大畑に学ぶ

 

 

 私は先に民主党代表の管直人の「緑のダム論」の誤りを指摘して、次のように述べた。すなわち、

『 私は何が何でもダムが良いと言っている訳ではありません。遊水池で洪水調節ができるところや水が豊富にあるところでは当然ダムを作る必要はあり ません。洪水調節や渇水補給の必要があるかどうか、その点については十分検討する必要があるのです。ダムを作らなくて良い場合も当然あります。後日述べる ように、大畑原則のような立派な考え方があってひとつのコミュニティーで問題が収束する場合はそれで当然良いのです。したがって、私は、ダムを作る必要が ないということがケシカランと言っている訳ではないのです。そうではなくて、ダムを作る必要がある場合に、その変わりに緑のダムを作れば良いと言 う・・・・そのようなウソをつくのがケシカランと言っているのです。もう一度声を大にして申し上げます。

 ウソをつくのではなく・・・、正しい認識のもとで・・・・・、私達は、真面目に、山のことを考え、森のことを考え、緑のことを考えていきたいもの です。

 真面目に自然のことを考え、真面目に人生を考え、真実をきっちり見つめながら、山の人々と私達は語り合っていかなければならないのです。ともか く・・・・ウソはいけません!!!!真実を語ろうではありませんか!!!!』・・・・と。

 

 そうなのだ!私達は、何も政治に限らないが、世の中のリーダーたるもの、科学的知見にもとづいて意見を述べていかなければならない。科学的知見を 無視したような言論が多いのは本当に世の中をおかしくする。特に、政治家は、そういう科学的知見に反するような言論を弄んで世の中を惑わしてはならない。 ところで、カール・セーガンはその著書「科学と悪霊を語る」(青 木薫訳、1997年、新潮社)の中(第2章 科学と希望)で次のように述べている。傾聴に値するので再掲しておく。

 『 私はアメリカの未来に不安を抱いている。子供や孫たちの時代には、アメリカはますますサービス・情報社会となり、主要な製造業はほとんどよそ の国に移っているだろう。恐ろしいほどに肥大したテクノロジーはごく少数の者の手に握られ、国民の利益を代表する議員たちの中には、問題点がわかっている 者など一人もいなくなってしまうのではないだろうか。

 われわれが築きあげてきた地球規模の文明は、今や科学技術に深く依存している。文明を支えている運輸、通信、農業、医学もそうだし、教育や娯楽、 環境保護、さらには民主主義の基本となる選挙制度さえもが、科学技術なしには成り立たないほどだ。しかもわれわれは、一般の人々は科学技術のことなど知ら なくともすむようにものごとを進めてきた。だが、こういうやり方はいずれ破綻するにちがいない。現代文明には、科学技術が与える強大な力と、科学技術に対 する無知とが混じり合って渦巻いている。この混合ガスは、早晩われわれの目の前で爆発するだろう。

 西暦二〇〇〇年を目前にして、私の不安は強まっている。年を追うごとに似非科学や迷信の誘惑はあらがいがたいものになり、人を狂わすセイレーンの 歌声がいっそう高く、魅惑的に響きわたっているような気がしてならないのだ。過去において、この歌が聞こえてきたのはどんなときだっただろうか?

 どれかの民族や国に対する偏見が生まれたとき、飢饉が起きたとき、国の威信が揺らいだとき、宇宙における人間の位置や人間存在の目的がおとしめら れたと嘆くとき、狂信的行為が身の回りにあふれるとき−そんなとき、昔からおなじみの思考様式が、われわれを支配しようとその手を伸ばしはじめるのだ。

 ロウソクの炎は風になびき、その小さな光は今にも消え入りそうに震えている。闇が深まり、悪霊たちがざわめきはじめている。宗教の本の中には、 「科学者という連中は、この世には自分たちの発見したものしか存在しないと信じ込んでいる」などと書かれたものがある。たしかに科学者は、神秘的な啓示を 否定するかもしれないが、それは、啓示を受けたという本人の申し立て以外には、何の証拠もないからにすぎない。だからといって科学者は、自然界についての 自分たちの知識が完璧だなどとは思っていないのである。

 知識を得るための道具という点では、科学はとうてい完璧などと言えた代物ではない。ただ、人間が手にしている道具のなかでは、いちばん“まし”だ というだけのことだ。この点一つをとってみても、科学には民主主義と似たところがある。科学は人間の進むべき道を教えてはくれないけれど、どの道を選べば どうなるかは、はっきりと示してくれる。

 英語の「スピリット(精神)」という言葉は、「呼吸する」という意味のラテン語に由来する。我々が呼吸しているのは空気であり、どんなに薄くとも 物質であることに変わりはない。つまり、普段の使われ方に反して、「スピリチュアル(精神的な)」という言葉は、必ずしも物質(脳を構成する物質も含め て)以外のもの、あるいは科学の範疇外のものを指すわけではないのである。私はこれから先、ためらわずにこの言葉を使わせてもらうつもりだ。科学は精神性 と矛盾しないばかりか、深いところでは精神性を生み出す源なのだから。 

 人が空間と時間のなかで自分の位置を認識するとき、あるいは生命の複雑さや美しさや精妙さを理解するとき、そこには喜びと謙遜の入りまじった感情 が生まれる。それはまさに精神的としか言いようのないものだ。その感情は、偉大な美術や音楽や文学を前にしたときや、マハトマ・ガンジーやマーティン・ ルーサー・キングらの勇気ある無私の行為を前にしたときに感じるものと何ら変わるところがない。

