「和の文化」を生きてきたといってもいい。それは、両極端を嫌うことでもある。つねに振り子の原理が働いている。したがって、「歴史と伝統・文化」にもとづく天皇という権威が武士による権力によって消えかかろうとするとき、天皇は、非人、河原者、遊女、芸能民、鋳物師、木地屋、薬売り、海民などの・・・まあいうなれば権力の周縁部にいる人たちの力を借りて、武士の権力に立ち向わざるをえないし、またそれらの人びとも天皇を積極的に守らなければならないのではないか。天皇というものは、権力とも一体不可分であると同時に非権力とも一体不可分である。どちらに偏してもいけないのではないか。「空」でなければいけないのではないか。

 

 中沢新一は、「網野善彦を継ぐ」(中沢新一、赤坂憲雄共著、2004年6月、講談社)のなかで次のようにいっている。

 『 カントローヴィッチ(1895〜1963。ドイツ領ポーランドに生まれてアメリカに亡命した世界的な歴史家。その著「王の二つの身体」は西欧中世政治思想や王権観念の歴史のすぐれた研究として評価されている。)がいうのは、王が生き死にする身体、具体的な身体のことですね。これは歴代天皇のことです。もう一つは、天皇が死んでも持続していくような法人としての天皇ですね。これがだいたいヨーロッパの王権を考えるときの、二つのテーマですね。それ以上は考える必要がない。

 ところが天皇制では、もう一つの身体を考えなければいけなくなってくる。それを「精霊の王」では、ぼくは「翁としての体」と表現したわけですけれども、芸能的な構造として表現される身体性ですね。この芸能をとおして表現される身体性というものの根源をたどっていくと、これはとても深いところへ降りて行ってしまう。近代的思考が普通、天皇制を処理できると考えている天皇、つまり王権性と天皇を結びつけて処理できる天皇というものは、この第三の身体に及んでいないんですね。

 ところがこの第三の身体が、現実の政治場面ではなばなしく活動したことがあって、それが後醍醐天皇の南北朝動乱期にあらわれてきた身体だと思うんですね。網野さんは、この身体のことを強調した。今後、日本人が天皇制というものを存続させていくか、消滅させていこうとするのか、そういう決定をするときの前提材料を歴史学は研究しなければならないけれども、そのためには天皇制がいちばん深いところで、いったいどこまでつながっているのか見届ける必要があるというのが、網野さんのスタンスだったと思います。

 「異形の王権」が見い出したのは、この根っこがものすごく深いところでつながっているということでした。それはどういうところへつながっていったかと言うと、どうもこれは自然につながっている。それは温泉を支配したり、滝を支配したり、山を、あるいは森を支配したりする。アジールとしての森ですよね。そういうアジールを支配するような天皇というのがそこに出てきちゃう。そうすると、「無縁・公界・楽」(網野善彦、1978年、平凡社。1996年、平凡社ライブラリーに収録。同著で網野氏は、「無縁」「公界」「楽」の場は民衆生活の中に生み出された自由・平和・平等の場であり理想郷への志向を示しているとし、そこに貫かれる「無縁」の原理の現象形態、作用の仕方の変遷をたどることで、人類史・世界史の基本法則を捉えることが可能になると宣言している。)が問題としていた人間の自由の根源というものと、天皇のもう一つの身体性というものがそこでつながっちゃうわけですよね。これを今までの歴史学者も、天皇制を批判する側も、本当に問題にしてきただろうかと、そのことを「異形の王権」は、問題にしたかったのだと思います。』・・・と。

 

 明恵の「あるべきようは」によって、象徴天皇が誕生した。「物言わぬ天皇」である。「空の天皇である。中沢新一に言わせれば「精霊の王」(講談社、2003年11月)ということになるが、それがわが国の国体であり、世界に冠たる天皇制という制度がすでに鎌倉時代に確立した。私は、明恵の「あるべきようは」によって、武士は武士らしく、天皇は天皇らしく生きなければならないのだと思う。

 天皇も公家も、将軍も武士も、百姓も町民も、わが国民はみんな「違いを認める文化」、「和の文化」を立派に生きなければならない。自分の考えを相手に押し付けてはいけない。相手の考えを尊重しなければならない。相手の立場を尊重しなければならない。将軍や武士が天皇や公家をないがしろにするようなことがあってはならない。そういう無意識が後醍醐という「異形の王権」を生んだのだと思う。

 

 さあ、それでは少しづつ明恵の「あるべきようは」や中沢新一の「精霊の王」を勉強しよう。そして、その傍ら・・・なぜわが国の歴史にあのような「異形の王権」が誕生せざるを得なかったのかを勉強していきたいと思う。「異形の王権」を勉強することによって、多分、これからの天皇制のあり方が見えてくるものと思う。

 グローバルな市場原理という力によって、今まさにわが国の「歴史と伝統・文化」が消えかかろうとしている。近代化という力によって、今まさにわが国の「歴史と伝統・文化」の象徴である天皇が消えかかろうとしている。天皇は、権力の周縁部にいる人たちの力を借りて、そういう力に立ち向かうべきであるし、また私たちも天皇と一緒になってそういう力に立ち向かうべきではないのか。

 

「空の天皇」のあるべき姿(かたち)を探るため、

まずは、京都の白峰神社に参ろうか。

参ろう!参ろう!参るとしよう!

Iwai-Kuniomi