マメの神話学

 

 

 中沢新一の「人類最古の哲学・・・カイエ・ソバジュ氈v(2002年1月、講談社)からマメの神話学を紹介します。

 

 豆は人間の文化の中でもいつでもとても大きな働きをしてきました。重要な植物性蛋白(たんぱく)源としてだけではなく、豆はまた神話的思考の大好物でもあったのです。日本人はこのことをよく知っています。春が訪れる直前の古い「正月」の形態としての節分の祭りがおこなわれますが、この節分に「鬼は外、福は内」と大声で叫びながら豆をまく風習は、いまでも広く行なわれています。それどころか、最近は一種のショーにさえなっています。しかしそれにしてもいったいなぜ豆なのでしょう。

 

 節分の祭りは春の訪れと密接に関わっていますが、この時期にはアメリカ大陸でもユーラシア大陸でも、死者に関わりのある祭りがおこなわれていました。冬が完全に去って春が訪れるちょうど境目の時期に、死者たちを呼び寄せ、ついでそれを送りだす儀礼をおこなうのです。ヨーロッパでは復活祭の直前の「灰の水曜日」をはさんだ時期、死者を表象するかっこうをした若者や子供たちが、夜の村や町を練り歩きましたし、アメリカ・インディアンも死者のダンスをおこなっていました。この時期は、それまで冬と一体になって寒さと闇の中に隠れていた死者を表に引っ張り出してきて、これを追い出すしぐさを演ずることによって、春の到来を象徴的にもたしかなものとしようとしたのだと思います。

 

 この境目に出現する死者たちをどう扱うのかが、大きな問題ですが、そのとき豆が登場するのです。豆を死者=鬼に向かって投げつけます。一般には「鬼は外」と言って、鬼を払う意味になっていますが、日本の村々には「鬼の子孫」と呼ばれる人たちがいて、この人たちは「鬼は外」ではなく、「鬼はうち、福は内」の言いながら豆を闇に向かって投げつけているところから見ますと、豆は単純に死者を外に追いやるためではなく、鬼である死者の世界とコミュニケーションをする道具として使われたのではないか、思われてきます。死者と生者のあいだに、コミュニケーション(交通)の回路を開く力を持ったもの、それがどうやら豆であるらしいのです。

 豆は生者と死者のそれぞれの世界の境目にたって、ふたつの世界のコミュニケーション回路を開いたり閉じたりする役をするのですから、どうしても「両義的」な存在でなければなりません。鬼=死者をも引きつける力を持ち、またそれを追い出すことができるわけですから、豆はとても複雑な性格を持っていなければなりません。日本ではこのとき、大豆や小豆を使っています。節分の時期には、小豆の粥も食べられています。死者の祭りであるお彼岸には、小豆やきな粉をまぶしてある、ぼた餅を食べますが、それはそおらくは、小豆が死者と生者を媒介して結びつける「仲介者(mediator)」の働きをしているからでしょう。

 

 以上に引き続き、中沢新一の「豆の神話学」は延々と続くのだが、詳細は「人類最古の哲学・・・カイエ・ソバジュ氈vを読んで欲しい。中沢新一は、その中で、レヴィ=ストロースの「アメリカのピタゴラス」というじつに気の利いた論文を紹介し、「豆の神話学」を展開している。それでは、ぼちぼち中沢新一は「豆の神話学」の核心部分に迫りたい。以下の文章も「人類最古の哲学・・・カイエ・ソバジュ氈vからの引用である。

 

 何ごとも男性的と女性的の二元論の対立で思考したがる傾向を持ったアメリカ・インディアンの世界では、睾丸とペニスは同じ弾性的な器官に属していますが柔らかい睾丸はより女性的なものとして硬いペニスに対立します。それと同じ関係がソラ豆とトウモロコシのあいだに見い出されることになります。そうすると例えば日本の民間神話において大活躍する狸という動物は、あの大きな睾丸を持つことによって、より女性的な動物ということになるでしょう。じっさい江戸時代の絵などには、狸がこの巨大な睾丸を拡げて風呂敷がわりに物を包んだりしている様子が描かれていますが、ここにも狸の女性性がよく表現されています。睾丸は男性器の中のより女性的な器官ということになりますが、この考えはじつに広範囲に抱かれていたようです。

 レヴィ=ストロースもこの論文の中で楽しいそうに紹介していますが、日本語の古い俗語で、豆といえば女性のクリトリスを意味していました。遊廓などでさかんに使われていた言い方です。しかもクリトリスは形態のはっきりしにくい女性器の中ではとくにすっきりした形態を持ち、その点では男性器の特徴に近いものですから、この豆と呼ばれる器官は、女性器の中の男性的な部分と考えれることになりますが、面白いことにアメリカ・インディアンもまったく同じ考えを抱いていました。

 そうすると、とても興味深いことがわかってきます。豆は男性の睾丸にあたるといわれていたことを思い出してください。じっさい、睾丸のことを豆と呼んでいる地方がたくさんありますし、日本語でも豆は二重の意味を持っています。つまり、男性の身体のうちでもっとも男性的な器官の中の女性的な部分、これが睾丸ですが、これは豆だと言うのです。ところで一方の俗語では同じ豆ということばが、女性的なもののうちでいちばん男性的な部分を表わしていました。男性的なものの中のより女性的な部分(睾丸)と、女性的なものの中のより男性的な部分(クリトリス)、これがどちらも「豆」と言われていた訳です。

 つまり、広い地域で共有されていた神話的思考において、「豆は」男性性の中の女性的なものを表わすと同時に、女性性の中の男性的なものをあらわします。

(中略)

 神話的思考は、豆を男性性と女性性の中間に立つ仲介と考えました。そこから生と死を媒介するものとしての豆の機能という考えもあらわれてきます。豆には死の香りが含まれているために、死者は豆を好みます。そういう豆を媒介にして、人間は死者とコミュニケーションができると信じられ、死者を招くためにに豆を料理してお供物にしたり、豆を食べたり、闇に向かって豆を投げたりしたわけですし、その両義的な性格によって、死を払うこともできたわけです。