 科学と精神性は互いに相容れないなどと考えることは、どちらにとっても百害あって一利なしというべきだろう。 』・・・・と。

 

 さて、冒頭に述べた「ダムを作らなくて良い場合も当然あるのであって、大畑原則のよ うな立派な考え方があってひとつのコミュニティーで問題が収束する場合はそれで当然良い」の だということについてはちょっと判りにくい。大畑原則を普遍すれば何故ダムを造らないという選択になるのかということはちょっと判りにくいかもしれない。 先において、『 大畑原則についてはいずれ詳しく述べるもあろうが、ここではとりあえず、角本さんはじめ大畑の人々が考えているような洪水調節のためのダ ムはもちろんのこと砂防ダムも造らないという考え方もあるということだけを申し上げておく。コミュニティー単位では、そういう考え方の場合も当然ある。昔 の知恵に学び、山を地域に取り戻すのである。本当の意味でのコミュニティと自然との共生を生きていくのだ。それがサステイナブルコミュニティーである。し かし、大都市を抱える大河川の場合は、ダムによる洪水調節やダムによる水資源開発や砂防ダムによる土石流防止など近代技術を使った方が合理的であることは 間違いない。そのことだけは言っておく。』・・・・と述べたが、この点についてはもう少し詳しく述べておかなければならないであろう。

 

 私は先に、「ハイデッガーの技術論を超え て」と 題して新しい技術論を述べた。私の新技術論では、「立たせない力」というものに注目している。「立たせない力」というものに注目するということは、「陰と いうものの価値」に注目することであり、また、「心というものの重要性」に注目することでもある。もちろん、私の新技術論は、学問的意味での技術論になっ ていないかも知れないが、まあ学者諸君に対して警鐘を鳴らす意味で述べたものとしておおめに見ておいて欲しい。言いたいことは心の問題、カール・セーガン 言うところの精神性も科学的知見にもとづいて取り上げて欲しいということである。もちろん、私は、多分、中沢新一も本音はそうだろうと思うが、最終的に宗 教は残ると考えている。しかし、できるだけ宗教に頼らないで科学的知見にもとづいてモノごとは決めていかなければならないのである。科学的知見を無視する ことは絶対にあってはならない。したがって、心の問題とか精神性というとき、それは科学的知見を前提にしてのことであることを承知しておいて欲しい。新技 術論でいいたいことは、現在の科学文明があまりにも心の問題、精神性をおろそかにしているということであって、科学的知見を無視して良いということではな い。

 ところで、ちなみに言っておけば、私の考えでは、祭りは文化である。宗教と結びついた面があるけれ ど、私は宗教そのものではないと考えている。「立たせない力」のもとで「如何に心を奮い立たせるか」、そのための技術だと考えている。私の新技術論では、 祭りは心に関わる技術である。精神性に関わる技術である。

 

 新技術論でいいたいことは、心の問題、精神性を大事にしてもらいたい、そのためには伝統的な技術を 大事にすべきだという点にある。新技術論は治水技術にもちろん限らない。しかし、今ここでは治水技術について私は語っている。で、治水について言えば、御 承知のように、わが国では古今東西、いろんな工夫がされてきた。霞堤、遊水池、乗っ越し堤、輪中堤、2線堤(控え堤)などである。それに対して、近代治 水、それは現在の治水ということであるが、それは明治以来の西洋の近代技術である。私は、もちろん、近代治水技術を軽視する訳ではない。そうではなくて、 わが国古来の伝統的な治水技術を見直して近代治水技術をさらに合理的なものにレベルアップできないかということである。治水については、既に従来の治水方 式から総合治水へ、そ して最近ではさらに総合治水から流域治水へと考え方が大きく変わりつつあるが、 治山についてはまだまだではないか。従来の考え方がそれほど変わったとは思われない。流域治水は、治水が治山と一体のものになって初めて大きな効果を発揮 する。そのように考えたとき、大畑のみなさんが取り組んでおられる「大畑原則」、つまりサステイナブルコミュニティーの考え方は、おおいに注目すべ き・・・・真に重大な課題を含んでいる。治山というか林業についての考え方に重大な警鐘を鳴らしている。私は、サステイナブルコミュニティーを考える場合 には、治水はもちろんのこと、治山のあり方もやはり・・・・「大畑原則」にしたがって考えるべきであると思うのである。私の新技術論が、つ まりこの世の 「立たせない力」というものが・・・・、どう「大畑原則」と関連してくるのか、その点を具体的に考えてみることとしたい。教材は下記の報告書である。

 


 

 大畑川では1998 年9月に未曾有の大災害があった。次のものはその報告書である。この災害報告は 県や建設省や或いは大学などの公的な機関でまとめられたものではなく、地域のボランティア団体によってまとめられた。「大畑原則」が背景にあって大変示唆 に富んだ災害報告となっている。次回はこれを紹介しながら「大畑原則」にもとづく治山治水のあり方を考えてみたい。乞う御期待!

 

 

 

 

それでは、「大畑原則」にもとづく流域治水論を少し考えてみたいと思 う。

その前に新技術論の要点をもう一度振り返っておこう!

 ここをクリックして下さい!

 

註1:新技術論と大畑原則(その1)・・・新技術論の要点・・・ 

註2:新技術論と大畑原則(その2)・・・民間技術開発(立たせる力)の 優位性とその限界・・・

註3:新技術論と大畑原則(その3)・・・流域治水・・・

註4:新技術論と大畑原則(その4)・・・地域の役割・・・

註5:新技術論と 大畑原則(その5)・・・大畑川の管理基本方針(案)・・・

 

 

 

Iwai-Kuniomi