ドナルド・キーンの明治天皇

 

 

私は先に、ドナルド・キーンの著書「明治天皇」について、私はちょっと気になることがあると申し上げた。下巻の帯のことだ。つまり下巻の帯の・・・「天皇。われわれ日本人を今日へ導いたのは、この指導者だった・・・。祭り上げられるだけの存在から、いつしか一国を指導する自信に満ちた統治者へ・・・・。」・・・・という文章は、私にはあまりにも復古調すぎるように感じられたからだ。「祭り上げられるだけの存在から、いつしか一国を指導する自信に満ちた統治者へ・・・。」というのは事実をそのまま表現したものとして良しとしよう。しかし、「われわれ日本人を今日へ導いたのは、この指導者だった・・・。」というのはちょっと言い過ぎではないのか。歴史の連続性から言えばもちろん明治から今日続いているのだが、その間、天皇制の連続性からいえば終戦による大きな断絶があるのではないか。直感的に言えば・・・・、今日あるのはむしろ国民主権の新憲法のおかげである。わが国の歴史上初めて神格化された明治天皇を礼賛するがごとき言い方は如何なものか。大いに誤解を生むのではないかと思う。言葉には余程注意をせざるをなるまい。

この著書は明治という激動の時代を描ききったキーン史学の金字塔だといってよいのだが、私が気にするのは、キーンもこの帯を書いた人も・・・・天皇制というものをあまりにも不用意に取り上げてはいないか・・・・ということだ。私は積極的に天皇制を肯定する立場であるが、そういう立場からすると、この本には天皇制を論理的に肯定する手がかりが無い。私は、明治という時代は、或いは明治という時代の法律制度も含めた・・・・すべての事柄というものは、歴史的な必然性をもっているし、すばらしかったと思う。明治の重臣たちは本当にすばらしかったし、その頂点に明治天皇が居られるということは間違いない。しかし、私が今言いたいことは、これからあるべき日本国の姿に照らしたときどうなるというのかということだ。この本によって明治憲法を否定することができるのかということだ。できないだろう。「一国を指導する自信に満ちた指導者」という姿が、西田幾多郎のいう「無の有」に当たるのかということだ。当たらないだろう。現在の思想からは、明治憲法は否定されなければならないし、「一国を指導する自信に満ちた天皇」というものは否定されなければならないだろう。

私は、中村雄二郎流の言い方をすれば、私たちは歴史を生きなければならない。歴史を生きるということは、さまざまな歴史的事件との対話の中で、さまざまな歴史的事件との響き合いの中で自分の生き様を生きるということだ。歴史に学ぶのではない。歴史と響き合うのだ。私もこの本を読んでやはり明治の重臣たちに強い感銘を覚える。「一国と指導する自信に満ちた天皇」に深い畏敬の念を覚える。私との間で響き合いがあるのだ。私の中でまざまざと明治の歴史が再現される・・・・、そのような感覚を覚える。多くの人が同じような感覚を覚えるだろう。中村雄二郎のいうところの共通感覚といってよいのかどうか判らないが、この本を読んでのそういう感覚からは上記のような否定は難しい。そういう意味で私が下巻の帯を見て感じた不安はあながち見当違いというものでもない。読後にも確かにそう思う。

 

再度言う。この本を読んで、明治天皇を頂点とした明治政府の重臣たちに今さらながら強い憧れを感ぜざるを得ない。幕末から明治にかけて何故このようにすばらしい群像を輩出したのか。その秘密を解き明かさなければならない。明治天皇は紛れもない偉大な帝王である。つくづくそう思う。しかし、私が問題にしたいのはそういう一人一人の人間のことではない。そうではなくて、そういう偉大な天皇や重臣たちを生み出した秘密のことであり、あるべき天皇制というシステムのことである。私がいうあるべき天皇制というのはもちろん立憲君主制における天皇制ということではなく、象徴としての天皇のあり方及び皇室のあり方のことであり、国としてのシステムのことである。日本国民が元気を出してやっていけるシステムのことである。日本が世界平和に貢献していくためのシステムのことである。個々の政策もさることながら、私は、今、そういう日本国の政治、社会、経済システムが如何にあるべきかということに重大な関心がある。もちろん、私の身に余る問題ではあるが、現在の政治、社会、経済情勢を見るとき、たとえ如何に非難され笑われようとも、浅学非力を顧みずに自分の思うところを世の中に訴えねばならない。それが国会議員としての当然の義務であろう。

 

 

 

明治23年という年は、7月1日に第一回の衆議院議員選挙が行われ、10月30日に教育勅語が下賜(げし)され、さらに11月29日に第一回帝国議会開院式が行われるというまことに記念すべき年であるが、実は、その秋、とんでもないことが始まった。それまでは官立学校だけに限定されていた天皇皇后の御真影に対する拝礼が、忠君愛国の精神を涵養する手段として、尋常小学校や幼稚園にまで及んだのである。天皇崇拝、さらには天皇神格化の種がまかれたのである。ドナルド・キーンの「明治天皇」には当時高等中学校の嘱託職員だった内村鑑三の苦衷が紹介されているが、今から思えば、もうこの時点で大変な時代に入っていたのかもしれない。天皇神格化の種、・・・・・・何故そんなものがばら撒かれるようになったのか。私は、このなぞを解くことこそもっとも肝心であると思う。しかし、ドナルド・キーンの「明治天皇」を読むかぎりその謎を解く鍵は見当たらない。その謎は、やはり、幕末の尊王思想とそれにもとづく一連の歴史的事件を哲学的な目で見ていかないと解けないのではないかと思う。思想と歴史に関する哲学がないと解けないかと思う。言葉と行為に関する哲学が必要なのだ。それはまさに「場所の問題」であるのだろう。私は「場所の論理」の助けを借りないと解けないのでないかと思っている。アイデンティティーとか共通感覚はどのように形成されていくのか。西田幾多郎の言う「自己限定」とは何か。その辺の十分な理解が必要だ。その辺は今後追い追いと勉強していきたいと思うが、とりあえず、天皇制について私の考えを披瀝しておきたい。

 

種というものは生命の源であり、成長の出発点である。どのような社会変革の種が仕込まれているか、それによって社会の変革は定まるのであって、元気の種が仕込まれていないとイキイキした社会にはならないし、道徳の種が仕込まれていないと道徳的な社会にはなる筈がない。すべて種である。社会変革の種とは社会システムの根本であるのだが、それはとりもなおさず憲法のことである。

日本国においては天皇及び皇室というものの果たす役割は決して小さくはない。だとすれば、天皇及び皇室のあるべき姿というものは、もっと真剣に議論されて然るべきである。私は、第9条もさることながら、天皇及び皇室のあるべき姿から、どうしても現憲法を改正すべきだと考えている。わが国の歴史と文化を十分吟味しながらわが国の自主独立性をどうしても憲法に反映させなければならない。現在わが国は、「国家としての知」が極めて薄弱である。これを急いで鍛えなおさなければならない。憲法論議の中で・・・ということだ。現憲法において、象徴規定にはとくに法的な意味はなく,また国民を統合する機能は憲法上天皇には期待されていない。しかし、それで果たして良いのだろうか。明治憲法はともかくとしても、それまでの日本の歴史と文化に照らして考えたとき果たしてそれで良いのかというのが私の問題提起だ。

私の考えとしては、天皇が日本国民統合の象徴として存在するためには、現憲法で決められた国事行為のみならず、さらにできるだけ多くの国民と触れていただく必要があるのではないかと思う。政治活動や宗教活動は厳に除外されなければならないが、その他の国民の活動、つまり文化活動においては、もっと国民と触れ合うことのできる・・・できるだけ多くの機会を持っていただく必要があるのではないか。天皇及び皇室と私たち国民との間の深い親愛の情というものが真の象徴天皇を支える基盤だ。天皇及び皇室と私たち国民とは深い親愛の情で結ばれている・・・、そのためのより発展的な社会システムが必要だ。「劇場国家にっぽん」の、「元気国家にっぽん」の、「平和国家にっぽん」の・・・・・新しい天皇制、それは「場所の論理」からくるところの当然の帰結である。

Iwai-Kuniomi